第6話 地獄の肉体改造
二〇一七年、秋。
スイス・ジュネーブ郊外。色づき始めた広葉樹の森を縫うように走る一本道の先に、そのプライベートクリニックはひっそりと建っていた。眼下に広がるレマン湖の水面は冷たい鉛色に沈み、アルプスの山々から吹き下ろす乾いた風が、厳しい冬の足音を確実に運んできている。
世界中の王族やトップスター、名だたる富裕層を顧客に持ち、最高峰の医療技術と完全な守秘義務を約束するその施設には、入り口に看板ひとつ掲げられていない。
重厚な黒い鉄門を抜け、磨き上げられた大理石の廊下を進んだ先。徹底した静寂に包まれた院長室で、修平は革張りのソファに深く腰を下ろしていた。
「君の送ってきた要望書と、先ほど撮影した頭部の立体スキャンデータは全て確認した」
広葉樹の無垢材で作られたデスクの向こう側で、初老の執刀医、アルベール・ルメールがモニターから視線を外した。世界有数の名医として知られる彼の眼差しは、患者を労わるものではなく、極めて精巧な素材を吟味する彫刻家のような冷徹さを帯びていた。
「単なる若返りや、目鼻立ちの微調整といったレベルの仕事ではない。骨格のベースそのものから破壊し、別の人間として再構築する。……東洋人の骨格のままで、君が望む西洋的な立体感とシャープな造形を完璧に出すには、頭蓋骨の基礎から手を入れる必要がある」
ルメールは手元のタブレットを操作し、デスク上の大型モニターに修平の現在の顔と、術後のシミュレーション画像を並べて表示した。
「上下の顎の骨を切り離して最適な位置へと移動させ、エラと頬骨の突出部を削り落とす。同時に鼻の軟骨を再構築し、切り離した骨の全てをチタンプレートとボルトで繋ぎ直して完全に固定する。命の危険はないが、術後の痛みとダウンタイムの長さは想像を絶するものになる。食事も長期間、チューブからの流動食のみだ」
「わかっている」
修平はモニターに映る『神崎修平』の顔を一瞥し、平坦な声で答えた。
「全てが終わるまでに、最低でも半年。費用は事前提示の通りだ。……本当に、元の顔の原型を一切残さなくていいのだな?」
「ああ。一ミリも残さないでくれ」
「……承知した。最高の仕事を提供しよう」
翌朝。
手術室の空気は完全な無菌状態に保たれ、肌を刺すように冷たかった。
手術台に仰向けに寝かされた修平の頭上に、巨大な無影灯が点灯する。眩い光の中、薄緑色の手術着に身を包んだ数人のスタッフが足早に動き回り、金属製のメスや電動ノコギリ、チタンプレートの入ったトレイがカチャリと無機質な音を立てた。
これから、自分の顔の皮が剥がされ、骨が物理的に切り刻まれる。修平の心拍数を示すモニターの電子音は、一定のリズムを正確に刻み続けていた。
右腕に確保された静脈ラインから、冷たい液体が流れ込んでくるのがわかる。全身麻酔薬だ。
視界がゆっくりと歪み、天井のタイルの継ぎ目が水彩画のように溶け合い始める。抗うことのできない猛烈な眠気が脳を覆い尽くし、全身の感覚が深い泥の底へと沈殿していく。
修平は小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
激しい吐き気と、頭蓋骨全体を万力でギリギリと締め上げられるような圧倒的な圧迫感で、修平は意識を取り戻した。
目を開けようとしたが、瞼は重く腫れ上がり、わずかな隙間から薄暗い病室の天井が見えるだけだった。顔全体が分厚いガーゼと強固なテーピングでミイラのように固定されており、皮膚の下で鈍く、そして鋭い激痛が絶え間なく脈打っている。
骨を切断し、金属のプレートで繋ぎ直した顔面は、心臓が鼓動を打つたびに内側から熱したハンマーで殴打されているようだった。上下の歯はサージカルワイヤーで隙間なく縛り付けられており、顎をわずかに動かすことすら物理的に不可能だ。口内には血の味が充満し、鼻に挿管されたチューブから送られる細い酸素だけが、今の彼を外界と繋ぐ唯一の命綱だった。
「目が覚めたようだな」
ベッドの脇で、カルテを手にしたルメールの声がした。
「手術は成功だ。骨格の再構築は完璧に終わった。点滴から鎮痛剤を持続的に入れているが、骨そのものをいじった痛みは完全には消えない」
医師の言う通りだった。強力な鎮痛剤のせいで意識は常に霞んでいるが、顔面を覆い尽くす激痛は、修平の思考を真っ白に塗りつぶすほどの威力を持っている。
修平はベッドのシーツを固く握りしめた。
骨の断面がこすれ合い、異物であるチタンプレートが肉に食い込むような生々しい感覚。痛みが鋭い波となって押し寄せるたび、修平は浅く短い呼吸を繰り返し、ただひたすらにその痛覚の波が通り過ぎるのを待った。
この痛みは、古い皮を剥ぎ落とし、新たな骨格を定着させるための明確な物理的対価だ。痛めば痛むほど、顔の骨が軋むほど、神崎修平という男の痕跡が削り落とされていく。
修平はガーゼの隙間からただ真っ直ぐに虚空を見据え、静かに激痛をやり過ごしていった。
