第4話 10年前の目覚め
息が、できた。
冷たい雨水に満たされ、完全に潰れたはずの肺が、大きく膨らんだ。
修平は跳ね起きるように上体を起こし、暗闇の中で激しく空気を吸い込んだ。むせ返るような夏の湿気と、淀んだ空気の匂いが一気に鼻腔を満たす。肺の奥底にこびりついていたはずの血の匂いも、ガソリンが揮発するツンとした臭いもしない。
無意識のうちに、修平は両手で自分の胸元を強く探っていた。
ひしゃげたルーフに押し潰された肋骨の痛みがない。皮膚を突き破って露出していたはずの左腕の骨も、元の位置にきちんと収まっている。全身を焼き尽くすようだったあの絶望的な激痛は、どこにも存在しなかった。Tシャツ越しに触れる心臓は、確かに力強い鼓動を刻んでいる。ひび割れた窓ガラスで切り裂かれた顔の傷も、当然ながら跡形もなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、修平は周囲を見回した。
薄暗い部屋だった。窓から差し込む街灯のオレンジ色の光が、狭い空間を微かに照らし出している。壁紙の隅には長年の湿気でできたカビのシミがあり、足元には剥き出しのパイプベッドの軋む感触がある。部屋の隅では、古びた扇風機が首を振りながら単調なモーター音を立て、生温かい風をかき回していた。
神崎家の、あのカビ臭い使用人室ではない。
ここは、孤児院を出てからずっと暮らしていた、家賃四万円の安アパートのワンルームだ。
修平はベッドから降り、裸足のまま床に立った。フローリングのベタつくような温かさが、確かな現実感を足裏に伝えてくる。
手探りで枕元の小さなテーブルに触れると、分厚い黒縁の眼鏡と、四角い感触の携帯端末があった。修平は眼鏡をかけ、端末を手に取った。
電源ボタンを押す。液晶画面が青白く光り、修平の顔を照らした。
スマートフォンだ。だが、十年近く前に発売された古いモデルであり、画面のサイズも一回り小さく、スワイプする指の動きに対する動作もどこか重い。そして何より、ロック画面の中央に表示されているただそこにあるだけのアラビア数字が、修平の思考を完全に停止させた。
二〇一六年八月十日。
あの箱根の山道で命を落とした年から、正確に十年遡った日付だった。
修平はスマートフォンを握りしめたまま、窓際へと歩み寄り、薄手のカーテンを乱暴に開けた。
窓を開け放つと、熱気を帯びた夏の夜風が部屋に流れ込んでくる。遠くでパトカーのサイレンが鳴り、遠景には都心のビル群の瞬きが見えた。
修平の視線は、その風景の中にある一つの巨大な建造物に釘付けになった。
タワーマンションの建設現場だった。俺が死んだ年の東京では、とうに完成してランドマークの一つとなっていたはずのその巨大なマンションが、今はまだ無数の黄色いクレーンに囲まれ、鉄骨の骨組みを晒している状態だった。
手元のスマートフォンでニュースアプリを開く。トップニュースには、地球の裏側で開催されているスポーツの国際大会で、日本人選手が金メダルを獲得したという記事が踊っていた。画面をスクロールしても、見覚えのある過去のニュースばかりが並んでいる。
夢ではない。死の淵で脳が見せた、都合の良い走馬灯でもない。
俺は今、三十歳の時間軸に、生きた肉体を持ったまま巻き戻っている。
今まで「僕」として縮こまっていた精神の殻が、凄惨な死の記憶とともに砕け散っていくのを感じた。
修平は窓枠に両手をつき、ゆっくりと深く息を吐いた。
夜風に当たりながら、先程までの記憶が、鮮明な映像と音を伴って再生される。
ブレーキの効かない車。天地がひっくり返る衝撃。そして、ひしゃげた車内で血を吐く俺を見下ろしていた、麗華と黒崎の冷たい視線。
『会社の負債の補填に五億。お前の命の値段だ。感謝して死ねよ』
黒崎の嘲笑と、麗華の退屈そうな溜息が、今も耳の奥にへばりついて離れない。
ギリッ、と。
修平の奥歯が、強く噛み合わさって鳴った。
恐怖はない。なぜ過去に戻ったのかというSF映画のような疑問すら、今の修平にはどうでもよかった。
胸の奥底で燻っていた惨めさや悲哀は、あの崖下ですべて燃え尽きた。後に残ったのは、静かで、だが決して消えることのない暗い怒りだけだった。
奴らは俺を人間として扱わなかった。ただ利用し、搾取し、最後は解体して金に換えるための道具として殺した。
許さない。絶対に許さない。
神崎貴子、麗華、黒崎翔。奴らが築き上げている富、地位、虚栄心、そのすべてを食い破り、同じ絶望を味わわせてやる。
ブーッ、ブーッ。
手の中のスマートフォンが、突然短い振動を始めた。
画面に目を落とす。着信を知らせるディスプレイには、『麗華』という二文字が光っていた。
修平は画面を見つめた。
かつての俺なら、この名前を見ただけで胃を縮み上がらせ、機嫌を損ねないよう一秒でも早く電話に出ようと慌てふためいていただろう。
