第9話 帰国、そして再会
二〇二〇年十一月。六本木にそびえ立つ高級レジデンスの最上階。
湾曲した三枚の大型モニターが放つ青白い光が、照明を落とした室内に冷たい陰影を落としている。
井上健太郎は革張りのチェアに深く身を預け、画面上を滝のように流れるデータの羅列を無言で見つめていた。数日前に接触してきたイレギュラーな共犯者、木村心のハッキング能力は、健太郎の想定を遥かに凌駕していた。彼女が神崎グループの深層サーバーから引き抜いてくる生データと、健太郎が持つ未来の記憶。その二つを照合し、網目を一つずつ編み上げていく作業が、帰国してからの健太郎の日常だった。
手元のキーボードを叩き、海外のダミー口座をいくつも経由させたトラッキングプログラムを走らせる。モニターの端に表示された別ウィンドウには、神崎麗華の愛人である黒崎翔が、コンサルタント名目で関連会社から横領を行っている決定的な資金移動のトランザクションが、すでに暗号化されて保存されていた。
どのタイミングで、どのメディアを使い、いかにして彼らの退路を断つか。
健太郎はマウスから手を離し、デスクの端に置かれていたマグカップを手に取った。淹れてから時間の経ったブラックコーヒーは完全に冷めきっており、舌の根に強い苦味だけを残した。
スイスのクリニックで顔の骨格を破壊し、ロンドンで徹底的な教養を身につけていた数年間、健太郎は自分の内側にある感情の起伏を意図的に削り落としてきた。今、目の前で完成しつつある破滅のシナリオを見ても、胸に湧き上がるのは暗い達成感に似た何かであって、決して喜びや高揚ではない。
スマートフォンの画面が短く点灯し、予定を知らせるアラートが鳴った。
健太郎は冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がり、仕立ての良いダークネイビーのジャケットを羽織った。無機質な静寂に包まれたペントハウスを後にする。
向かった先は、世田谷区の閑静な住宅街にある、完全予約制のキャッテリーだった。
案内された清潔な個室には、微かなミルクの匂いと、動物特有の柔らかな体臭が漂っていた。暖房が適切に効いた室内で、ブリーダーの女性がケージから一つの小さな毛玉を取り出し、消毒されたテーブルの上にそっと置いた。
「生後五十七日になります。健康状態は極めて良好で、ワクチンも一回目を済ませたばかりです」
ブリーダーの女性が、少しだけ寂しそうな、しかし誇らしげな声で説明をする。
健太郎の目の前にいるのは、淡いシルバータビーの毛並みを持ったスコティッシュフォールドの子猫だった。特徴的な折れ曲がった小さな耳と、大きな丸い目。体重は一キログラムにも満たず、健太郎の大きな両手にすっぽりと収まってしまうほどのサイズだ。
子猫は見知らぬ大男を見上げて瞬きをし、警戒する様子もなく、小さな鼻をひくひくと動かして健太郎の指先の匂いを嗅ぎ始めた。
「抱いてみますか?」
「……ああ」
健太郎はジャケットの袖をわずかに引き、両手でそっと子猫の胴体を持ち上げた。
驚くほど軽く、柔らかかった。しかし、毛玉のようなその小さな体からは、不釣り合いなほど力強く、小刻みな心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。手のひらを通して感じる熱と、トクトクという命の律動。
なぜ、帰国して早々にこんな小さな生き物を買おうと思ったのか。
これから始まるのは、標的を徹底的に追い詰め、欺瞞と悪意の泥沼に引きずり込むための冷酷なゲームだ。多忙を極めるそのさなかに、手のかかる命を抱え込むことなど合理的ではない。
だが、ロンドンで帰国の準備をしていたある夜、ふと、自分の内側にある温度が完全に枯渇してしまったような、底知れない虚無感に襲われたことがあった。
誰にも見返りを求めず、ただそこにあるだけの無垢な命。それを自らの手で生かし、守るという行為によって、自分の中にある何かの欠片を、この世界に繋ぎ止めておきたかったのかもしれない。
「お名前は、もうお決まりですか?」
「いや。連れ帰ってから、ゆっくり考えることにする」
健太郎は子猫を専用のキャリーバッグに移し、ブラックカードで代金を決済した。
ペントハウスに戻り、リビングの隅にあらかじめ用意しておいたケージに子猫を入れる。
初めての場所に戸惑う様子もなく、子猫は不器用な足取りでケージ内を数周探索し、やがてふかふかのベッドの真ん中で丸くなった。小さく喉を鳴らす音が聞こえ、数分もしないうちに静かに眠りにつく。
その無防備な寝姿を無言で見下ろした後、健太郎は再び外出の準備を整えた。
守るべき小さな命は、今ここにある。
ならば次は、この目で確かめに行かなければならない場所があった。
地下鉄を乗り継ぎ、たどり着いたのは神崎グループの本社ビル周辺だった。
