第5話 未来知識の錬金術
二〇一六年八月十一日。午前九時。
肌を刺すような夏の強烈な日差しがアスファルトを焼き焦がす中、修平は駅前のカフェの窓際席に座り、アイスコーヒーのグラスについた水滴を無表情に見つめていた。
手元にあるのは、着替えを詰めた黒いボストンバッグ一つだけだ。今朝早く、アパートの管理人のポストに鍵と退去の旨を書いた封筒を投函してきた。安物の家電も擦り切れた家具も、すべて部屋に放置したままだ。
九時半。
ガラス越しに見える道路の向こう側、修平が暮らしていた安アパートの前に、黒い高級セダンが滑るように停まった。運転席から降りてきたスーツ姿の男が、アパートの階段を上がり、インターホンを押すのが見える。
麗華が差し向けた迎えの車だ。今日はウェディングドレスの最終フィッティングと、タキシードのサイズ合わせが予定されていた。
男は何度かインターホンを鳴らした後、ドアノブを回そうとし、やがて困惑した様子で携帯電話を取り出して誰かに連絡を入れ始めた。五分ほど何やら会話を交わした後、男は足早に車に戻り、セダンは苛立ったような荒々しいエンジン音を残して走り去っていった。
修平はグラスを傾け、氷の溶けたコーヒーを喉に流し込んだ。冷房の効いた店内にいても、外の凄まじい熱気がガラス越しに伝わってくる。
神崎家にいれば、今頃は冷たいお茶を淹れるタイミングや、庭の芝生への水やりの手順を間違えて、貴子のヒステリックな罵声を浴びていたはずだ。その日常が、今はひどく遠い別の世界の出来事のように感じられた。
修平は席を立ち、ボストンバッグを肩に掛けて店を出た。
一度も振り返ることはなかった。向かうべき場所は、すでに決まっている。
その日の午後、修平は都内の古いビジネスホテルにチェックインした。
窓を開けても隣のビルの壁しか見えない、薄暗く狭いシングルルーム。清掃は行き届いているが、染み付いた消臭スプレーの匂いが微かに漂うこの閉鎖空間が、神崎家を叩き潰すための最初の前線基地になる。巨大な神崎家の邸宅から比べればウサギ小屋のようなものだが、誰の冷たい視線も、理不尽な命令も存在しないこの空間は、修平にとって何よりも安全なシェルターだった。
近隣の家電量販店で性能の良いノートパソコンと予備の大型モニターを購入し、狭いデスクの上に並べた。ホテルが提供する不安定な共用Wi−Fiではなく、専用の通信回線も契約して引き込んでいる。
すべての機材のセッティングが完了すると、修平は複数のネット証券会社と仮想通貨の取引所に口座開設の申請を無心で打ち込んだ。
数日後。本人確認の手続きが完了し、口座が有効になったことを確認すると、修平は全財産である二百万円をためらいなく入金した。
最初の標的は、日本の小さなバイオベンチャー企業だ。
モニターの画面には、長期間にわたって見向きもされず、底値を這い回っている株価チャートが表示されている。世間の誰も注目していないこの企業が、明日の市場閉場後、海外の巨大製薬会社との画期的な特許提携を発表することを、修平は知っていた。
神崎家のリビングで、貴子の来客たちが「あの提携の情報をもう少し早く掴んでいれば」とひどく悔しそうにこぼしているのを、壁際でお茶を注ぎながら聞いていた記憶が、頭の中で鮮明に再生される。
修平は信用取引の枠を最大限まで設定し、手持ちの資金の限界までその銘柄の買い注文を入れた。
マウスをクリックする指先に、微かな震えすらない。失敗すれば多額の借金を背負うことになるギャンブルだが、修平の脳内には「結果」という揺るぎない事実が存在している。恐怖も期待も、入り込む余地はなかった。
翌日の午後三時の閉場を告げるチャイムが、ニュースアプリの通知音として鳴った。
そして午後三時半。企業側のIR情報ページに、海外製薬会社との特許提携のプレスリリースが掲載された。同時に、各種経済メディアが『無名ベンチャーの快挙』として一斉にニュースを報じ始める。
ネットの投資家掲示板は、突如として現れたビッグニュースに沸き返っていた。
「明日から寄らずのストップ高だ」「どこまで上がるんだ」という熱狂的な書き込みが秒単位で流れていく。修平はそれらの喧騒を冷ややかに眺めながら、自分の記憶の正確さを証明する結果をただ静かに受け入れていた。
週末を挟んだ翌営業日の朝から、その銘柄には凄まじい規模の買い注文が殺到した。株価は一瞬にしてストップ高に張り付き、そのまま何日も値がつかない状態が続いた。
一週間後。急騰の勢いがピークに達し、反落の兆しが見え始めた瞬間に、修平はすべてのポジションを売り抜けた。
画面に表示された口座残高は、二百万円から一気に一八〇〇万円へと跳ね上がっていた。
並んだ数字の羅列を見つめても、修平の心拍数は一定のままだった。
表情一つ変えることなく、すぐさま次のターゲットに狙いを定めた。今度は、長年のデータ改ざんが内部告発によってすっぱ抜かれる直前の、大手企業の空売りだ。
買いと売り。記憶の引き出しから正確な日付と銘柄を引きずり出し、最も利益の出るタイミングで資金を出し入れしていく。
季節が夏から秋へと変わる頃。