顔の腫れが引き、顎のワイヤーが外されて流動食から柔らかい固形物を咀嚼できるようになるまでに、およそ二ヶ月を要した。
そして三ヶ月目。スイスの厳しい冬が本格化し、窓の外が深い雪に覆われる頃、クリニックに併設された最新設備のプライベートジムで、修平の肉体改造が始まった。
担当についたのは、元特殊部隊に所属していたという筋骨隆々のパーソナルトレーナーだった。彼は修平のカルテと現在の体組成データに目を通すと、一切の愛想笑いを見せずに冷たく言い放った。
「筋肉の絶対量が全く足りていない。何より姿勢が最悪だ。長年、他人の顔色を窺って下を向いて縮こまっていたような背中をしている。骨格のベースをどれほど美しく作り変えても、その貧弱な筋肉と丸まった背中ではただの案山子だ」
「わかっている。徹底的にやってくれ」
その日から、吐き気を催すほどの過酷なトレーニングが日常となった。
ベンチプレス、デッドリフト、スクワット。限界の重量に設定されたバーベルを、筋肉の繊維が悲鳴を上げ、千切れる感覚に陥るまで上げ下ろしする。
染み付いた猫背を矯正するため、弱り切った背骨周りの起立筋を徹底的にいじめ抜いた。重いバーを背負い、正しい姿勢を維持したままスクワットを繰り返す。姿勢がわずかでも崩れれば、容赦のないトレーナーの怒声が飛び、正しいフォームに戻すまで回数にカウントされない。
肺が焼け付くように熱くなり、額から滴る汗が、まだ微かに熱を持っている顔面を濡らす。
「上げろ! そこからあと二回だ!」
トレーナーの厳しい声が響く中、修平は歯を食いしばり、バーベルを押し上げた。
金属のバーのローレットと呼ばれる滑り止めのギザギザが、手のひらの皮膚を擦り剥いていく。かつて神崎家の庭で、手袋もなしに錆びた剪定鋏を握らされ、マメを作っては潰していた手。だが今、手のひらに新しく刻まれていく分厚いマメは、自らの肉体を重鉄によって鍛え上げている確かな証拠だった。
トレーニングが終わると、プロテインと、グラム単位で厳密に計算された大量の鶏胸肉、ブロッコリーを無感情に胃に流し込む。食事はもはや味わうものではなく、肉体を構築するための材料の補給作業でしかなかった。破壊された筋肉がアミノ酸を吸収し、熱を持ちながら再生していくのを感じながら、修平は泥のように短い睡眠をとる。
起きればまたウェイトを上げ、決められたカロリーを詰め込む。
顔の骨格が馴染んでいくのと同じ速度で、薄かった胸板は厚みを増し、頼りなかった腕には確かな筋肉の隆起が浮かび上がり始めた。
二〇一八年、春。
スイスの地を踏んでから、半年以上の月日が経過していた。アルプスの雪解け水がレマン湖に流れ込み、柔らかな日差しが木々の緑を照らし始めている。
クリニックの診察室で、ルメールが修平の顔に慎重に触れ、最後の極薄の保護材を取り外した。ピンセットを金属製のトレイに置き、カルテにサインを書き込むと、満足げに頷いた。
「完璧だ。骨の定着も申し分ないし、顔の筋肉の動きも極めて自然だ。これ以上の処置は必要ない」
修平は椅子から立ち上がり、診察室の壁一面に据え付けられた巨大な鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、もはや何者かに怯えて生きていたかつての男ではなかった。
姿勢の矯正と発達した背骨周りの筋肉により、身長は以前より数センチは高く見える。広い肩幅と分厚い胸板、引き締まった腹部。上質なオーダーメイドのスーツが完璧に似合うであろう、無駄のない強靭な肉体がそこにあった。
そして、顔。
分厚いレンズの奥で常におどおどと揺れていた瞳は、今は深い二重の奥で、温度のない静かな光を湛えている。鼻筋は高く真っ直ぐに通り、顎のラインは無駄な脂肪が一切なく鋭く切り出されていた。
特定の誰かの真似ではない、黄金比をベースに計算し尽くされた造形。見る者を威圧し、同時に抗いがたい魅力で引きつけるような、危険な色気が全身から漂っている。
「素晴らしい仕上がりだ」
背後からルメールが声をかけた。
「君は、新しく生まれ変わった」
「……ああ」
修平は自分の顔を鏡越しに観察したまま、低く落ち着いた声で短く応じた。
声帯そのものをいじったわけではない。だが、腹底から響くような深い呼吸と、骨格の変化によって、声のトーンは以前とは全く質の違う響きを持っていた。
鏡の中の男。
かつて泥にまみれ、ただ下を向いて生きていた男の面影は、細胞の一粒に至るまで完全に消滅している。
修平はゆっくりと自分の手のひらを広げ、そして固く握りしめた。
莫大な資金を投じ、骨の髄から作り替えた新しい肉体。準備は整った。後は、この足で奴らの領域に堂々と入り込み、内側から全てを食い破るだけだ。
修平は鏡から視線を外し、ルメールに向き直った。
「世話になった。最高の仕事だった」
ルメールが静かに頷き返すのを確認すると、修平は背を向け、院長室のドアノブに手をかけた。磨き上げられた大理石の床を踏みしめて歩き出すその足取りには、もはや一片の迷いもなかった。




