第7話 『井上健太郎』の誕生
二〇二〇年十月。
霧雨が静かに煙るロンドン、メイフェア地区。二百年以上の歴史を持つサヴィル・ロウの老舗テーラーの店内には、上質なウールが擦れる微かな音と、古いマホガニー材の落ち着いた香りが漂っていた。
高い天井から吊るされたシャンデリアが、無数に並べられた生地の束を柔らかく照らし出している。その奥にある三面鏡の前に立つ一人の東洋人に、メジャーを首から下げた年老いたマスターカッターが畏敬の念を込めた溜息をついた。
「パーフェクトだ。ミスター・イノウエの肩の傾斜と胸板の厚みは、私がこの店で半世紀にわたって仕立ててきた顧客の中でも、間違いなく五本の指に入りますよ。まるで古代ギリシャの彫刻に服を着せているようだ」
鏡の中の男は、短く「悪くない」と応じ、軽く肩を回して腕の可動域を確かめた。
ダークネイビーの上質なウール生地で作られたスリーピース・スーツは、彼の鍛え上げられた肉体にミリ単位の狂いもなく吸い付いている。胸元からウエストにかけての滑らかなドレープは、最高級の生地と熟練の職人技の結晶だった。決して窮屈さを感じさせず、彼がわずかに動くたびに、生地が光を乱反射してなめらかな波を打つ。手縫いで仕上げられたラペルの美しいロールが、彼の顔立ちをさらに引き立てていた。
「袖丈はこれでいい。シャツのカフスが一・五センチ覗く、完璧なバランスだ」
「ご満足いただけて光栄です。次回は、冬物のツイードのコートなどもいかがでしょうか」
「考えておこう。まずは、このスーツを届けてくれ」
男――井上健太郎は、手首に光るアンティークの機械式時計を一瞥し、鏡の中の自分と静かに視線を合わせた。
顔の腫れはとうに引き、幾度にもわたる骨格の微調整を経て、新しい造形は完全に骨と肉に馴染んでいる。そこにあるのは、どこかの映画スターを思わせるような、洗練された圧倒的な美貌だった。
ただ端正なだけではない。深い二重の奥にある瞳には温度がなく、時折見せる口角のわずかな上がりが、見る者に底知れない危険さと大人の色気を感じさせる。かつて神崎家の庭で泥まみれになっていた男の面影は、もはや一切残されていない。
健太郎は仕立て上がったばかりのスーツから着替えることなく、ブラックカードで支払いを済ませて店を出た。
待たせていた黒いベントレーの後部座席に滑り込む。雨に濡れたロンドンの街並みが、防音ガラスの向こう側で静かに流れていく。行き交う赤いダブルデッカーや、黒い傘を差して足早に歩く人々の姿が、古い映画のワンシーンのように窓辺を横切っていった。
スイスから直接イギリスへ渡った彼は、この数年間、莫大な資金を湯水のように使い、自分自身という素材を徹底的に磨き上げてきた。
地獄のような肉体改造が終わった後、彼が次に取り組んだのは「教養と振る舞い」の完全なインストールだった。
元外交官の個人レッスンを連日受け、国際的なプロトコールと洗練されたテーブルマナーを徹底的に叩き込んだ。ナイフとフォークの角度、ワイングラスの持ち方、食事中の会話のテンポに至るまで、全てを体に覚えさせた。引退した名門貴族の指南役からは、乗馬や葉巻の扱い方、さらには「本物の富裕層」としての足の組み方、歩き方、そして何より重要な、他者に対する視線の配り方や間の取り方を学んだ。
ただ知識を詰め込むだけでは、メッキはいずれ剥がれる。それらを生まれ持った教養のように、無意識のレベルで引き出せるようになるまで、来る日も来る日も血を吐くような反復と実践を繰り返したのだ。
音声学の専門家を雇い、腹の底から響くような落ち着いた発声と、流暢なクイーンズイングリッシュやフランス語を脳と舌に刻みつけた。かつておどおどと裏返っていた声は、今は低く甘く、相手の警戒心を解きほぐすと同時に、有無を言わさぬ説得力を持つ武器へと変貌している。
今、健太郎の背筋は車のシートに深く預けられていても、決して丸まることはない。鍛え抜かれた体幹が、彼に自然で優雅な姿勢を約束している。ベントレーが交差点を曲がる際の遠心力に対しても、彼の上半身は微動だにしなかった。