今の修平は、手の中で震える端末を、ただ静かに見下ろしていた。
五回、十回とコールが続く。相手の苛立ちが画面越しに伝わってくるようだった。
修平はゆっくりと画面をスライドし、通話ボタンを押して耳に当てた。
「……もしもし」
『ちょっと! 何でこんなに出るのが遅いのよ!』
スピーカー越しに、ヒステリックで高圧的な声が鼓膜を打つ。
『寝てたわけじゃないでしょうね。明日の十時、ウェディングドレスの最終フィッティングよ。お母様もいらっしゃるんだから、絶対に遅刻しないでよ。あんたのタキシードのサイズ直しもあるんだから』
結婚の準備期間。
修平は頭の中で冷静に状況を整理した。この電話の数日後、俺は神崎家へ入り婿として足を踏み入れる予定だった。
『ちょっと、聞いてるの!? 返事くらいしなさいよ、鈍臭いわね』
「……ああ。聞いてる」
修平の声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。
『何その態度。……まあいいわ。明日は九時半に車を回すから、アパートの前で待ってて。それと、お母様への手土産を忘れないでよ。この前みたいに安物の菓子折りなんて持ってきたら、即刻捨てるからね。私の顔に泥を塗るような真似は――』
「行かない」
修平は、麗華の言葉を静かに遮った。
『……は? 何言ってるの?』
「明日のフィッティングも、結納も、すべて白紙にしてくれ」
電話の向こうで、麗華が息を呑む気配がした。数秒の沈黙の後、爆発したような怒鳴り声が響く。
『ちょっと、あんた頭おかしくなったの!? お母様も親戚もみんな予定空けてるのよ! 今更そんなこと言って、許されると思ってるの!? あんたみたいな身寄りのない男を、拾ってあげた恩を――』
修平は唇の端をわずかに歪めた。
恩。飼い殺しにし、最後は保険金に変えて笑い捨てたくせに。
「結婚はしない。神崎家とは、これきりだ」
『ふざけるな! 逃げられると――』
ヒステリックな絶叫がピークに達する前に、修平は画面をタップし、通話を切った。
間髪入れずに再び着信音が鳴り始める。修平は迷うことなくスマートフォンの電源を落とした。
それだけでは足りない。裏蓋を開け、小さなSIMカードを引き抜くと、指先で真っ二つに折り曲げ、部屋のゴミ箱へ捨てた。
これで、物理的な繋がりは絶たれた。メンツを重んじる神崎家が血眼になって探すようなことはない。奴らにとって俺は、見栄えの良いサンドバッグの候補でしかなかったのだから。代わりの道具はいくらでも見つけられるはずだ。
修平は机の椅子を引き、腰を下ろした。
地獄へ続くレールは、自らの手で切り離した。
逃げ出して、一人で平穏に生きる。そんなささやかな幸福を望む時期は、崖下で車ごと潰された瞬間にとうに過ぎ去っている。
神崎貴子。麗華。黒崎翔。
奴らを破滅させるために必要なものは、圧倒的な力だ。
修平は机の引き出しを開け、古い銀行の通帳を取り出した。
残高は二百万円強。アルバイトと派遣社員を掛け持ちして、身を粉にして貯めた全財産だ。
かつての俺なら、このなけなしの金を切り崩しながら細々と生きていくだろう。しかし、今の修平には、誰も持っていない最強の武器があった。
これからの十年分の記憶だ。
神崎家で壁際の置物として息を潜めていた十年間。リビングの巨大なテレビから垂れ流されていた経済ニュースや、来客たちが無防備に交わしていたビジネスの話題。当時は意味もわからず聞き流していただけの情報が、今は明確な輪郭を持って脳内にストックされている。
修平は引き出しからノートとボールペンを取り出し、記憶の限り、重要な経済のターニングポイントと日付を書き殴り始めた。
あの日、どの企業が画期的な技術を発表したか。どの巨大企業が不祥事で暴落したか。
ペンを走らせる手は、全く震えていなかった。
二百万円。この資金があれば、彼らの足元をすくうだけの力を手に入れる第一歩になる。そして、彼らの懐に深く潜り込むためには、この顔と名前を捨て、別の人間になる必要がある。
ふと、修平の手が止まった。
瞼の裏に、あの雨の路地裏で静かに微笑んでいた優香の顔が浮かんだ。
凍りついた身体と心を溶かしてくれた、紙カップの確かな熱。
今の時間軸でも、彼女はあの小さな喫茶店でアルバイトをしているはずだ。会いに行きたい衝動が胸をよぎるが、修平はゆっくりと首を横に振った。
今の俺では駄目だ。今の姿のままでは、彼女の優しさに寄りかかり、また惨めにすがりつくだけの男に過ぎない。
本当に彼女の平穏を守れるだけの力を持った時。そして、神崎家という呪縛をすべて焼き尽くした時。その時初めて、彼女の前に立とう。
修平はノートを閉じ、ユニットバスの洗面台へと向かった。
蛇口をひねり、両手で冷水をすくって顔を洗う。タオルで乱暴に水気を拭き取り、顔を上げた。
蛍光灯の冷たい光の下、鏡の中にいる無精髭の男を、修平はただじっと見据えた。




