94.水牛のコー(ค)【後編】
コークワーイ・マレットと一戦を交えたあと、あたりが夕焼けに染まり始める。
一面に広がる黄土色の砂場で俺は白いトカゲの医者の兵隊を呼び出し、マレットと俺を治療させた。
マレットはすり鉢状の流砂から出て腰を下ろし、割座になる。
「ありがとッスわ」
ついで彼女は俺とクマリーがそばに来たことを確認したのち、こぶし大の茶色いタネを上着から取り出した。
それを流砂に投げる。
「サート」
するとタネが割れ、なかから黄土色の砂が大量にほとばしった。
雨のように流砂に降り、へこんでいた地面がなだらかになった。
「すり鉢状の地形はアタシがマーイムアンの銃で砂場をえぐって作ったものッスよ。だからアタシ自身が元通りにしとかないとね」
「……マレット」
俺は彼女の正面に右ひざを立てて座った。
「どうして君は俺に銃を使ってほしいんだ」
「そういえばあらためて考えてみると……なんでなんスかねえ。どうも気に食わないっていう気持ちばっか先行してたかも」
マレットは自分のふくらはぎに指をすべらせながらうなる。
「銃を使ってほしいというか、トータハーン(ท)ちゃんが銃をさけている背景が気になってモヤついてる感じッスかね。銃の愛好家としては……なんでそこまで忌避すんのかなって」
「俺以外の文字保有者もだいたい銃を使用しないと思うけど」
「ん~、それはトータハーンが兵隊だからじゃないスか。最近の戦争では銃も多く用いられているわけでしょう。民間人の所持には規制があるッスけど、兵隊だったら普通は積極的に銃を使用するもんじゃ?」
「ああ、そこが引っかかるわけか」
マーイナー(เ)のかたちをした彼女の一対の髪飾りを目に入れ、俺は答える。
「理由は、銃に関するトラウマがあるからだよ。人が使っているぶんはいいんだが、自分が使う場合は手が震える」
「子どものころ銃を暴発させて死ぬ思いでもしたとか?」
「無理に引き金を引かされそうになったんだ」
物心ついたころから俺は、とある組織で傭兵になるための訓練を受けていた。組織には俺のほかにも身寄りのない者たちが多くいたことを記憶している。
十歳にも満たないころ、銃を持たされて暗い部屋に連れていかれた。
室内には頭に大ケガをした男が縛られた状態で横たわっていた。
組織の人間によると彼は捕虜らしい。
必要な情報は聞き出したからあとは始末するだけとのこと。
撃てと命じられることはなかった。
そばにいた誰かが銃を持った俺の右手を持ち上げ、俺の人差し指を引き金にかけた。その指の爪に自分の指の腹を乗せ、引き金を手前に引こうとした。
瞬間、反射的に俺はさけんで銃を勢いよく投げ出した。
その銃身が縛られた男に当たった。
頭のケガから血が漏れた。男が俺をにらみつけたのが分かった。
見ようによってはなんてことない記憶かもしれないが、なぜか俺の心には深く刻みつけられた。
以来、銃は苦手だ。
「詳しいことは伏せるけど、いい思い出じゃなかったのは確かだな」
「ご、ごめんなさい」
しおらしく、マレットが唇を震わす。
「アタシ、嫌なことを思い出させたようッスね。にもかかわらず自分の気持ちを押し付けて……」
「気にすることはないよ。むしろ君とぶつかり合えてよかった」
ここで俺は話題を転じることにした。
「マレットはどうして銃が好きなんだ」
「母音記号みたいなかたちが気に入っているからというのもあるけど、一番は家族を助けてくれたから」
浮ついたような声を出し、マレットが少しだけ俺に寄る。
「アタシの家族は防犯として銃を所有していたんス。でも銃は見かけ倒しで実弾は入れてなかった」
「なるほど、そのカラの銃で威嚇して強盗かなにかを追っ払ったことがあるわけか」
「いやアタシの家は至って平和だったんで、銃はただのお飾りだったッスよ」
舌の先端をちろりと見せ、静かに笑う。
「でもそんな優しい銃もアタシは好き。もともと家にカラの銃を置いていたのは父だけど、なんかそこに温かい空気があったっていうか。けっして豊かな暮らしではなかったッス。それでもあのなんちゃって銃のおかげでアタシも弟も父も母も気楽に生きることができた。そういう意味で銃はアタシたちを助けくれたんス」
「道理で銃を愛するわけだ」
正直マレットが言っている家族の像が分からないので完全に理解できたわけではない。
それでも幸せな記憶を掘り起こすマレットの穏やかな表情から、その家庭に「温かい空気」があったのは本当なのだと信じられる。
コークワーイ(ค)の力を使って実弾ではなくタネを発射するのも、そのときの記憶が関係しているからだろう。
ついで俺は頭上に浮くクマリーに目配せする。
クマリーは俺たちの話が一段落したことに気づき、マレットと目線の高さを合わせた。
