二人の兄妹
Ⅰ
「ふむ、今日はオールバックではないのね。髪型」
「目が覚めたばかりだからな。寝るときまで髪のことなんか気にしねーよ」
でも、前髪が鬱陶しいので後ろへ流して置こう。
髪を掻き上げて視界から邪魔くさいものを無くしていると、十六夜は十六夜でカーペットの上に陣取っていた。行儀良く正座をしてキョロキョロと部屋を見渡している。そう言えば、何も考えずに部屋に入れてしまったな。見られて困るものは必要な時にしか出さないから、問題はないと思うが。
「案外、綺麗にしているのね。もっと散らかっていると思っていたわ」
「散らかってたら意地でも部屋の中になんか入れてない」
「たしかに」
いま、日頃からこまめに掃除をしていて良かったと、心の底から思っている。
「しかし、いま何時だ? げっ、まだ午前七時じゃあねーか」
勉強机のすこし上に設置してある時計に目を向けてみると、その長針と短針は午前七時を少し過ぎた時刻を示していた。休日にこんなに早く目を覚ましたのはいつ以来だろう? たぶん、中学校以来じゃあないか?
「いま物凄く二度寝したい気分なんだけれど」
「朝、ちゃんと起きておかないと、夜になって眠れなくなるわよ」
「いや、そうは言うけれどさ。休日だぞ。雄鶏だって今日くらい気を遣って、ちょっと遅めに朝を告げてくれるからな」
「あら、私のところにいる雄鶏はいつも通りの時間に鳴いたわよ」
「そいつは空気の読めない奴だったんだよ。きっと子供のときも嫌われてたぜ」
「貴方みたいに?」
「うるせーよ。ちくしょう」
盛大に墓穴を掘ってしまった。こっちの方向に話の舵をきらないほうが身のためだな。今度のために覚えて、気を付けておこう。自分が振った話題で身を滅ぼすなんて、洒落にもなっていない。
「十六夜ってさ。休日でも早起きしているのか?」
「えぇ、休日、平日に関わらず、朝はいつも六時に起きているわ」
「なんともまぁ」
老後を迎えた爺や婆みたいだと思ったのは、墓場まで持って行くとしよう。
「そう言えば昨日、集合場所とか時間とかを決め忘れていたな。だからか、十六夜が俺の家まで来たのは」
「一応、家を出るまえに何度か連絡はしていたのだけれどね。待てど暮らせど返事がないから、私から一くんの家に行けばいいと思って」
そう言われ、自然と自分の携帯電話に視線が向かう。充電器と繋がったままの端末は、たしかに受信、着信を知らせるランプを点滅させている。
誰かから連絡が来たのは何時以来だろう。迷惑メールの類いは幾つか来ていたけれど、俺に用事があって送られてくる連絡は久しぶりだ。だからこそ、ずっとマナーモードを解除し忘れていて、十六夜の電話やメールに気が付けなかった。
「んー、でも、連絡がつかないからって、すぐに家までくるのは行動力ありすぎるだろ」
「そう? 私はもう一くんが起きているものと思っていたから。電話やメールを無視されていると判断して直接、殴り込んでやろうという心構えでいたのよ」
「発想が物騒すぎる」
十六夜に起こされるまで眠っていたから、誤解が自動的に解けていたものの。タイミング良く目を覚ましていたら、俺はいったいどうなっていたのだろう。間違いなく、物凄く面倒臭いことになっていたのは確実だな。断言できる。そうならなくて本当に良かった。
「でも、まさか眠っていたとはね」
「誰も彼もがお宅みたいに健康的な生活を送ってねーんだよ。休日はいつも昼まで寝て過ごしているんだからな、俺は」
「そう、把握したわ。次はお昼頃に訪ねるとするわね」
また来る気なのか。いや、べつに構わないのだけれど。
「あぁ、そうだ。俺、まだ顔も洗ってないんだった。ちょいと下に降りて歯磨きとか、色々してくるから、ここで待っててくれ」
「分かった。なら、すこし寛がせてもらうわね」
「そうしてくれ」
返事をすると、十六夜は正座を崩して楽な座り方に移行する。
座布団でもあれば出していたのだが、生憎、座布団は和室にしかない。まぁ、もう十六夜は足を崩しているし、今更か。それよりさっさと下に降りて、顔を洗ってしまおう。
「あっ、部屋の中を漁ったりするなよ?」
「心配しなくても大丈夫よ。私だって思春期の男の子の部屋を漁りたくはないわ。どんなおぞましい物が出て来るか、分かったものではないのだから」
「おぞましい物って。まぁ、いいや」
そりゃあ女子の目からみれば、おぞましい物かも知れない。だが、それは意見の相違だ。それがどれだけおぞましくても、男子の目にはどれも宝物に写るのだ。女子はそこのところを良く理解していない。
