第4話 はじめての狩り
目が覚めたのは、腹が減っていたからだった。
腹なんてないのに、体の芯がきゅうっと縮こまって、それが「減った」の合図だと、もうわかるようになっていた。核が、ちりちりと乾いた声で餌をねだる。石一つを複製して死にかけたあの時から、この体は正直だ。マナが尽きれば、しぼんで動けなくなって、そのまま終わる。
(食べなきゃ、か)
狭い洞の中で、わたしはぷるんと身をよじった。ゆうべ聞いた、あの脈打つ音は、今は聞こえない。気のせいだったのかもしれないし、眠っているだけなのかもしれない。どちらにせよ、確かめる勇気は、まだない。今は、生きるほうが先だ。
そろそろと洞の口から顔を——顔があるのかは怪しいけれど——突き出して、外の様子をうかがう。にごった緑の水。差しこむ光は弱く、泥の匂いがいつもより濃い。
問題は、ここからだった。
わたしには、目がない。
いや、正確には、目に当たるものがない。今まで、まわりの様子は「感じて」いた。水のゆらぎ、影の濃さ、近づく気配。体ぜんぶで、ぼんやりと受け取っていた。悪くはない。悪くはないけれど、狩りをするには、心もとなさすぎる。獲物がどこにいて、どっちを向いているのか。それが、ふわっとしか、わからない。
(ちゃんと、見えたらな)
そう思った、その時だった。
体の表面が、ぴくりと、うずいた。
*
なんだろう、と念じるより先に、体が動いていた。
青い体の先っぽが、内側からぐうっと盛り上がる。透きとおった膜がふくらんで、まん中に、小さな黒い点が、じわりと浮かんだ。
(え。……え?)
とたんに、世界が、開いた。
ぼやけていた沼が、くっきりと像を結ぶ。水草の一枚一枚。泥に散らばる小石の陰影。ゆらめく光の筋。今まで「感じて」いたものが、はっきりと「見える」。色が、輪郭が、遠近が、いっぺんに流れこんできて、わたしはしばらく、それにのまれて動けなかった。
目だ。
わたしは、自分の体に、目を、作った。
(作れるの……? こんなの、勝手に)
そっと念じてみる。すると黒い点はくるりと向きを変え、洞の奥のほうを映した。もう一度念じれば、体の横のほうへ、つるりと移動する。決まった場所じゃない。作りたい所に、作れる。前世の目は、二つ、決まった位置にしかなかったのに。この体は、見たい所に、目そのものを持っていける。
(骨がないってことは、目の位置も、決まってないってことか)
ぞくりとした。悪くない、ぞくりだ。弱くて、頼りなくて、なんにもない体。けれど、なんにもないからこそ、なんにでもなれる。あの隠れ家で気づいたことが、また一つ、証明された気がした。
もっとも、ただではないらしい。目を保っているあいだ、腹の芯が、じわじわと減っていくのがわかった。石を複製するほどの、命を削るような痛みではない。けれど、水を垂らしっぱなしにするみたいに、少しずつ、確かに、マナが漏れていく。
(見えるのは便利。でも、つけっぱなしは、燃費が悪い、と)
覚えておこう。この体のことは、一つずつ、体で覚えていくしかない。教科書はどこにもないのだから。
*
目を得たわたしは、俄然、狩りに前向きになった。
見える、というのは、こんなにも心強い。獲物の位置も、逃げ道も、迫る影も、前もってわかる。さっそく、洞のそばの泥をさぐると、いた。指の先ほどの、小さな虫。まるまると太って、のろのろ這っている。
(あれなら、いける)
わたしはそろそろと近づいて、体の先を伸ばし、包みこもうとした。
――が。
虫は、思いのほか、すばしこかった。ぴょん、と泥を蹴って、あっさり逃げていく。伸ばした体は、むなしく泥をなでただけ。
(に、逃げられた……!)
目は手に入れた。でも、つかまえる手が、ない。見えるようになったぶん、自分に「手」がないことが、よけいに、もどかしい。
もどかしい、と思った、その時。
また、体が、うずいた。
*
今度は、迷わなかった。
見たい所に目ができたなら、つかみたい所に、手だってできるはずだ。わたしは逃げる虫に向かって、体の脇から、細くて長いものを、ぐうんと伸ばした。
青い、ひものような触手。それが、しなり、うねり、泥の上をすべって、逃げる虫に、ぴたりと巻きついた。
(つかまえ……た!)