「マレットさんっ、あらためてクマリーはクマリーです」
「よろしくッス。アタシはコークワーイ(ค)……『水牛のコー』の文字保有者マレット」
直後、少し気まずそうにマレットが言葉を継ぐ。
「さっきの戦いのなかではバカにした態度をとってすまなかったッス、クマリー」
「え……? そんなふうには感じませんでしたけど」
とくにクマリーは気にしていない様子だ。
「そしてさっそくですが、ぜひマレットさんの文字を学ばせてくださいっ!」
「あー、クマリーがウォーウェーン(ว)覚醒を目指してみんなの字をなぞっていることはアタシも聞いてる。当然いいッスよ」
マレットは赤茶の上着を投げ、俺の視界をふさいだ。
「悪いッスけどトータハーン(ท)は見ないで。アタシの文字は異性には見せられないところにあるから」
そんな彼女の言葉に従い、フルンフリンのときと同じように俺は目を閉じた。
感謝を述べるクマリーにマレットが言う。
「ほい、アタシのคは右側……クマリーから見て左側に刻まれているッス」
「それではなぞります……っ」
このタイミングでマレットのコークワーイ(ค)にクマリーの指がふれたと思われる。
まず中心に反時計回りで小さい丸を書く。
次に丸の左側から左斜め下へと線を引く。
全体の左下に来たら緩く左に張り出す弧をえがきながら上昇する。
左上に近くなったところで上に張り出す弧を作りつつ今度は右へと寄る。
全体の右上よりも低い位置に達したあとは一気に線を下ろして右下でとめる。
こうしてコークワーイ(ค)の字が完成する。
「やっぱり、最高の書き心地ですっ!」
文字を宙に何度も書くクマリーの姿が俺の脳裏に鮮明に浮かぶ。
「フフちゃんのドーデック(ด)やクルムさんのソーサーラー(ศ)にも似ていますが、マレットさんのコークワーイ(ค)は反時計回りと時計回りの純粋なハーモニーですねっ! この文字も学び、ますますクマリーの世界が広がったような気がします。感謝ですっ」
そういえばホーノックフーク(ฮ)はクマリーに次のように言ったことがある。
(しかし同じように見える模様を『違うもの』と魂が認識したとき、世界が少し広がるんじゃよ)
すでにクマリーも四十二個の子音字のうち三十三文字を学習した。
未学習の字はあと九文字。すべての字をマスターするまで残り一桁。
さらにクマリーは恒例の質問に移る。
「ところでマレットさんのコークワーイ(ค)とチュアさんのコーラカン(ฆ)は同じ音なんですか」
「そうッスよ。あ、トータハーン(ท)、悪かったッスね」
マレットが俺にかぶせていた上着を自分の肩にかけなおした。
続いてクマリーがマレットの名前の書き方を教えてほしいと言う。
対するマレットはワサビ色の髪をくしけずりながら返す。
「モーマー(ม)とローリン(ล)とドーデック(ด)は分かる?」
「はい。サラサさんとヒマちゃんとフフちゃんの文字ですからっ」
「じゃ、マーイナー(เ)とマーイタイクー(◌็)は?」
「それらを使って『エ』をあらわせることはレック(เหล็ก)さんのお名前を書くときに学びました」
「上出来ッスわ。それらの文字と記号を用いれば楽勝で書けるッス」
「やってみますっ」
まずクマリーはマレットの前でひざをつき、「モーマー(ม)」を黄土色の砂に書いた。
それを見たマレットが声をかける。
「クマリー。この場合マーイナー(เ)はローリン(ล)とモーマー(ม)どちらの左にくっつけると思うッスか」
「ローリン(ล)じゃないんですか。『エ』の母音になるのはマレットさんの『レ』ですし」
「着眼点はよしッス。ただ、アタシの名前については『マレ』をまとめて一つの子音みたいに捉えたほうが分かりやすいかな。そう考えると」
「ローリン(ล)じゃなくて子音の始まりであるモーマー(ม)にマーイナー(เ)がくっつくわけですかっ。ナーグルア(น่ากลัว)さんの『グルア(กลัว)』やプラトゥ(ประตู)師匠の『プラ(ประ)』みたいに二重子音と考えればよさそうです~。そういえばレック(เหล็ก)さんの場合もローリン(ล)じゃなくてホーナムの左横にマーイナーがつくんですよねっ」
マレットの「マレ」については正確に言えば二重子音ではないのだが、「エ」をあらわす際にマーイナー(เ)をモーマー(ม)の前に置くことを考えると、「マレ」をひとセットの子音と見なすのもあながち的外れではないだろう。
クマリーがモーマー(ม)の左横にマーイナー(เ)を書き足し、さらに右横にローリン(ล)をつける。
それからレックの名前を書いたときのようにローリンにマーイタイクー(◌็)をかぶせた。
結果、マレ(เมล็)という文字列ができあがる。
