第2話 雨の中の光
都心の空を分厚い雨雲が覆い隠し、昼間だというのにひどく薄暗い。
神崎グループ本社ビルの一階エントランスは、磨き上げられた大理石の床と、三階まで吹き抜けになった巨大なガラス張りで構成された、無機質で圧倒的な空間だった。
空調の効いた快適な空気の中を、行き交うビジネスパーソンたちは皆、仕立ての良さそうなスーツや洗練されたオフィスカジュアルに身を包み、足早にセキュリティゲートを通り抜けていく。彼らの靴音が、高い天井に反響しては消えていった。
その片隅で、神崎修平は借り物のように身を縮めて立っていた。
着用しているのは、神崎家で「外出用」としてあてがわれている安物の吊るしのスーツだ。そもそも体型に合わせて作られていないためサイズが全く合っておらず、肩のラインが不格好に落ち、袖口や裾はすでに擦り切れている。
周囲の洗練された空間と、自信に満ちた人々の中で、彼だけがひどく浮き上がり、到底ここに居るべきではない異物として存在していた。すれ違う数人が、ちらりと不審げな視線を向けてくるのを感じるたび、修平は背中を丸めて下を向いた。
「ご苦労様です。確かに受け取りました」
頭上から降ってきた無機質な声に、修平は反射的に顔を上げた。ずり落ちかけた眼鏡を中指で押し上げる。
目の前に立つのは、妻・麗華の第一秘書である斎藤冴子だった。体にぴったりとフィットした上質なパンツスーツを隙なく着こなし、手元のタブレットに素早く視線を落としている。彼女の纏う凛とした空気は、修平をさらに萎縮させた。
「あ、あの……麗華さんは」
「現在、重要な役員会議の最中です。こちらの資料は、会議終了後に私から責任を持ってお渡ししておきます」
修平が差し出した紙袋を、冴子は指先だけで受け取った。手が触れることすら意図的に避けるような、無駄のない所作だった。
今日の修平は、麗華が自宅の書斎に置き忘れた――という名目の――資料を届けるためだけに、電車を乗り継いでここまで呼び出されていた。往復の交通費など当然渡されていない。修平の財布に入っているのは、数枚の小銭と、色褪せた千円札が一枚だけだ。
「……そうですか。わかりました。よろしくお願いします」
修平が深く頭を下げても、冴子からの返答はなかった。顔を上げると、彼女はすでに背を向け、ハイヒールの硬い音を大理石に響かせて、強固なセキュリティゲートの奥へと消えていくところだった。
修平は小さく息を吐き、誰の目にも留まらないようにそそくさとエントランスを出た。
自動ドアを抜けた瞬間、生温かい突風が全身を打ち据えた。
見上げると、重く垂れ込めた鉛色の雲の底がひび割れるようにして、大粒の雨がアスファルトを叩き始めていた。バラバラと乾いた地面が濡れ、埃っぽい匂いが立ち昇る。
傘など持っていなかった。引き返して、あの場違いな本社ビルのロビーで雨宿りをするという選択肢は、修平の中にはない。自分がこの惨めな姿でいつまでも居座り続ければ、いずれ麗華の耳に入り、またどんな凄惨な罵倒を受けるかわからないからだ。
修平は叩きつける雨を避けるように、ビル群の隙間を縫う細い路地へと足を踏み入れた。
しかし、ゲリラ豪雨とも呼べる雨脚は数分で激しさを増し、路地の僅かな庇では到底凌ぎきれなくなった。肩口から雨水が容赦なく染み込み、安物のスーツがあっという間に水を吸ってずっしりと重くなる。
分厚い眼鏡のレンズに無数の水滴が付着し、視界が白く霞む。袖口で拭おうにも、すでに布地そのものが濡れそぼっているため、かえって汚れを広げるだけだった。
足元もおぼつかないまま、修平は雑居ビルの裏手にある、狭い搬入口の窪みに逃げ込み、身を潜めた。
雨だれがコンクリートの壁を伝い、修平の頭上から容赦なく降り注ぐ。
冷たい雨水が首筋を滑り落ちる感覚に、修平は昨日テラスでぶちまけられた氷水の記憶をフラッシュバックさせた。
あの時、足元に転がった氷の冷たさ。黒崎の嘲笑う顔。そして、虫けらを見るような麗華の眼差し。
――あなた、本当にどこまで惨めなの?