車はハイドパーク近くの、会員制プライベートクラブの車寄せに静かに停車した。
ドアマンが恭しく傘を差し掛ける中、健太郎は革靴で濡れた石畳を踏みしめた。重厚なマホガニーの扉を抜け、シガーの甘い香りと薄暗い間接照明に包まれたラウンジへと足を踏み入れる。壁には古い油絵が飾られ、床には分厚いペルシャ絨毯が敷き詰められている。
フロアにいた数人の男女が、ふと会話を止め、健太郎の方へ視線を向けた。彼が放つ圧倒的なオーラと仕立ての良さが、空間の空気を一瞬で掌握したのだ。健太郎はその視線に一切の頓着を見せず、真っ直ぐに奥のVIPルームへと進んだ。
部屋では、ロンドンの投資銀行で幹部を務める初老のイギリス人が、すでにグラスを傾けていた。
「遅れて申し訳ない、ミスター・スミス」
「いや、私も今着いたところだ。座ってくれ」
健太郎が革張りのソファに腰を下ろすと、専属のソムリエが音もなく近づいてきた。
「食前のシャンパンは、クリュッグの二〇〇四年でよろしいでしょうか」
「いや」
健太郎は渡されたワインリストを開くこともなく、静かにソムリエの目を見た。
「今日は少し冷える。シャンパンではなく、シェリー酒を。アモンティリャードを室温で頼む」
ソムリエがわずかに目を見開き、深く一礼して下がっていく。向かいに座るスミスが、面白そうに目を細めた。
「君はいつも、私の予想を超える注文をする。東洋の若い投資家が、食前にシェリーを選ぶとはね」
「単に、今の気候に合っていると思っただけです」
健太郎は静かに微笑み、すぐに表情を引き締めた。二人の間で、冷徹なビジネスの駆け引きが始まる。
スミスが持ち込んできたのは、東南アジアの新興インフラ企業への大規模な投資案件だった。提示された分厚い英語の資料を、健太郎は数ページめくっただけでテーブルに置いた。
「ミスター・イノウエ、この案件は我々にとっても特上の――」
「数字が合いませんね」
健太郎の低く落ち着いた声が、スミスの言葉を遮った。
「資料の十四ページ。来期のキャッシュフロー予測ですが、現地の法改正による関税の引き上げリスクが完全に無視されている。さらに言えば、この企業が下請けに使っている現地の建設会社は、数ヶ月前に大規模な労働争議を起こしているはずだ。雨季の工期遅れに伴う違約金も含めれば、ここに書かれている利益率は到底達成できない。……その隠れ負債を、私の資金で補填する気ですか?」
「それは……一時的な問題に過ぎない。現地政府とのパイプも構築済みだ」
スミスの顔から、余裕の笑みがスッと消え失せた。彼は無意識のうちにネクタイの結び目に触れ、小さく咳払いをした。
健太郎は運ばれてきたばかりの琥珀色のシェリー酒を一口含み、氷のように冷たい視線でスミスを見据えた。
「政府とのパイプ、ですか。あの国で先週起きた政変の兆しを考慮すれば、そのパイプの寿命は長く持たないでしょう。私は慈善事業家ではない。正確な数字と、それに伴う適正なリターンがなければ、一ポンドたりとも出す気はない」
「……厳しいな。だが、君の言う通りだ。まさか現地の労働争議や政変の兆候まで調べ上げているとは」
スミスは白旗を上げるように両手を広げ、苦笑を浮かべた。
健太郎は小さく頷き、グラスをテーブルに置いた。会談はそれから数十分で終わった。健太郎は妥協することなく自らの条件を突きつけ、スミスは渋々ながらもそれを呑まざるを得なかった。投資銀行の幹部ですら、彼の提示するロジックと交渉の主導権を崩すことはできなかったのだ。
スミスが退室した後。
健太郎は一人、ラウンジのバーカウンターに席を移し、ロックグラスの氷を静かに揺らしていた。
静かなジャズのピアノが流れる中、隣の空席にふわりと甘く重い香りが漂ってきた。
「隣、いいかしら」
