第8話 裏のバディとの邂逅
二〇二〇年十一月。東京。
六本木にそびえ立つ高級レジデンスの最上階。壁一面を覆う巨大なガラス窓の向こうには、赤黒く濁ったネオンの海が地平線の彼方まで広がっている。霧雨に煙るロンドンの静謐で冷徹な夜とは違う、ひどく湿り気を帯びた騒々しい光の群れだった。
室内のメイン照明は落とされ、湾曲した複数の大型モニターが発する青白い光だけが、井上健太郎の顔に鋭い陰影を落としていた。
画面には、神崎グループおよび関連企業の株価チャートと、無数のダミー会社を経由した複雑な資金移動のトラッキングデータが、滝のように流れている。帰国してからの数週間、健太郎は表舞台に出ることなく、この部屋から水面下で神崎家を包囲するための外堀を埋める作業に没頭していた。
マウスをクリックし、次の海外口座へ資金の分散処理を実行しようとした、その時だった。
サブモニターの一つがふっと瞬き、強制的に真っ黒に塗りつぶされた。
健太郎はキーボードに伸ばしていた手をピタリと止め、目を細める。機材トラブルではない。冷却ファンの微かな駆動音が響く中、真っ黒な画面の中央に、白い文字がカタカタと自動で打ち込まれていく。
『ずいぶん丁寧に集めてるみたいね。神崎の株』
健太郎の表情から一切の感情が消え去った。
この拠点のネットワークには、海外の非合法なセキュリティ専門家から大金で買い取った、軍用レベルの強固なファイアウォールを何重にも構築している。それをシステムに一切の警報を鳴らさせることなく無傷で通り抜け、直接モニターへメッセージを割り込ませるなど、並のハッカーにできる芸当ではない。
健太郎は即座に手元のキーボードを叩き、通信経路の逆探知プログラムを走らせた。同時に、テキストエディタを開いて短い返信を打ち込む。
『誰だ』
『警戒しないで。あなたの口座のパスワードを抜くつもりはないし、あなたが「井上健太郎」という仮面の奥で何を考えているのかを暴くつもりもないわ』
画面上の文字は、まるで直接語りかけてくるような軽快なテンポで表示される。バックグラウンドで走らせている逆探知プログラムは、世界中のサーバーを無規則に跳ね回る高度な偽装IPに阻まれ、全く相手の現在地の特定に至らない。
『ただ、神崎家を潰そうとしている人間が他にもいるなら、手を組むのも悪くないと思って』
そのメッセージの直後、画面の一部に暗号化されたファイルのプレビューが展開された。
一見ただの乱数表の羅列だが、健太郎の目にはそれが何を意味しているのか瞬時に理解できた。神崎グループの裏帳簿データの一部だ。しかも、愛人である黒崎がコンサルタント名目で関連会社から巧妙に資金を横領している、決定的な証拠となる最新のトランザクション記録だった。
相手は、神崎家のシステムの深淵にまで潜り込み、この致死量の毒を抜き取っている。
『どう? 私の情報収集能力と、あなたのその莫大な資金力。組めば、あの家を確実に地獄に落とせる』
『ネット上でこれ以上話す気はない。直接会って交渉できるなら、考えてもいい』
数秒の沈黙の後、画面に短い文字が返ってきた。
『いいわよ。明日の十五時。渋谷のスクランブル交差点で。目印はプラチナブロンドの髪』
文字が消えると同時に、ブラックアウトしていたモニターは通常の状態に戻った。システムのログを確認するが、不正アクセスの痕跡は奥底まで完全に消去され、最初から何も起きていなかったかのように偽装されている。
健太郎は背もたれに深く体を預け、再び流れ始めたデータ群を見つめた。
神崎家を狙う、未知のハッカー。思わぬイレギュラーだが、この圧倒的な情報収集能力は、今後の戦略において強力な手札になる。
翌日。十五時。
渋谷のスクランブル交差点は、耳を塞ぎたくなるような喧騒と、交差する無数の人波でごった返していた。
健太郎は目立たないダークグレーのカシミヤコートを羽織り、信号待ちの群衆の最後尾に静かに立っていた。洗練された長身と、周囲を寄せ付けない冷徹な空気は、雑踏の中にありながらどこか異質な存在感を放っている。
「待った?」
ふいに、横から甘ったるい声がかけられ、右腕に柔らかな感触が絡みついてきた。
視線を向けると、プラチナブロンドのロングヘアを無造作に下ろした少女が、健太郎の腕を両手で抱え込むようにして立っていた。
年齢は十七、八歳といったところか。ハイブランドのロゴが大きくプリントされたオーバーサイズのジャケットに、着古したダメージジーンズを合わせている。エッジの効いたファッションと、挑発的で強気な瞳。十代特有の瑞々しさと、路地裏の野良猫のような警戒心が混在した、アンバランスな危うさを持つ少女だった。
「周りに神崎の探偵や、親の知り合いがいるかもしれないからね」