修平の生活は、ホテルの部屋からほとんど一歩も出ず、モニターの青白い光と向き合うだけの日々になっていた。
食事はネットで注文した宅配弁当や、フロント越しに受け取るデリバリーだけで済ませる。髪は伸び放題になり、頬は無精髭に覆われ、目の下には濃い隈が張り付いている。
しかし、その瞳の奥には異常なまでの熱が宿り、狂気にも似た冴えを見せていた。
株での短期トレードを繰り返し、資金が一億円を突破した時点で、修平はその全額を仮想通貨市場へと流し込んだ。
二〇一六年の晩秋。ビットコインの価格が数万円台から徐々に上昇を始め、一部のIT関係者や投資家たちが色めき立っていた時期だ。
これから一年もしないうちに、世界中を巻き込む狂乱のバブルが訪れる。
修平は特定のアルトコインを底値で大量に仕込み、同時にビットコインのレバレッジ取引を繰り返した。
仮想通貨の市場には、株のようにストップ高やストップ安という安全装置が存在しない。二十四時間三百六十五日、常に世界中の資金が止まることなく流れ込み、相場が暴れ狂う。
ある日の深夜、海外の大規模な規制ニュースが流れ、市場全体が阿鼻叫喚の暴落に見舞われたことがあった。保有資産が数十分の間に何千万円も吹き飛んでいく。ネット上ではパニックに陥った投資家たちの悲鳴が溢れ返ったが、修平は瞬き一つせず、あらかじめ設定していた底値での強力な買い増しを実行した。翌朝には反発が起こり、暴落前よりもさらに資産を増やすことに成功する。常人であれば恐怖で胃を吐き戻すような場面でも、修平には揺るぎない「結果」が見えていた。
一時間眠っては相場を確認し、また一時間眠る。そんな細切れの睡眠で、修平の神経は極限まで張り詰めていった。
無感情にキーボードを叩き続ける彼にとって、モニターの中で増殖していく数字は単なる金ではない。
神崎貴子、麗華、黒崎翔。あの傲慢な一族を、物理的・社会的に焼き尽くすための「火薬」だ。多ければ多いほどいい。
冷たい雨の降る夜。
崖下でひしゃげた車のルーフに押し潰され、血の泡を吐きながら聞いた、泥を跳ねる足音。
命の値段は五億だと言い放った、あの黒崎の嘲笑。
路傍のゴミを見るような、麗華の氷のように冷徹な眼差し。
それらを思い出すたび、修平のタイピングはより正確に、より無慈悲になっていった。
奴らにとって、自分は五億円の価値しかない消耗品だった。ならば、その何十倍もの力で、奴らの築き上げたものをすべて根こそぎ奪い取ってやる。
二〇一七年、夏。
修平がタイムリープの目覚めを迎えてから、ちょうど一年が経過した。
テレビのニュースやネットの掲示板が仮想通貨の異常な急騰に騒ぎ始め、メディアが連日のように「億り人」という言葉を持て囃すようになった頃。
外ではけたたましい蝉の声が響いていたが、防音ガラスに守られたホテルの部屋には、かすかなエアコンの作動音しか聞こえない。
手元のマウスを握る右手に、わずかに力が入る。
保有していたすべての仮想通貨と金融資産の、最終的な利益を確定させる決済ボタン。
確認のアラート画面を迷うことなくクリックすると、ロード画面が数秒続き、やがて確定した数字がモニターの中央に表示された。
三十五億円。
税金や各種手数料を差し引いても、およそ二十億円以上の純資産が修平の元に残る計算だ。
神崎グループが推進するプロジェクトに介入し、中枢に食い込むには十分すぎる弾薬だった。
修平は無言のままマウスから手を離し、モニターの電源を落とした。
部屋に、一年ぶりの静寂が訪れる。
わずか一年。二百万の元手から作り上げた、莫大な富。それでも修平の顔に喜びや達成感は微塵もなかった。
ようやく、スタートラインに立っただけだ。
莫大な資金の半分以上は、すでに海外のプライベートバンクへ移す手筈が整っている。同時に、スイスにある富裕層向けの美容外科クリニックにもコンタクトを取っていた。完全なプライバシー保護と最新の医療技術で知られるその施設に、修平は自分の骨格データと要望を送っている。
顔の輪郭、鼻筋、目元、すべてを作り変える。骨を切断し、繋ぎ直す大規模な手術になるという医師の返答に、修平は金と時間はいくらでも払うとだけ伝えてあった。
修平は重い椅子から立ち上がり、部屋の隅に置いてあったボストンバッグを手に取った。
この一年間、ひたすら数字だけを追い求めてきたこの部屋に未練はない。パソコンのハードディスクを取り外して物理的に破壊し、ホテルを出る準備を整える。
窓際に立ち、カーテンの隙間から外を見下ろす。
東京の街は、相変わらず無数の光を放ちながら蠢いていた。遠くに見える建設中のタワーマンションは、一年前よりもずっと高く、空に向かって鉄骨を伸ばしている。
修平はボストンバッグのサイドポケットから、スイスへの片道航空券と真新しいパスポートを取り出した。
骨を削り、肉を裂く激痛が待っているだろう。しかし、あの崖下で味わった理不尽な痛みに比べれば、造作もないことだ。
次にこの国の地を踏む時、神崎修平という惨めな男は完全に消滅している。
修平はカーテンから手を離し、誰に告げることもなく、静かに部屋のドアを開けた。




