第1話 最底辺の入り婿
午後四時。西日が容赦なく照りつける神崎家の広大な庭で、神崎修平は錆びかけた剪定鋏を両手で握りしめていた。
頭上から降り注ぐ熱線が、分厚いレンズの眼鏡を曇らせ、視界を滲ませる。手袋すら与えられず素手で作業を続けている手のひらには、いくつものマメができ、そのうちのいくつかはとうに潰れて赤黒い血が滲んでいた。ひび割れた皮膚に塩気を含んだ汗が染み込み、ヒリヒリとした痛みを訴え続けているが、手を止めることは許されない。くたびれた作業着の膝は湿った土と泥にまみれ、元々何色だったのかもわからないほど汚れきっていた。
「あーあ、また枯らしてるじゃない」
背後から、硬いヒールの音が整えられた芝生を踏みしめて近づいてくる。
修平がビクッと肩を揺らして振り返ると、そこには妻である神崎麗華が立っていた。涼しげなシルクのブラウスに、彼女の体のラインに完璧に沿うよう仕立てられたオーダーメイドのタイトスカート。彼女がふわりと纏う、海外の高級ブランドの甘く重い香水の匂いが、汗と泥、そして青臭い植物の匂いが混じった修平の嗅覚を無遠慮に刺激する。
「……麗華さん」
「何度言ったらわかるの? そのバラ、お母様がイギリスから特別に取り寄せた大事な品種だって。水やりの頻度を変えろって、先週も言ったばかりよね」
麗華の冷ややかな声が、蝉時雨が降り注ぐ庭に響き渡る。彼女の目は、葉を落とし枯れかかったバラの枝よりもさらに冷たい温度で、泥まみれで這いつくばる修平を捉えていた。路傍に転がる汚物を眺めるような、一切の感情が抜け落ちた視線だった。
「すみません。でも、昨晩はかなり強い雨が降っていたから、根腐れを起こすかもしれないと気にして、今日は水やりを控えようと……」
「口答えするの?」
麗華は鼻で短く息を吐き、修平の手から強引に剪定鋏を取り上げると、そのまま地面に向けて無造作に放り投げた。
チャリン、と硬い金属音が鳴り、鈍く光る鋏が土に塗れる。
「あなた、本当に何をやらせてもダメね。会社に行かせても使い物にならない、家に置いて庭の手入れをさせてもこのザマ。……少しは自分の立場、わかってる?」
「……はい」
修平は深く頭を下げた。四十歳という年齢には不釣り合いなほど、その背中は丸く、小さく縮こまっていた。
「私の夫ってだけで、どれだけの贅沢をさせてもらってると思ってるの? 誰のおかげで雨風を凌いで、今日の食事にありつけてるか、まさか忘れたわけじゃないでしょうね。……少しでも申し訳ないと思うなら、まともに動きなさいよ」
「……申し訳ありません」
結婚前、彼女は全く違っていた。
『あなたのそういう不器用だけど優しいところ、私、好きよ』
そう言って無邪気に笑う彼女の細い手を、修平は疑うことなく取った。幼い頃から孤児院で育ち、親の愛というものに飢え続けていた修平にとって、資産家の令嬢である麗華の微笑みと差し伸べられた手は、紛れもない救いの光だった。
しかし、結婚証書に判を押した翌日から、その態度は少しずつ、確実に冷酷な支配者へと変貌していった。彼女が欲しかったのは愛する夫などではなく、自分の見栄を満たすための、決して反抗しない従順な飾り物でしかなかったのだ。
「麗華、こんなところで何をしているの」
母屋の広々としたテラスから、低く威厳のある声がかけられた。
義母の貴子だ。豪奢な薄紫色の着物を完璧に着こなし、金糸の刺繍が施された扇子を手に、優雅な足取りで歩み寄ってくる。その後ろには、第一秘書の斎藤冴子が、彫像のように感情を殺した顔でピタリと控えていた。腕には最新のタブレットと、分厚いファイルが何冊か抱えられている。
「お母様。この人がまた、お母様のバラをダメにしちゃって」
「そう。……本当に、使えない男ね」
貴子は扇子で口元を隠しながら、修平を足元から頭頂部まで、値踏みするようにねっとりと舐め回した。
「修平さん」
「……はい、お義母さん」
「あなた、明日の午後の取締役会、まさか出るつもり?」
貴子の言葉に、修平は弾かれたように顔を上げた。
「ええ、その……僕は一応、取締役の末席に名を連ねておりますので。資料も目を通す準備を……」
「名ばかりの、ね」
貴子は心底呆れたように、大げさな溜息をついた。