冷酷な幻聴が鼓膜を叩き、修平は両手で頭を抱え込むようにして、ひび割れて汚れたコンクリートの床にしゃがみ込んだ。
寒い。ひどく寒かった。季節柄、気温は決して低くないはずなのに、体の芯から急激に熱が奪われていく。濡れたシャツが皮膚にべったりと張り付き、中年になりつつある体力を容赦なく削り取っていた。
顎から滴る雨水が、アスファルトに小さなシミを作っては消えていく。
膝を抱え、濡れて曇りきった眼鏡の奥で、修平はきつく目を閉じる。
逃げることすら思いつかない。ただ、この冷たい雨に溶けて、アスファルトの染みになって消えてしまいたい。泥水と同化して、誰の記憶にも残らずにこの世からいなくなってしまえたら、どんなに楽だろうか。
濁った水たまりをただ虚ろに見つめながら、修平の意識が暗い泥底へと沈みかけていた、その時だった。
カチャリ、と背後で硬い金属音が鳴った。
搬入口の窪みの奥にあった鉄扉が開き、そこからオレンジ色の温かな光が漏れ出した。同時に、焙煎されたコーヒー豆の香ばしく深い匂いが、埃っぽい雨の匂いを押し退けてフワリと漂ってくる。
心臓を跳ねさせ、修平がこわごわと振り返ると、そこには透明なゴミ袋を両手に下げた女性が立っていた。
「あっ……」
女性が短い声を漏らす。
年齢は三十代前半だろうか。カフェの茶色いエプロンを着け、長く美しい黒髪を後ろで緩く束ねている。透き通るような白い肌と、大きく神秘的な瞳を持った彼女は、路地裏にうずくまるずぶ濡れの男を見て、明らかに足を止めていた。
自分がひどく不審で、気味の悪い存在であることは理解している。通報されるか、大声で怒鳴られる。そう直感した修平は、息を呑み、急いでその場から離れようと腰を浮かせた。だが、雨で冷え切った足がもつれ、無様にコンクリートに膝を突いてしまう。
「す、すみません。すぐ、退きますから……」
かすれた声で謝罪を口にし、泥だらけの手で地面を突いて立ち上がろうとする。
だが、女性は逃げることも、怪訝な顔をすることもなかった。
「動かないでください」
静かだが、芯のある声だった。
女性は両手のゴミ袋をその場にそっと置くと、開いたままの鉄扉からパタパタと店の中へと姿を消した。
見捨てられたわけではない。今すぐここから離れなければ、誰か他の店員や男の人を呼んで追い払われるかもしれない。恐怖と焦りで呼吸が浅くなる中、修平が濡れた膝を庇いながら這いずろうとした矢先、再び鉄扉から彼女が姿を現した。
その手には、乾いた清潔なタオルが握られていた。
「これ。お店の予備なので、気になさらず使ってください」
女性は修平の数歩手前で立ち止まり、まるで怯える野良猫に接するように、警戒させないゆっくりとした動作でタオルを差し出した。
修平は呆然と彼女を見上げた。吸い込まれるような黒い瞳には、修平を見下すような同情も、不審者を嫌悪する色も一切ない。ただ、目の前の雨に濡れて震えている人間を案じる、純粋な色だけがあった。
「あの、でも、僕は……」
「風邪、引いちゃいますよ」
彼女がわずかに首を傾げ、半歩だけ前に出る。
修平はひどく震える手を伸ばし、そのタオルを受け取った。ふわりと柔軟剤の匂いがする乾いた布が手の中にあるだけで、どうしていいかわからないほどの戸惑いが押し寄せてくる。
水滴で何も見えなくなっていた眼鏡を外し、タオルでそっと顔を覆った。柔らかいパイル地が雨水を吸い取っていく。
顔の雨水を拭うことすら躊躇っている修平を見て、彼女は「少し待っててくださいね」と言い残し、もう一度店の奥へと引っ込んだ。
