第2話 泥の底の生きかた
にごった水の向こうから、ゆらりと影が近づいてくる。細長い。ぬめっている。両脇にひげのような細い触角。えらがひくりひくりと動いている。
(……魚)
沼にいる、手のひらほどの地味な魚だった。
前世のわたしなら「あ、魚いる」で終わりだ。なんならちょっと可愛いとすら思ったかもしれない。
でも、今は違った。
その魚の感情のないまんまるの目が、まっすぐにこちらを——このぷるぷると震える青い塊を、とらえていた。じっと、値踏みするように。それからゆっくりと、口がぱくりと開いた。小さいけれど鋭い歯が、ずらりと並んでいるのが見えた。
(——え)
背筋がぞっと冷えた。背筋なんてないのに。
(え、ちょっと待って。まさか)
思い当たって、絶望した。
餌だ。わたしが。
そうだった。この世界でスライムは食物連鎖のいちばん底辺。魔物と呼ぶのもおこがましい、ただの動く餌。ゲームで最弱と名高いあのスライムですら、今のわたしよりずっと強いにちがいない。だってわたしは、勇者に挑むどころか——魚一匹から逃げることすら。
(逃げ、逃げなきゃ……!)
逃げようと思った。思っただけだった。
体が、まるで進まない。
ぷるんぷるんとその場で情けなく身をよじるばかりで、まったく動けない。水を掻くヒレもない。地を蹴る足もない。わたしはただ、泥の上でもがく青い水たまりだった。もがけばもがくほど体が歪んで、余計に無様だった。
魚がすいっと身をひるがえして、こちらへ突っこんできた。
(うそでしょ。二回目の人生、名前も残さず魚のごはんで終わり!?)
ぱくりと開いた口が、目の前に迫った。
もうだめだ。そう思って意識がきゅっと縮こまった——その瞬間だった。
わたしの体が、ひとりでにぐにゃりと動いた。
いや、動いたというより。体の表面が、ぶわっとひとりでに膜を張ったのだ。
自分でもなにが起きたのかわからなかった。ただ、死にたくない、食べられたくないという必死の思いに反応するみたいに、青い体の外側が薄い膜になってぴんと突っ張った。そしてその膜の一部がぐにゅうと盛り上がり、つんと鋭くとがった。
突っこんできた魚の鼻先が、その"とがり"にまともにぶつかった。
「ギュッ」
と、なんとも間の抜けた音が水の中にこもって響いた。
魚はびくんと全身を震わせると、あわてたように身をひるがえして、あっという間に光の届かない暗がりへ逃げていった。あとには巻き上げられた泥だけが、もやもやと残った。
(……た、すかった)
助かった。よくわからないけど、とにかく助かった。
わたしはしばらくのあいだ、ぷるぷる震えたままその場から動けなかった。動けないというか、へたりこんでいた。……へたりこむも何も、さっきからずっと泥の上なんだけど。
(今の、なに)
おそるおそる、自分の体を確かめてみる。
膜。とがり。さっき、たしかにわたしは——意思というよりは本能で——自分の体のかたちを変えた。
(体、変えられるんだ。わたし)
スライムって、そういうものなのかもしれない。決まったかたちがないぶん、思ったように伸ばしたり縮めたり、とがらせたり膜を張ったりできる。防御くらいにはなる。少なくとも、魚一匹を追い返せるくらいには。
ほんの小さな発見だった。世界を救うような力じゃまったくない。でもそれは、この最悪な泥の底で見つけた、たったひとつの「できること」だった。
*
問題は、そのあとすぐにやってきた。
膜を張って、とがらせて、魚を追い返す。ただそれだけのことで、わたしはどっと疲れきっていた。
(なんか……力が、ごっそり抜けた)
体の真ん中に、しんと冷たい感覚が居座っている。よくよくそこに意識を向けてみると、ぷるぷるの体のちょうど中心に、小さくてかたい"芯"のようなものがあった。ほかの部分はぜんぶゆるくて水っぽいのに、そこだけがこつんと確かな存在感を放っている。
ビー玉くらいの、透きとおった芯。
(これ……なんだろう。心臓みたいなもの?)