「あなたが出席したところで、ただ口をぽかんと開けて座っているだけでしょう。誰もあなたの意見なんて求めていないし、空気以下の存在がそこにいるだけで、会議室の空気が淀んで迷惑なのよ。……明日は、裏庭の雑草取りでもしていなさい。少しは体を動かして役に立ちなさいな」
「……ですが、明日は来期の事業計画の重要な――」
「口答えする気?」
貴子の目が、スッと細められた。射抜くような冷たい眼光。その瞬間、修平は息を呑み、喉まで出かかった言葉を強制的に飲み込んだ。胃の奥が鉛のように重く沈み込む。
「……いえ。わかりました」
「いい返事ね。冴子、明日の会議の資料、彼のアカウントには共有しなくていいから。セキュリティの無駄よ」
貴子が後ろを振り返らずに指示を出すと、冴子は静かに、完璧な角度で一礼した。
「承知いたしました、奥様」
冴子の視線が、一瞬だけ修平に向けられた。そこには同情も、見下すような感情すらもなかった。ただシステム上の不要な宛先を確認するだけの、徹底して冷淡で事務的な眼差し。神崎グループの優秀な社員である彼女にとって、修平は業務上のノイズでしかないのだ。
「行くわよ、麗華。来月からの新規プロジェクトの件で、少し確認しておきたいことがあるの」
「はい、お母様」
麗華は修平を二度と一瞥することもなく、貴子の後を追って涼しい顔で母屋へと戻っていった。
取り残された修平は、地面に転がった剪定鋏を見つめたまま、俯いて動けなかった。
西日が肌をジリジリと焼く。耳鳴りのように響く蝉の鳴き声だけが、無遠慮に鼓膜を叩き続けていた。
ゆっくりと膝をつき、泥まみれの鋏を拾い上げる。刃についた湿った土を素手で拭い落としながら、修平は固く唇を噛み締めた。口の中に、鉄の味がうっすらと広がる。
都合の良いサンドバッグ。
それが、この神崎家における僕の存在意義だ。
会社の不祥事や業績不振があれば、名前だけの役員である僕に真っ先に責任が押し付けられ、書類上のスケープゴートにされる。麗華の機嫌が悪ければ、その捌け口として理不尽な罵倒を浴びせられ、物を投げつけられる。
逃げ出したい。夜逃げしてでも、この家から消え去りたい。何度もそう考え、深夜に鞄に荷物を詰めたことも一度や二度ではない。
けれど、この十年間で神崎家によって徹底的に自尊心を削り取られ、外界との関わりを断たれてきた修平には、この巨大な門を出て一人で生き抜く気力も、金も、術も残されていなかった。自分は無能で、誰の役にも立たない底辺の人間なのだと、日々の暴力的な言葉によって骨の髄まで刷り込まれてしまっていたのだ。
「……僕は、何のために生きてるんだろうな」
夕闇が迫り始めた庭で、修平の掠れた呟きは、誰の耳にも届くことなく湿った空気に溶けて消えた。
翌日。
修平は言われた通り、朝から裏庭に這いつくばって雑草取りをしていた。
肌を刺すような強い日差しの中、無心で草を引き抜く。爪の間には黒い土が入り込み、指先は荒れ果てて所々切れていた。額から滴る汗が目に入り、視界を霞ませる。
昼過ぎ、母屋の裏口の方から、麗華の弾むような笑い声が聞こえてきた。
「もう、翔ったら。そんなに急がなくても、時間はたっぷりあるのに」
修平が顔を上げると、テラスのパラソルの下で、麗華が見知らぬ若い男の腕にぴったりと抱きついていた。
黒崎翔だ。麗華の愛人であり、貴子のお気に入りでもある男。有名企業の御曹司で、家柄が良く、ルックスも洗練されている。高級なリネンシャツの胸元を開け、余裕のある笑みを浮かべる姿は、泥にまみれた修平とはあらゆる意味で対極に位置する存在だった。
「だって、麗華さんが魅力的すぎるから。……あんな無能な旦那の相手なんて、時間の無駄ですよ。早く俺と……」
「ふふ、本当ね。あんなの、ただのゴミだわ」
二人は、数十メートル先で泥だらけになっている修平の存在など気にも留めず、親しげに笑い合っている。修平は草を握りしめたまま、ただその光景から目を逸らすことしかできなかった。
「おい、そこの」
ふいに、黒崎の声が飛んできた。修平が恐る恐る顔を向けると、黒崎がこちらを見下ろしながら顎をしゃくっていた。
「喉渇いた。……水。冷たいやつな」
「……」
「聞こえなかったのか? さっさと動けよ、ノロマ」
