第1話 泥の中の私
泥の味で目が覚めた。
いや、味なんてものをどこで感じているのかもわからない。舌はない。口もない。それなのに、生ぬるくてどろりとした、鉄さびと腐った草の混じった味が、じわじわと全身に染みこんでくる。
匂いも同じだった。淀んだ水の饐えた匂い。泥の底の湿った土の匂い。鼻もないのに、いやになるほど濃くまとわりついている。
寒くて、ぬるくて、重たい。
(……ここ、どこ)
ぼんやりとした意識の底で、まずそう思った。
体を起こそうとした。けれど「起こす」という感覚が、どうにも体とつながらない。手をつこうにも手がない。足で踏ん張ろうにも足がない。あるのはただ、ぷるんと揺れる頼りない感触だけ。まるで薄い膜に閉じこめられた水そのものになって、その真ん中に意識だけがぽつんと浮かんでいるみたいだった。
こわごわとまわりを見ようとした。これも変な話で、目玉なんてどこにもないのに、周囲の景色がぼうっと感じ取れる。
真上ににごった水の層。そのずっと向こうに、ゆらゆらとにじむ弱い光。木漏れ日だろうか。斜めに差しこむ光の帯の中を、細かな泥の粒が雪みたいにゆっくりと舞っている。まわりには沈んだ倒木。ぬめる岩。ゆらめく緑の藻。どこからか立ちのぼる小さな気泡。
そしてその景色のちょうど真ん中に、ひとつ異物があった。
掌にのるくらいの、半透明の青みがかった丸い塊。ふるりふるりと、呼吸みたいに頼りなく震えている。
わたしはしばらく、それをぼんやり眺めていた。
……眺めていた。
(え)
ようやく気づいた。それが、わたしだった。
「…………」
声を出そうとしたけれど、出なかった。当たり前だ。口がないんだから。それでも頭の中の言葉だけはちゃんと回ったので、わたしは心の底からありったけの力で叫んだ。
(スライムじゃん!!!)
どこからどう見てもスライムだった。ゲームで一番はじめに出てくる、経験値はスズメの涙、剣の一振りで消し飛ぶ、あのぷよぷよの雑魚モンスター。水色でまんまるの、弱さの代名詞。それが今のわたし。
(うそでしょ。うそでしょ、うそでしょ)
混乱で体がぶるぶる波打った。波打つたびに青い体が歪んで、余計に落ち着かない。落ち着けと言い聞かせても、そもそも落ち着き方がわからない。深呼吸をしようにも肺がない。
どうしてわたしが、こんなことに。
その問いを追いかけるように、ばらばらになった記憶の欠片が、にごった水の底からひとつ、またひとつと浮かびあがってきた。
*
いちばん古い記憶は、遠い別の世界のものだった。
現代の、日本。
狭いけれど日当たりだけはいいアパートのベランダに、いくつも並べた鉢。ミニトマトの青くさい葉の匂い。土に指を差しこんだときのしっとりした感触。小さな緑の実が日ごとに色づいて赤くふくらんでいくのを、毎朝しゃがみこんで眺めるのが、なにより好きだった。
特別なことはなにもない人生だった。人よりちょっとだけ土や植物が好きで詳しかった。ただそれだけの、ふつうの女の子。その暮らしがいつ終わったのかは思い出せない。気がついたらわたしは、別の世界の別の体の中にいた。
次の記憶はそちらのものだ。
子爵令嬢、ヴィオラ・アッシュフィールド。
「令嬢」なんて響きとはうらはらに、アッシュフィールドの領地は痩せて乾いて、作物もろくに育たない貧しい土地だった。屋敷は古びて、使用人も数えるほど。両親はわたしが幼いころ、旅の途中で事故に遭って、二人そろって亡くなっていた。だからわたしには、両親の顔のはっきりした記憶さえほとんどない。
残されたわたしを引き取ったのは叔父だった。叔父のオズワルドは当主の座におさまると、屋敷もわずかな財産も、ぜんぶ自分のものみたいに握りしめた。わたしは名前だけの令嬢で、屋敷の隅のいちばん狭くて寒い部屋をあてがわれていた。
それでもわたしは腐らなかった。前世で覚えた土の知識があったからだ。
この痩せた領地を、なんとかできないか。作物が実れば、領民の暮らしも少しは楽になる。そう思って、わたしはドレスの裾を泥で汚しながら畑に出た。土を掘り、堆肥を混ぜ、種を選び、水をやった。
でも、貴族の令嬢が自分の手で土をいじるなんて。
周りの目は冷たかった。令嬢のくせに畑仕事に精を出す変わり者だ、みっともない、頭がおかしいのでは。すれ違いざまのくすくす笑い。ひそひそ声。叔父にいたっては「家名の恥だ」とはっきり顔をしかめた。
誰も、わたしのやろうとしていることをわかってくれなかった。わたしをまっすぐ見てくれる人なんて、ほとんどいなかった。
……ほとんど、というのは。
そこまで思い出したとき、記憶がふいに白くにじんだ。
誰か、ひとりだけ、やさしくしてくれた人がいた気がする。わたしの話を笑わずに聞いてくれた、誰か。その人の顔を思い出そうとすると、なぜか胸の奥がきゅっと痛くなって、そこでまた、ぷつりと途切れた。
(……そして、わたしは)
(死んだ、んだよね)
そこから先が、墨を流したみたいに真っ暗だった。
どれだけ手を伸ばしても、闇の中にはなにもつかめない。何があったのか。どうして死んだのか。誰と、どこで、何を。ぜんぶが濃い霧の向こうに沈んでいて、指先が届かない。
ただ、ひとつだけ。
最後のいちばん最後の瞬間に、わたしはこの手にあたたかいものをぎゅっと握りしめていた。手のひらにちょうどおさまる、小さな金属の感触。開くと中には絵姿が入っていた。若い父と母と、その腕に抱かれた幼いわたし。三人の、たった一枚の家族の絵姿。両親が遺してくれた、ただひとつの形見のペンダントだ。
(あれ……どこ、いったの)
思い出そうとした瞬間、体の芯にずきんと鋭い痛みが走った。痛む芯なんて、この水っぽい体のどこにあるのかもわからないのに。わたしはぷるぷる震えながら、その痛みが引くのを待った。
(……だめだ。思い出せない)
悔しかった。自分のことなのに。自分の死に方さえ思い出せないなんて。
でも、たったひとつだけ、はっきりしていることがある。わたしは、なぜ死んだのかを知らない。あの形見が今どこにあるのかも、知らない。
(——ぜったいに、思い出してやる)
なんの根拠もないけれど、燃えるみたいに熱い決意だけが、ぷるぷるの体の真ん中でぽつんと灯った。
けれど、その決意にひたっていられたのは、ほんの十秒ほどだった。
ふと、頭上の弱い光がかげる。
水がぬるりと揺れた。
なにかが上のほうから、こちらへゆっくりと降りてくる。