意識をそっと近づけると、なんとなくわかった。
これは、わたしの"核"だ。
この芯さえ無事なら、体の泥がばらばらに散ってもまた集まってわたしに戻れる。逆に言えば、これが壊れたらたぶんそれで終わり。わたしがわたしである、いちばんの証。
そして、はたと気づいた。さっき膜を張ったとき、この核がほんのわずかに——"痩せた"。
(力を使うと、これが減る……?)
いやな予感がした。前世で充電を忘れたスマホの、バッテリー残量がみるみる赤くなっていくあの感じ。あれを自分の命でやっているみたいな。
——確かめずには、いられなかった。
すぐそばに、小さな石がひとつ泥に半分埋まっていた。灰色の、なんの変哲もないただの石ころ。
その石を「見た」瞬間だった。体がひとりでに"それ"を欲しがった。取り込んで、知りたいという強い衝動。わたしはそれに逆らえないまま、ぷるんと体を伸ばして石を体の中へとぷんと沈めた。
……ふしぎな感覚だった。
石が、わたしの体の中でじんわりと"ほどけて"いく。
硬さ。冷たさ。ずしりとした重さ。ざらついた表面。ぎっしり詰まった粒の密度。石の"すべて"が、精巧な設計図みたいに頭の中へ流れこんでくる。舐めて、透かして、隅々まで覚えていく。それは前世で、まだ育てたことのない野菜の種をはじめて手のひらにのせたときの、あのわくわくにどこか似ていた。
やがて石をすみずみまで"理解"しきったとき、ふとわかった。
(作れる。この石を、もうひとつ)
やってみた。
体の真ん中の核に意識を集める。さっき覚えた石の設計図を思い描く。すると、わたしのぷるぷるの体の一部がみるみる色を変え、硬く、灰色に、ざらついて——ころん、と。
泥の上に、小さな石がひとつ転がり落ちた。
さっき取りこんだ石とうりふたつの、もうひとつの石。わたしが無から生み出した石。
(……ほんとに作れちゃった)
けれど、感動している暇はなかった。
どぷん、と。体の芯がいっきに冷たくなった。ビー玉くらいだった核が、目に見えて——おはじきくらいまで、しゅうう、と縮んでいた。
ぐらりと視界が歪む。体を保っていた泥が、ばらばらに崩れ落ちそうになる。かき集めようとしても力が入らない。寒い。指の先まで——指なんてないけど——ひどく寒い。たった石ころひとつを作っただけなのに、生きるための"なにか"を体の内側からごっそり削り取られたみたいだった。
(うそ……石、たった一個でこれ?)
死ぬ。と、本能がはっきり告げた。
このままもう一度でも複製を使えば、この核は消える。わたしは三度目の人生を、この泥の上で、石ころを二つ残しただけで終える。
わたしは必死で、崩れかけた体を核のまわりにかき集めた。ぷるぷると震えながら、ただ散ってしまわないように。消えてしまわないように。存在しつづけるだけで精いっぱいだった。
……どれくらい、そうしていただろう。
ようやく崩壊がおさまってきたころ、わたしはため息のかわりに体をゆるめた。
(……はは。すごい力じゃん、これ)
乾いた笑いが心の中でこぼれた。
石をいくらでもコピーできる。武器にも道具にも、なんにだって化ける。……ただし一回使うたびに、こうして死に近づく。命と引き換えに。
(そんなの、宝の持ち腐れもいいところだよ)
泥の上に並んだ二つの石ころを、わたしはうらめしく見つめた。力があっても、使えないんじゃ意味がない。
挫折なんて呼ぶにはあまりにも小さなつまずき。それでも、冷えきった核を抱えたわたしの心は、たしかにぽきりと折れかけていた。
*
このままじゃ、じり貧だ。
動けば魚に狙われる。力を使えば命の芯が削れる。かといってじっとしていても、じわじわ弱っていくだけ。八方ふさがり。詰み。
(……お腹、すいた)
場違いに、そんなことを思った。
いや、空腹というのとは少し違う。もっと根っこのほう、核のいちばん奥が、なにかを切実に求めて渇いている。そういう感覚。