彼女は健太郎の腕に身を寄せ、周囲からは『歳の離れたカップル』か『パパ活の待ち合わせ』にしか見えない親密な距離感を保ちながら、口元だけで小さく囁いた。
「とりあえず、デートってことでよろしく。パパ」
その口調はふざけていたが、見上げてくる瞳の奥には、氷のような冷たさと相手を値踏みするような鋭い光があった。
健太郎は彼女が取ったカモフラージュの意図を瞬時に理解し、小さく息を吐いた。
「悪かった。女の子を待たせるつもりはなかったんだが」
健太郎は少女の芝居に完璧に合わせ、甘く低い声で応じた。そのまま自然な動作で彼女の腰に手を添え、青に変わった横断歩道の人混みの中へとエスコートするように歩き出す。少女の肩がわずかに強張るのが手を通して伝わってきたが、彼女はすぐに愛想の良い笑顔を貼り付け、周囲の目を欺き通した。
喧騒を抜け、たどり着いたのは松濤エリアにある会員制の静かなカフェラウンジだった。
厚い防音扉の向こうは、外の騒がしさが嘘のように静まり返っている。アンティーク調のランプが照らす奥の個室のソファに腰を下ろすと、少女は周囲に誰もいないことを確認し、先程までの甘えた声と表情をあっさりと捨て去った。
「木村心。それが私の名前」
出されたアイスティーのストローを弄りながら、心は真っ直ぐに健太郎を見た。
「木村……」
健太郎はグラスの冷たい水滴に触れながら、その名前を頭の中で反芻した。
自身の冷遇された過去の記憶の端にあった、ある出来事が思い起こされる。義母の貴子が電話口で、ひどくヒステリックに『木村の女』と喚き散らしていた呪詛のような言葉。
「神崎の会長の、隠し子よ。あの女……神崎貴子にとって、私は汚らわしいゴミの血。存在を隠され、母親はあの女の差し金で社会的に殺されて死んだわ」
心の声は平坦だったが、ストローを噛み潰す歯の力は異常に強かった。グラスの中の氷が、カランと冷たい音を立てる。
「私は、あの家の人間に復讐したい。全員の人生をめちゃくちゃにして、泥水を啜らせてやりたい。あなたが誰で、なんであの家を狙っているのかなんてどうでもいい。あなたの資金力と私の情報網があれば、それは可能よ」
「俺の口座履歴や身元を洗って、全てが高度に偽装されたものだと気づいたから接触してきた、というわけか」
「ええ。公的機関のデータベースまで完璧に書き換えるなんて、まともな人間のやることじゃない。だから信用したの」
健太郎は静かに心を見据えた。
これほど若い少女が、たった一人で巨大な財閥のネットワークに牙を剥き、その深奥まで到達してみせた。彼女の瞳の奥で燃える深い喪失感と、人間として扱われなかった事に対する純度の高い怒りは、健太郎自身がかつて抱えていたものと酷似していた。
「自分の血をゴミと呼ぶな」
健太郎の低く落ち着いた声が、静かな個室に響いた。
心がわずかに目を見開く。
「神崎の血が流れていようが関係ない。使える武器は全て使えばいい。……俺の目的も、あの家を跡形もなく解体することだ。そのためなら、手段を選ぶつもりはない」
健太郎は内ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作してテーブルの上に滑らせた。そこには、心を介して情報のやり取りを行うための、高度に暗号化された専用の通信アプリが立ち上がっていた。
「黒崎の横領の件だけじゃない。神崎グループの裏帳簿、麗華のプライベートな通信記録、全てを抜け。俺はそれを、最も致命的なタイミングで市場とメディアに放り込む」
「……本気なのね」
「遊びで数億の金を動かす馬鹿に見えるか?」
健太郎が口角をわずかに上げると、心は数秒間彼を見つめ返し、やがて獰猛な笑みを浮かべた。
「いいわ。最高に面白くなりそう。……よろしく、共犯者さん」
心がテーブルの上のスマートフォンを手に取り、素早い指付きで自分の端末と同期させる。
一時間後。
カフェを出た二人は、再び渋谷の街の喧騒の中に戻っていた。西に傾きかけた太陽が、ビルの谷間に長い影を落としている。
「じゃあね。何か面白い情報が抜けたら、すぐ専用回線に送るわ」
心はジャケットのポケットに両手を突っ込み、ひらひらと片手を振った。先程までのヒリヒリとするような緊張感は薄れ、どこにでもいる生意気な十代の顔つきに戻っている。
「あまり無茶はするな。物理的な接触が必要な時は、俺が動く」
「わかってるって。子供扱いしないでよ」
心はふくれっ面をして見せたが、その直後、健太郎の顔を見上げて少しだけ視線を泳がせた。
「……今日は、ごちそうさま。ケーキ、美味しかった」
それだけを早口で言い残し、心は照れ隠しのように人混みの中へと駆け出していった。プラチナブロンドの髪が、点灯し始めたネオンの光の中で小さく揺れて見えなくなる。
健太郎は彼女の後ろ姿が完全に群衆に紛れるまで静かに見送ると、冷たい秋風に向かって歩き出した。