巨大なガラス張りの威圧的なビルディングを遠目に一瞥し、健太郎は迷うことなく裏手の狭い路地へと足を踏み入れた。
雑居ビルと搬入口に挟まれた、薄暗く埃っぽい通り。四年前、土砂降りの雨の中で泥水にまみれ、絶望してうずくまっていた場所。
アスファルトの冷たさと、あの日の雨の匂いが、錯覚のように鼻腔を掠めた。
記憶のままの場所に、その小さな喫茶店はあった。
錆びかけたアンティーク調の看板、手書きのメニューボード、そして、中から漏れ出す焙煎されたコーヒー豆の深い香り。
健太郎は微かに息を吐き、木製のドアの真鍮の取っ手に手をかけた。
カラン、と古風なベルの音が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、透き通るような声が聞こえた。
健太郎の視線が、声の主を捉える。
茶色いエプロンを着け、長く美しい黒髪を後ろで緩く束ねた女性。吸い込まれるような大きく神秘的な黒い瞳と、透き通るような白い肌。
林優香だった。
現在の彼女は二十一歳の大学生になっているはずだ。記憶の中にある姿よりもわずかに大人びた印象を受けるが、その根本にある裏表のない純粋な空気は、何一つ変わっていなかった。
「お一人様ですか? お好きな席へどうぞ」
優香は健太郎に向けて、ごく自然な、しかし丁寧な微笑みを向けた。
彼女にとって今の健太郎は、仕立ての良いスーツを着こなした、見知らぬ客の一人に過ぎない。
「カウンターで構わないか」
「はい。どうぞ」
健太郎はカウンターの端の席に腰を下ろした。
静かなジャズが流れる店内には、数人の客がいるだけで、落ち着いた時間が流れている。
「ご注文は、お決まりですか?」
「ブレンドを一つ。ブラックで」
「かしこまりました」
優香は手際よくサイフォンを準備し、コーヒーを淹れ始めた。
アルコールランプの火が灯り、ガラスのフラスコの中でお湯が湧き上がる。コーヒーの粉が熱湯と混ざり合い、豊かな香りが周囲に立ち昇っていく。健太郎はその一連の静かな動作を、ただ無言で見つめていた。
彼女がこうして平穏な日常の中で呼吸をし、誰かに温かいコーヒーを淹れている。その当たり前の光景が、今は何よりも眩しく感じられた。
やがて、白い陶器のカップに並々と注がれたコーヒーが、健太郎の前に静かに置かれた。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
「……ありがとう」
健太郎はカップの取っ手に指をかけ、ゆっくりと持ち上げた。
陶器越しに、指先に伝わってくる確かな熱。
それは、四年前のあの冷たい雨の日に、両手で包み込んだ使い捨ての紙カップの熱と重なり合うようだった。
一口飲むと、深いコクと微かな苦味が喉を通った。
旨い。素直にそう思った。
「あの……」
優香が布巾でカウンターを拭く手を止め、少しだけ首を傾げた。
「何か、気になることでもありましたか?」
じっとカップを見つめたまま動かない健太郎を不思議に思ったのだろう。その瞳には、かつて路地裏でうずくまる男に向けたのと同じ、純粋な気遣いの色が浮かんでいる。
健太郎は、カップの縁をなぞっていた指を止めた。すぐに「いや」と返すつもりだったが、思いのほか声が喉の奥でつっかえた。
「……」
視線をカップの黒い水面から、優香の顔へとゆっくりと移す。
「いや……」
健太郎は小さく息を吐き、静かに首を振った。
「少し、昔のことを思い出していただけだ。……とても美味しい。良い豆を使っているなと思って」
「本当ですか? ありがとうございます。マスターがこだわって焙煎してるんです」
褒められた優香は、照れたようにふわりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、健太郎の胸の奥底で、固く結ばれた決意がさらに強度を増した。
これから自分が踏み込もうとしているのは、悪意と欺瞞に満ちた泥沼だ。到底、真っ当な人間の生きる世界ではない。
だからこそ、この純白の光だけは、絶対にあの泥沼に引きずり込んではならない。
彼女はこのまま、ただの女子大生として平穏に過ごし、いずれ自分とは無縁のどこかで幸せな人生を歩むべきだ。彼女の日常を陰から見守り、もし神崎家の火の粉が彼女に降りかかるようなことがあれば、その火元を根こそぎ消し炭にする。それだけだ。
「外、急に冷え込んできましたよね。ゆっくり温まっていってくださいね」
「ああ。そうさせてもらう」
優香の何気ない気遣いに、健太郎は低く落ち着いた声で短く応じた。
再びコーヒーを口へ運ぶ。
洗練された大人の男という仮面の下で、健太郎は冷めていくコーヒーの苦味をゆっくりと味わいながら、窓の外を行き交う人々の影を静かに見つめていた。