なんて、そんな下らないことを思い浮かべながら、部屋から離れて階段を下る。家の構造上、階段が終わってすぐ先に玄関があるのだが、そこで見慣れた後ろ姿を見付ける。休日だと言うのに学生服を身に纏ったそいつは、靴べらを使ってスポーツシューズを履いていた。
一唯、小憎たらしい俺の妹だ。
「あっ。珍しいじゃん。はじめが休日に早起きなんてさ」
「ちょいとな、目が覚めたんだよ」
「ふーん、それって電話が掛かってきたから?」
「んん?」
「惚けても無駄だよ。部屋から話し声が漏れてたんだから、なんて言ってたのかは聞き取れなかったけれど」
さっきの会話を聞かれていたのか。いや、会話というより、俺の声だけを聞かれたって感じかな。十六夜はいま仮想の身体になっているし、一般人の唯には声が聞こえない。だから、俺の声しか聞き取れずに電話をしていたと誤解したってところか。
「んー。まぁ、そんなところだ」
「ねぇ、その電話ってもしかしてさ。十六夜先輩から?」
その名前が唯の口から出て来たことに驚く。見事に言い当てられた。十六夜との交友関係を話したことはなかった筈なのに、どうしてそれを知っているんだ。
「あ、その顔は図星ってところでしょ。へぇー、あのはじめがねぇ」
「……なんで分かったんだ?」
「だって、十六夜先輩は後輩の私達の中でも憧れの的だもん。浮いた噂はすぐにでも広まるよ。十六夜先輩がはじめをお昼に誘ったって話は、もうみんな知ってるんだから」
浮いた話、ね。同級生の男子と飯を食ったからって、それが恋愛絡みの話になるとは限らないだろうに。どうやら好き勝手な憶測が飛び交っているみたいだな。
しかし、噂の広まり方が早い。昨日の今日でもう全校生徒に知られているのか。休み時間には十六夜の話をしましょう、という校則が新しく出来たんじゃあないかとさえ思うくらいだ。
「てか、知らなかったの? 噂になってるって」
「まぁ、な。そう言う類いの話には興味がなくて、疎いからな」
本当のこと言えば、ぼっちであることの弊害なんだけれどな。誰とも会話を交わさないから、校内の情報が一切入ってこない。すべて直前で途切れて、俺の耳にまで届かない。まさか、流布された悪評を遥かに上回る速さで、そんな噂が台頭しているとは思いもしなかった。
「それでさ。本当のところはどうなの? 十六夜先輩と付き合ってるの?」
「付き合ってねーよ。友達だ、友達」
「えー。つまんなーい」
「つまる、つまらないで恋愛が成立して堪るか」
そんな簡単なことで恋愛が出来るなら、世の中の恋愛ドラマに需要なんかなくなるのだ。
けれど、唯もだんだん母さんに似てきたな。恋愛ドラマ大好き人間の血を受け継いでいるだけあって、色恋沙汰や惚れた腫れたの話に興味津々だ。どうしてこうピンポイントに、嫌なところだけ似てくるのかね。まったく。
「じゃあ、十六夜先輩とお昼を食べてたとき、なに話したのか教えてよ」
「唯が俺のことをお兄ちゃんって呼んだら教えてやるよ」
「うえっ、なに言ってんの? 気持ち悪い。私がはじめをそんな風に呼ぶわけないでしょ」
「だから言ったんだよ。こう言えば、もうそれ以上、追究してこないだろ?」
「むむむっ」
この小憎たらしい妹は、俺のことを一度もお兄ちゃんと呼んだことがない。
お兄さんとも、兄貴とも、お兄様とも、唯は呼ばない。とにかく、兄とつく言葉にアレルギーでも持っているかのように、頑なに俺のことをそう呼ぼうとはしないのだ。たぶん、ここまで呼び捨てで通って来たから、今更、兄と呼ぶことに抵抗があるのだろう。
なにか俺に要があるときは大抵、おい、ちょっと、はじめ、のいずれかだ。酷いときにはお前とさえ言われる。
だから、お兄ちゃんと呼べ、と言えば必ず唯はそこで追究を止める。これは母さんの腹の中から唯が生まれた時から兄をしている俺だからこそ、確信をもって言えることだ。
「ほら、もういい時間だろ。朝練に行けよ、遅刻するぞ。この筋肉カチカチ女」
「あー! いま絶対に言ってはいけないことを言ったな! このネトゲ廃人がッ」
罵倒と共に飛んできた、鎌の薙ぎ払いのような蹴りが俺の脛を強打する。
完全なる不意打ちだったがために、防御も回避もままならず、まともに喰らってしまった。脛に鈍くて重い痛みがじわりと広がっていく。来ると分かっていればどうとでもなったのに、不意打ちは卑怯だ。
「くぉぉッ。この……このクソガキめぇ」
「べーっだ! はじめのバーカ! ふふんっ、お母さん行って来まーす!」
膝をついた俺に罵声を浴びせた唯は、そのまま玄関扉を開けて学校へと向かっていった。
玄関には鈍痛に苦しむ俺と、妹にしてやられた憎しみだけが残っている。これだから妹は小憎たらしいのだ。いつでもどこでも長男というのは損な役回りだ。もっと労って欲しいものだよ、本当にさ。