黒崎の嘲笑うような言葉に、修平は思わず拳を握りしめた。奥歯を強く噛み締める。反論の言葉が喉元までせり上がったが、それを吐き出す勇気はなかった。ここで逆らえば、後で麗華からどんな執拗な仕打ちを受けるかわからない。
「翔、そんなに怒鳴らないであげて。犬が怯えちゃうじゃない」
麗華が黒崎の腕にすがりつきながら、修平を見てクスリと笑った。
「ほら、あなた。言われた通りになさい」
「……はい」
修平は重い体を持ち上げ、泥だらけの手をズボンの側面で拭うと、足を引きずるようにして台所へと向かった。
冷房の効いた台所は、外の地獄のような暑さが嘘のように静まり返っていた。大理石のカウンターが、修平の惨めな姿を冷たく映し出している。
大型の冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。グラスを二つ並べ、透明な水を注ぐ。氷を入れるべきか迷ったが、黒崎の『冷たいやつ』という言葉を思い出し、製氷機から氷をすくい入れた。カラン、と澄んだ音が響く。
水面を見つめながら、修平は激しい自己嫌悪に苛まれた。
なぜ、僕はこんな屈辱に耐え続けているのか。なぜ、目の前で堂々と別の男と抱き合う妻に、召使いのように水を運んでやらなければならないのか。
トレイにグラスを乗せ、重い足取りで庭に戻る。
テラスのテーブルでは、二人が顔を寄せ合い、親密な距離で囁き合っていた。修平の足音に気づくと、黒崎は面倒くさそうに顔を上げた。
「……お待たせしました」
「遅い。本当に気が利かない奴だな」
黒崎はトレイからグラスを受け取ると、一口だけ飲んで、あからさまに不快そうな顔をしかめた。
「ぬるい。こんなもん飲めるか」
バシャッ!
次の瞬間、黒崎はグラスの水を氷ごと修平の顔に向けてぶちまけた。
冷たい水が、修平の眼鏡のレンズを打ち据え、顎から首筋を伝って泥だらけの作業着へと染み込んでいく。鋭い角を持った氷の塊が頬を叩き、足元のテラスにカランと音を立てて転がり落ちた。
「あっ……」
黒崎は空になったグラスを、無造作にテーブルの上へ放り投げた。ガチャンと音を立てて転がったグラスは、そのままテーブルの端からテラスの床へと落下し、鈍い音を立てた。幸い割れはしなかったが、修平の足元に力なく転がった。
「もっと冷たいのを持ってこいって言ってんだよ。頭悪いのか?」
顔から滴り落ちる水を拭うこともできず、修平はその場に縫い付けられたように動けなかった。怒りよりも先に、圧倒的な惨めさが全身を麻痺させていた。
「もういいわ、翔。あんなの相手にしてたら、こっちの気分が悪くなる。中に入りましょう」
麗華が黒崎の腕を引き、修平を汚物でも見るかのような軽蔑の眼差しで見下ろした。
「あなた、本当にどこまで惨めなの? 少しは恥ずかしいと思わないの?」
その言葉は、ぶつけられた冷たい水以上に鋭く、修平の心の最も柔らかい部分を無残にえぐり取った。
「……申し訳、ありません」
震える声で無意味な謝罪を口にする修平を見て、麗華は満足げに鼻で笑い、黒崎の背中に寄り添いながら母屋へと入っていった。ドアが閉まる冷たい音が、静かな庭に響き渡る。
一人残された修平は、びしょ濡れの顔のまま、足元に転がるグラスを見つめていた。
ゆっくりとしゃがみ込み、水滴のついたグラスを震える手で拾い上げる。
眼鏡のレンズには水滴がこびりつき、視界は歪んで使い物にならなかった。眼鏡を外し、泥のついた手の甲で顔を乱暴に拭う。
いつから、こんなふうになってしまったのか。
希望に満ちていたはずの結婚生活が、なぜこんな地獄に変わってしまったのか。
手の中のグラスを強く握りしめる。このまま床に叩きつけて粉々に割ってしまえたら、どんなに楽だろうか。大声を上げて、あのドアの向こうにいる二人に掴みかかることができたら。
だが、彼の手にはそれだけの力すら残されていなかった。グラスを握る指先は、ただ無力に白く小刻みに震えているだけだった。
静寂を取り戻した庭に、生ぬるい風が吹き抜ける。濡れた作業着が肌に張り付き、体温を奪っていく。
修平は、歪んだ視界のまま、裸眼で空を見上げた。眩しいはずの夏の空は、今の彼にはただ重く、全てを押し潰すような底知れない暗闇のように感じられた。