ダマスクローズとパチュリをベースにしたその香水と共に、金髪の美しい女性が声をかけてきた。深くスリットの入ったイブニングドレスを着こなした、どこかの名家の令嬢だろう。彼女は健太郎の隣に滑り込むと、誘うような熱っぽい視線を向けてきた。
健太郎の鼻腔をくすぐったその香水の匂いは、かつて彼を底辺で苛んだあの女、神崎麗華が好んでつけていたものと同じブランドだった。泥にまみれ、見下され、理囚尽に怒鳴りつけられた日々の記憶が一瞬だけフラッシュバックする。
だが、健太郎の心拍数は一ミリも乱れることはない。
「素敵な時計ね。どこで手に入れたの?」
女性が距離を詰め、健太郎の腕に指先を這わせようとする。
健太郎はグラスを置き、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。その深淵を覗き込むような物憂げな瞳に、女性が一瞬息を呑むのがわかる。
「美しいドレスだ。シルクの質も、そのカッティングも素晴らしい。だが、今の僕には少々眩しすぎる。……良い夜を」
健太郎は立ち上がり、バーテンダーに向けて軽く指を鳴らした。
「彼女の分も、私のツケにしておいてくれ」
「かしこまりました、ミスター・イノウエ」
女性の返事を待つことなく、健太郎はその場を立ち去った。
冷たく拒絶されたにもかかわらず、残された女性の頬は微かに上気し、去っていく彼の広い背中をいつまでも目で追っていた。
ホテルへ戻った健太郎は、静寂に包まれたペントハウスのスイートルームで、ネクタイを緩めた。
重厚なデスクの上には、二つのファイルが置かれている。
一つは、「井上健太郎」という人間の完全な身分証明を裏付ける資料だ。パスポート、海外の投資会社の代表としての登記簿、そして幼少期からの経歴を完璧に偽造した公的な記録の数々。誰がどれだけ調べようとも、そこから神崎修平という痕跡にたどり着くことはない。
そしてもう一つのファイル。
それは、日本の調査会社から定期的に送られてくる、神崎グループの最新の内情レポートだった。
健太郎はソファに深く腰を下ろし、ファイルのページをめくった。
見覚えのある顔写真が並んでいる。義母の貴子は相変わらず傲慢な表情で経済誌のインタビューに答えており、「伝統と革新の融合」などと耳障りの良い言葉を並べているが、実際には一族の利益を守るために下請け企業を容赦なく切り捨てている実態が克明に記されていた。麗華は次期社長候補としての地位を固めつつあるが、彼女自身の経営手腕は皆無に等しく、周囲の優秀な役員たちがその尻拭いに奔走している。そして、その麗華の背後には、愛人の黒崎がコンサルタント名目で入り込み、会社の資金を巧妙に横領しつつ、高級ホテルでの密会を重ねている様子が写真付きで報告されていた。
分厚いレポートの隅々まで目を通し、健太郎は小さく息を吐いた。
馬鹿な連中だ。他者を踏みにじることでしか自身の価値を証明できない、救いようのない傲慢さ。
奴らはまだ、自分たちの足元に巨大な地雷が埋められようとしていることに気づいていない。
この数年、健太郎はダミー会社をいくつも経由し、神崎グループの関連企業の株式を少しずつ、しかし確実に買い集めてきた。同時に、グループの内部で燻っている不満分子や、財務上のグレーな部分に関する情報も全て手元に揃っている。
奴らを物理的・社会的に焼き尽くすための準備は、着々と進んでいる。
健太郎はファイルを閉じ、立ち上がって全面ガラス張りの窓に歩み寄った。
眼下には、テムズ川の水面と、深夜のロンドンの美しい夜景が広がっている。
窓ガラスには、仕立ての良いスーツを着こなした冷酷な男の顔が映っていた。かつての、他人の顔色を窺って生きていた惨めな男の姿は、もはやこの世界のどこを探しても見当たらない。
健太郎はスマートフォンを手に取り、航空会社のエージェントに短いメッセージを送信した。
明日の東京行きの、ファーストクラスのチケットの手配。
返信は数秒で届いた。健太郎は画面を確認すると、電源を切り、静かに夜景へと視線を戻した。




