第3話 豚の屠殺
神崎家の広大な敷地の裏手にある、使用人専用の勝手口。修平はその冷たい鉄扉を音を立てずに開き、まるで泥棒のように自宅へと滑り込んだ。
ずぶ濡れだった安物のスーツは、道中の生温かい風で半端に乾き、埃と雨水が混ざった嫌な臭いを発して肌にこびりついている。だが、修平の右手には、あの路地裏で優香から渡された黒いビニール傘がしっかりと握られていた。
自分のあてがわれている、一階の奥まった場所にある物置同然の四畳半。修平はカビの匂いが染み付いた部屋に入るなり、手持ちの薄汚れたタオルで傘の水滴を、一本の骨に至るまで丁寧に拭き取った。神崎家の誰かに見つかれば、「また外でゴミを拾ってきたのか」と詰られ、目の前で無惨にへし折られるに決まっている。
修平は水気を完全に拭き終えた傘を、軋むベッドの下の一番奥に押し込み、古い毛布を被せて隠した。
暖房も効かない部屋で、冷え切った体のままベッドに横たわる。きつく目を閉じると、両手に包み込んだ紙カップの火傷しそうなほどの熱と、優香の深く黒い瞳が脳裏に鮮明に蘇る。
あの彼女だけが、僕をただの寒そうにしている一人の人間として扱ってくれた。そのささやかな事実だけを命綱のように頼りに、修平は泥のように重い眠りについた。
翌日の夕方。
修平は、義母である貴子から直接リビングへ呼び出された。
普段なら修平を同じ空間に入れることすら嫌がる貴子が、磨き上げられた大理石のテーブル越しに、いつものような棘のある皮肉を交えず、ただ事務的な視線を向けてきたことに、修平は微かな違和感を覚えた。
「修平さん。今日の夜、箱根にある別荘へ行ってちょうだい」
貴子は手元にあった黒い革製のアタッシュケースを、テーブルの上で修平の方へ滑らせた。ずしりとした重みのあるケースが、修平の目の前で止まる。
「中には、来月の役員会で使う重要な書類が入っているの。本来なら冴子に頼むところだけれど、彼女は今夜、別の会食のセッティングで動けない。明日の朝一番で私が確認したいから、今夜中に別荘の金庫に納めてきてちょうだい」
「箱根の別荘、ですか。……わかりました。ですが、今の時間から電車では」
「車を使いなさい」
貴子の言葉と同時に、背後のソファでくつろいでいた黒崎が、手元のキーケースを放り投げてきた。カチャン、と硬い金属音を響かせて大理石の床に落ちたそれを、修平は慌てて拾い上げる。
「俺が前に乗ってた国産のセダンだ。もう乗らねえから、車庫の隅に置かせてもらってる。どうせお前みたいなのに、お義母様や麗華さんの外車は運転させられないだろ」
黒崎がグラスの氷を揺らしながら薄く笑う。その隣で、麗華は自分の真新しいネイルの仕上がりを眺めたまま、修平に視線すら向けようとしなかった。
「……承知いたしました。すぐに向かいます」
反論は許されない。修平はアタッシュケースを抱え、逃げるように広々としたリビングを後にした。
なぜ自分がこんな重要そうな書類を運ばされるのか。疑問はあったが、修平の思考はそれ以上深くは潜らなかった。「役に立ちなさい」という貴子の言葉に従うことだけが、彼がこの家で呼吸を許される唯一の条件だったからだ。
指定された黒いセダンは、車庫の最も暗い奥で薄っすらと埃を被っていた。
運転席に乗り込みエンジンをかけると、くぐもった異音が響いたが、なんとかメーターパネルが点灯した。修平は重い鉄の門を抜け、夜の高速道路へと車を走らせた。
昨日から降り続く雨のせいで、路面は黒く濡れ光っている。ワイパーを最速で動かしても、叩きつける雨粒に弾かれて視界は極端に悪い。車内のエアコンもまともに効かず、湿気でフロントガラスの内側がすぐに白く曇り始めた。
修平は片手でハンドルを握りながら、もう一方の手首でフロントガラスを何度も拭う。だが、厄介なことに自分の分厚い眼鏡のレンズまでが体温と湿気で曇り始め、街灯の光がぼやけて幾重にも滲んで見えた。
ただでさえ運転に不慣れな上に、最悪のコンディションだ。苛立ちと焦りで手のひらにじっとりと汗をかきながら、修平は箱根の険しい山道へと入っていった。
街灯の途切れた急な上り坂を越え、ヘアピンカーブが連続する下り区間へ差し掛かった時だった。
傾斜のせいで、自然とメーターの速度が上がり始める。雨で滑りやすい路面を警戒し、修平はカーブの手前で速度を落とそうとブレーキペダルを踏み込んだ。
スカッ、と。
ペダルが何の抵抗もなく、床まで踏み抜けた。
修平は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。足を離し、もう一度、力を込めてペダルを踏み込む。しかし、何度踏んでも、まるで虚空を踏みつけているかのように手応えがない。ゴムが滑るような嫌な感触があるだけで、ブレーキパッドがディスクを挟み込む気配が全くなかった。減速するどころか、下り坂の傾斜によって重い車体の速度はどんどん上がっていく。
「嘘だろ……」
血の気が一気に引いた。足の裏にべっとりと冷汗が滲む。
修平はパニックになりながら、左手でサイドブレーキのレバーを力任せに引き上げた。ガリガリという嫌な金属音が車内を満たすが、後輪がロックするような衝撃はない。車は完全に制御を失い、雨と闇の中を滑り落ちていく。