数十秒後、彼女が両手で包み込むようにして持ってきたのは、蓋のついた紙カップだった。
「はい。これ、オーダー間違えて余っちゃったやつなんです。少し冷めちゃいましたけど、もったいないから。よかったら飲んでください」
差し出された紙カップを、修平は両手で受け取った。
その瞬間、修平は思わず目を見開いた。
紙カップ越しに手のひらに伝わってきたのは、淹れたてでなければあり得ないほどの、指を火傷しそうなほどの強い熱だった。蓋の小さな飲み口からは、豊かなコーヒーの香りを乗せた湯気が、細く立ち昇っている。
「……どう、して」
「すごく寒そうだったので」
彼女はふふっと小さく微笑んだ。
修平はカップを持ったまま、震える唇を開いた。何を言えばいいのか、脳がひどく混乱している。
毒が入っているのではないか。後から多額の金を請求されるのではないか。すり減った精神が本能的な警告を発するが、紙カップから伝わる圧倒的な温度が、修平の警戒をいとも容易く溶かしていく。
ゆっくりと蓋を開け、縁に口をつける。
心地よい苦味と、深いコクのある液体が喉を通る。胃の奥に到達した熱が、凍りついていた内臓をじんわりと温め、体中を巡っていく。
昨日のテラスで顔にぶちまけられた氷水とは違う。
人間が、人間のために用意した、確かな温かさだった。
「……あ、りがとう、ございます。おいしい、です」
絞り出すように言うと、不意に視界が歪んだ。
雨水とは違う熱い液体が、修平の目から溢れ出し、汚れた頬を伝ってコンクリートの床に落ちた。
自分が泣いていることにすら、最初は気づかなかった。一度決壊した涙腺はもう止めることができず、修平は紙カップを両手で握りしめたまま、声を殺して泣き咽んだ。
惨めだった。情けなかった。見ず知らずの女性の前で、大の大人がボロボロと涙を流している。それでも、止まらなかった。
女性は、泣き崩れる修平に無理に理由を聞こうとはしなかった。
ただ少し離れた場所で、静かに雨音を聞きながら、彼が落ち着くのを待ってくれていた。過剰な慰めも、詮索もない。その距離感が、修平にとってはどれほど救いだったか。
数分が経ち、雨脚がわずかに弱まり始めた頃。
女性は鉄扉の脇に立てかけられていた、黒いビニール傘を手に取った。
「それ、忘れ物でずっとお店に置きっぱなしだったんです。もう誰も取りに来ないから、処分しようと思ってて。持っていってください」
差し出されたビニール傘は、柄の部分には水滴ひとつついておらず、骨にサビの欠片もなかった。ビニールの生地そのものも、折り目が綺麗に残っている。
「そんな、ここまでしてもらうわけには……」
「いいんです。傘立てがいっぱいで、困ってたところなので」
女性は修平の言葉を遮るように傘を差し出し、にっこりと微笑んだ。
修平はタオルで顔を拭き、眼鏡をかけ直して立ち上がった。震える手で傘の柄を受け取る。
視線を上げると、彼女のエプロンの胸元に付けられたネームプレートが目に入った。
『林 優香』
修平は声には出さず、心の底に深く刻み込むように、その文字を反芻した。
「ゆっくり帰ってくださいね」
優香はそれだけ言うと、鉄扉の向こう側へと戻っていった。カチャリと鍵が閉まる音がして、路地裏に再び静寂と雨音だけが残される。
修平は傘を開いた。
雨を弾くビニール越しの空は、相変わらず薄暗い。しかし、紙カップを持つ手のひらには、火傷しそうなほどの熱が確かな重みを持って残っていた。
修平は温かいコーヒーをゆっくりと飲み干すと、雨の街へと歩き出した。