ちょうどわたしのすぐ横で、緑色の藻がゆらゆらと水に揺れていた。ぬるついて青くさい沼の水草。前世なら口に入れるなんて考えただけでぞっとしたはずだ。
なのに今は、どういうわけか、それがたまらなくおいしそうに見えた。
ためしにぷるんと体を伸ばして、藻の切れ端をそっと取りこんでみる。
——あ。
じん、と。
核に、ほんのわずかだけれど、あたたかいものが戻ってきた。
おはじきくらいにしぼんでいた核が、少しだけふっくらふくらんだ気がする。冷えきっていた芯の奥に、ぽっと小さな熱が灯る。冬の朝、かじかんだ手を白い息であたためたときのあの感じに似ていた。
(食べると……戻るんだ、これ)
わかった瞬間、わたしはもう夢中だった。体を伸ばしては、まわりの藻を片っぱしから取りこんでいく。ぬるくて青くさくて、お世辞にもおいしいとは言えない。むしろまずい。でも、食べるたびに核に力が少しずつ満ちていく。その感覚だけが、たまらなくうれしかった。
複製で削れた命を、食べることで取り戻せる。
そのたったひとつの理屈がわかっただけで、真っ暗だった気持ちの真ん中に、小さなあかりがぽっとともった。
(生きて、いけるかも)
むやみに力を使わなければいい。ちゃんと食べて、命を蓄えて、ここぞというときだけ複製を使う。命の残量と相談しながら。それならこの最弱のぷるぷるの体でも、なんとか生き延びていけるかもしれない。
わたしは藻を食べながら、あの二つの石ころをそっと体の下に敷いた。
はじめて命を削って生み出した、なんの役にも立たないただの石ころ。でもなぜだろう。どうしても、捨てる気にはなれなかった。
*
少しだけ核に力が戻って、体がまた動かせるようになってきたころ。
ふと、わたしは"それ"に気づいた。
沼のずっと奥。にごった水の、そのまた底のほう。
なにか、途方もなく大きなものがある。
姿は見えない。音もしない。それなのに、そこからじわりじわりと、なにかが脈打つみたいに、低く重たい気配がこの沼ぜんたいに染み出している。
生あたたかくて、どこかなつかしくて、それでいて産毛が逆立つみたいにおそろしい。まるで地の底のずっと深くで、大きな大きな心臓がひとつ、ゆっくり脈を打っているみたいな。
(……なに、これ)
わたしは思わず身をすくめた。
この沼は、ただの沼じゃない。
なぜかそう確信した。理屈じゃなく、体の芯がそう告げていた。この脈打つ気配は、わたしがこんな姿でこの場所で目覚めたことと、きっとどこかで繋がっている。
わたしがなぜ死んだのか。なぜスライムになったのか。あの家族の形見が今どこにあるのか。
そのぜんぶの答えは、きっと——あの底に沈んでいる。
(……いつか、ぜったい、あそこに行かなきゃ)
でも今のわたしは、あまりにも弱い。
魚一匹から逃げることもできない。石ころひとつで死にかける。掌にのるくらいの、小さな小さな青い水たまり。あの底にたどり着くには、生き延びて、力をつけて、「できること」をひとつ、またひとつと地道に増やしていくしかない。
わたしはぷるんとひとつ大きく体を震わせて、泥の上でまっすぐに——まっすぐになったつもりで——顔を上げた。顔はないけど。
(見てなさいよ)
誰に言うでもなく、心の中で静かに宣言する。
(わたしはヴィオラ・アッシュフィールド。畑を耕す変わり者で、最弱のスライムで——でも、まだぜんぜん終わってない)
なぜ死んだのか、思い出す。両親のたったひとつの形見を取り戻す。そのためにまずは、なにより生き延びる。この最悪で最低な泥の底で、なんとしても。
二つの石ころを体の下に大事に敷いたまま、わたしの三度目の人生は、どろどろの沼の底でひっそりと、けれどたしかに始まった。
(……とりあえず、あの魚が戻ってくる前に、隠れる場所さがそっと)
決意も覚悟もけっこう。それはそれとして。
現実はいつだって、涙が出るほど地味だった。