眼前に、急カーブの古いガードレールが迫る。
修平は反射的にステアリングを右へ力任せに切った。だが、濡れた路面で使い古されたタイヤはあっさりとグリップを失い、車体は直進状態のまま無残にもスピンを始めた。
ヘッドライトの白い光が、木々の幹と黒い空の境目を乱舞する。
直後、鼓膜を破るような轟音と共に、車体は錆びたガードレールを紙のように突き破り、そのまま崖下の暗闇へと放り出された。
胃がせり上がるような激しい浮遊感。
そして、天地がひっくり返るような凄まじい衝撃が、修平の全身を何度も叩きつけた。金属が拉げる音、ガラスが粉々に砕け散る音、そして自分の骨が折れる鈍い音が同時に響く。エアバッグは作動しなかった。
ひしゃげたルーフが頭上から迫り、修平の顔面に強烈な一撃を見舞う。その瞬間、かけていた眼鏡が粉々に砕け散り、鋭利な破片が頬や額の皮膚を深く切り裂いた。
どれほどの時間が経ったのか。
割れた窓から吹き込む冷たい雨粒が顔を叩く感覚と、顔面を走る焼け付くような痛みで、修平はわずかに意識を取り戻した。
車は斜面の途中の大木に激突し、完全に裏返っていた。フロントガラスは跡形もなく消え去り、潰れたルーフが修平の頭部と胸を激しく圧迫している。眼鏡を失った視界は極端にぼやけ、血と雨水が混ざり合って目に入り、ほとんど何も見えない。
息をするたびに、肺の中からゴボゴボと嫌な音が鳴った。両足の感覚は全くない。左腕はあらぬ方向へ曲がり、皮膚を突き破った白い骨が、暗闇の中でも生々しく露出しているのがわかった。
口からとめどなく溢れる血が、泥まみれの天井へ滴り落ちる。強い血の匂いと、ガソリンの揮発する臭いが鼻腔を強烈に突いた。
「ぁ……」
声を出そうとしたが、血の泡が弾けるだけで言葉にならなかった。
痛い。苦しい。誰か、助けてくれ。
滲む視界の先、頭上の道路から、二つの鋭い光が斜面を照らし出した。車のヘッドライトだ。
誰か来た。助かるかもしれない。修平は残されたわずかな力を振り絞り、動く方の右手で泥の地面を必死に叩こうとした。
ザッ、ザッ、という足音が、斜面を降りてくる。
近づいてきたのは、二人組の人影だった。高級な革靴が泥を跳ねる音。そして、雨を弾く大きな傘の下から、聞き慣れた声が降ってきた。
「うわ、派手に潰れたな。これじゃ助からねえだろ」
黒崎の声だった。
修平の心臓が、痛みを忘れて大きく跳ねた。なぜ、彼がここにいる。
「服が汚れるわ。さっさと確認して」
麗華の冷たく、退屈そうな声。
修平の目の前に、高級なレインコートを羽織った麗華と黒崎がしゃがみ込んだ。懐中電灯の強烈な光が、逆さ吊りになり、血と泥にまみれた修平の顔を容赦なく照らし出す。
「……れ、か……さ……」
「あ、まだ息してる。しぶといわね」
麗華は修平の口から溢れる血を見て、汚いものでも見るかのように眉をひそめ、一歩後ずさった。
助けを呼ぶ様子など微塵もない。彼女の目は、路傍で潰れた虫を見るような、徹底した無関心に満ちていた。
「ほら、さっさと死ねよ。お義母様もお待ちかねなんだよ」
黒崎が薄ら笑いを浮かべながら、懐中電灯の光を修平の目にわざと眩しく当てる。
「……これでようやく、あいつも役に立ったわね」
「ああ、あの保険金が下りれば、会社の穴もなんとか塞げるだろ。まったく、死ぬ時くらいもっとスマートに死ねばいいのに」
頭上の雨音に混じって、二人の密談が修平の耳に届く。
五億円。先月、貴子が持ってきた何かの書類に、よく読まずにサインさせられた記憶が蘇る。あれが、自分に掛けられた生命保険だったのか。
書類を運ばせたのも、この古い車に乗せたのも、すべてはここで自分を事故死に見せかけて殺すための段取りだったのだ。
「もういいでしょ。行きましょう、翔。泥が跳ねて靴が汚れちゃったじゃない」
「悪いな。でもこれで、やっと俺たちも気兼ねなく楽しめるぜ」
麗華は修平に向けて二度と視線を下ろすことなく、ヒールを返して斜面を登り始めた。黒崎も足元の泥を軽く蹴り飛ばし、彼女の後を追う。
遠ざかる足音。
修平は、ただ闇の中に取り残された。
潰れた胸郭から空気が逃げ出し、肺の奥に溜まった血が、いよいよ呼吸を完全に阻害し始める。
なぜだ。なぜ、自分がこんな目に遭わなければならない。
温かい家族が欲しかっただけだ。そのためなら、どんな屈辱にも耐えられると思っていた。だが、彼らが自分に向けていたのは、初めから人間に対する感情ですらなかった。ただ利用し、搾取し、最後は解体して金に換えるだけの都合の良い道具。
痛みが限界を超え、視界の端から急速に暗闇が侵食してくる。
薄れゆく意識の底で、あの路地裏で優香が差し出してくれた、熱いコーヒーの記憶が脳裏をよぎった。両手を包み込んだ紙カップの温もりが、今の修平が思い出せる唯一の、人間としての手触りだった。
もっと早く、あんな温かさに触れていれば。いや、違う。
もし、もしもやり直せるなら。
絶対に許さない。
あの女を、あの男を、あの家を。
僕を嘲笑い、踏みにじり、笑いながら殺していった奴らを。
必ず、這い上がって、全てを奪い尽くしてやる。
激しい怒りと絶望が体内の血液を沸騰させるような熱を帯びる中、修平の意識は、冷たい雨の底へと完全に沈んでいった。