じたばたと暴れる虫を、触手はしっかりと離さない。手繰り寄せて、体の中へ、ぽとりと落とす。とたんに、ちりちり乾いていた核が、ほっとゆるむのがわかった。じんわりと、あたたかいものが体にしみわたる。マナが、満ちる。
ほんの、虫一匹。それでも、自分の力でつかまえて、食べた。逃げまわるしかなかったわたしが、追う側にまわった。ちっぽけな一歩。でも、たしかな一歩だった。
(目と、触手。……わたし、狩れるんだ)
石ころを重しにして、目で見て、触手でつかむ。武器が、少しずつ、増えていく。この沼で、ただ怯えて逃げるだけの餌から、ほんの少し、抜け出しはじめている。
*
調子に乗ったのが、いけなかった。
二匹目を追って、洞から少し離れた、水草の茂みに踏みこんだ時だった。目のはしを、大きな影が、よぎった。
ふり向いて、見た。そして、後悔した。
魚だ。ゆうべの、手のひらほどの奴じゃない。その倍はある、腹の張った、ぬめり光る大物。まんまるの目が、こちらを——このぷるぷると身構える青い塊を、まっすぐに、とらえていた。えらが、ひくり、ひくりと動く。値踏みは、もう終わったという顔で。
(――餌だ。今度は、わたしが)
背筋が凍る。背筋なんてないのに、この感覚だけは、何度味わっても慣れない。逃げようと体を縮めた、その刹那、水がどっと押しよせて、開いた口が、まっすぐ突っこんできた。
*
考える暇は、なかった。体が、勝手に動いた。
わたしは体の中に忍ばせていた石ころを、触手の先に握らせ、迫る口の中へ、力いっぱい突き出した。
ごつ、と、石の切っ先が、魚の口の奥にめりこむ。
魚が、びくんと跳ねた。飲みこもうとした異物が、喉を突いたのだ。じたばたと身をよじり、にごった泥を巻き上げて、苦しそうに身をくねらせる。その隙に、わたしは触手で泥をつかんで、体を横っ飛びに——飛べはしないので、必死に引きずって、茂みの陰へ逃げこんだ。
心臓が、ないのに、どくどく鳴る気がした。
(あ、危なかった……。石ころ、また、命びろいさせてくれた)
役立たずだと思っていた、あの石。作った時は、あんなにがっかりしたのに。目も、触手も、石ころも。ぜんぶ、あの時のわたしが、必死にかき集めた「できること」だ。その一つ一つが、今、わたしを生かしている。
大物の魚は、しばらく喉を気にするように水を吐いていたが、やがて、こんな面倒な餌はごめんだとばかりに、ゆらりと背を向けて、去っていった。
勝った、とは、とても言えない。逃げきった。それだけ。それでも、ゆうべの、ただ震えるしかなかったわたしとは、もう違う。
*
茂みの陰で、わたしはようやく、ひと息ついた。息、つけないけど。
目を、そっと引っこめる。つけっぱなしはマナが減る。必要な時だけ、開く。この体との付き合い方が、また一つ、わかった。触手も、体の中へ戻す。使ったら、しまう。庭仕事で、道具を使ったら片づけるのと、同じだ。
(前世じゃ、土いじりくらいしか、取り柄がなかったのにな)
ふと、そんなことを思った。花壇にかがみこんで、雑草を抜いて、種を蒔いて。人からは地味だと言われた、あの日々。あの頃つちかった、土に向き合う根気だけが、今、この沼底で、たった一つの武器になっている。植物に少し詳しいだけの、なんの取り柄もない女。そのわたしが、目を作り、手を伸ばし、獲物を追っている。
人生、どこで何が役に立つか、わからないものだ。……人生と呼んでいいのかは、微妙だけど。
腹が、少し満ちた。体が、さっきより、ほんの少し、大きくなった気がする。食べて、生き延びて、また一つ「できること」を増やす。焦らなくていい。土の中の種は、あわてない。
そう、自分に言い聞かせて、洞へ帰ろうと、体の向きを変えた、その時。
*
水草の、ずっと奥。泥の底が、いちばん深く沈んだ、その暗がりに。
ぽう、と。
小さな光が、灯っていた。
魚の目の、感情のない光とは違う。もっと、やわらかくて、あたたかい。泥の中で、消えそうに、ちいさく、ちいさく、またたいている。まるで、寒さにこごえた、迷子の燐火みたいに。
(……なに、あれ)
捕食者の、ぎらついた気配は、まるでしない。それどころか、その光は、ひどく、弱っていた。弱って、ひとりぼっちで、震えているように、見えた。
沼の底で、いちばん弱いのは、わたしだと思っていた。
でも、あそこには、わたしよりもっと弱そうな、なにかが、いる。
近づいてはいけない、と、頭のどこかが言う。あの脈打つ音のことも、まだ忘れていない。それなのに、わたしの体は、その小さな光から、目を、離せなかった。