「あとは『ト』ですね。えっと使うのはドーデック(ด)ですか……?」
しかしクマリーは不思議に思ったのか、右人差し指を宙で静止させる。
「ちょっと待ってください。『ト』という音をあらわすなら亀さんのトータオ(ต)やお兄さんのトータハーン(ท)といった文字を使うのでは? フフちゃんのドーデック(ด)は『ド』の音ですよねっ。ルディ(ฤดี)さんの『ディ(ดี)』をあらわすときもドーデックを使いますし。あ、だけど思えばンゴット(งด)さんの『ト』もドーデック(ด)でした。こ……これはいったい」
「末子音ッス」
マレットがゆっくりと説明する。
「音の塊の最後に子音が来たときは、ちょっと特殊な発音になる場合があるんス。ドーデック(ด)についてはクマリーが言ったとおり通常は『ド』なんスが、最後に置かれたときは『ト』になる感じ。だからチョーガチュー(ฌ)ちゃん……ンゴットガーム(งดงาม)の『ト』にもアタシのマレット(เมล็ด)の『ト』にもドーデック(ด)が使われるわけなんス」
「な、なんと……っ」
「難しいッスかね」
「まだまだクマリーの知らない秘密が文字に隠されていたとは……本当に文字ってどこまでもおもしろくてイカしていますっ!」
「おおっ。さらに燃えるとはクマリーはすごい精霊じゃないの」
笑顔でマレットは、クマリーが地面にドーデックを加えるさまを見る。
末子音としてのドーデックを書き終え、マレット(เมล็ด)という名前が完成した。
「ありがとうございました、マレットさん。上品にまとまっていて、マレットさんの秘めたるキラキラした思いをこれ以上ないほど表現しているお名前だと思います」
「どもどもッスわ……あ、そうだ。クマリーが頑張ったから……」
マレットが俺に視線を移す。
「トータハーン(ท)、コップ持ってる? できれば三つ」
「ある」
俺はタハーン・グラジョームを呼び、その口から薄茶のコップを引っ張り出した。
ペートに消毒させているので衛生上も問題ない。
コップを受け取ったマレットが礼を言い、いったん背を向けた。
そそぐ音がする。
もう一度こちらを向き、俺とクマリーにコップを渡す。
コップには白い液体が満々とつがれていた。
「しぼり立ての水牛乳ッス。アロイッスよ~。そのまま飲めるやつだから安心してね」
「コープクン」
俺とクマリーは素直に感謝した。
そのあと俺はグラジョームからバナナも出し、さらに水牛乳をユアックに冷やしてもらった。
三人同時に、バナナをほおばりながら冷たい水牛乳を飲む。
確かにアロイとしか言いようがない。
とくにクマリーは興奮で身をよじらせている。
「お、おいしすぎます~。濃厚なバナナが、これまた濃厚でのど越しも抜群な水牛乳にドロリと溶けて甘さが口内に広がるのみならず、のどの奥まで心地よく押し広げてきますっ。水牛乳の温度が全身にくまなくしみわたるところもポイント。お腹に落ちる感覚さえも喜びの音と言えるでしょうっ!」
「コ、コープクンッス……っ」
照れながらもマレットの口角は上がっていた。
水牛乳を飲んだあとは鐘のイヤリングをマレットに渡し、俺とクマリーは彼女と別れた。
しばらくして、ほとんど暗くなった砂場を進みながらクマリーがふと首をかしげる。
「あれ? そういえばマレットさんはあのアロイ水牛乳をどこから出したんでしょう。しぼり立てなんですよね? クマリーが見たところ容れ物も持っていなかったようですし……お兄さん、分かりますかっ」
「ไม่รู้(さあ……?)」
思わずはぐらかしてしまった。
* *
俺はグラジョームのなかで、クマリーは俺のへそで眠り、一夜を明かす。
ファが俺の左肩に刺した旗はさらに赤色を強めていた。
砂場を抜け、緩やかな川に差しかかる。
川は南から北に流れている。
西に向かう俺たちから見て左から右へと流れているわけだ。
といってもそんなに大きな川でもない。
浅いようで、水底の石もくっきり見える。
ここで、こちらの脳に直接響いてくるような声が聞こえた。
「待ちかねたぞ。クマリー・トーンにトータハーン・アーティット」
見ると左前方の川面になにか妙なものがある。
灰色の壁が立っているのだ。
円盤に似たかたちの壁が車輪のように揺れている。
その直径は百五十センティメートといったところ。
また、厚みは五センティくらいだろうか。
しかも円の中心部から十代後半とおぼしき女性の上半身が生えている。
樺色の髪と瞳を持つ女性だ。
あごが上を向いており、かつ胸をそらしているためミディアムの髪が川面のほうへと垂れていた。
顔の輪郭は曲線で構成されており、どこか幼い印象を与える。
謎の円盤が腰に引っかかっているようで下半身は見えないが、トップスは濃い灰色のノースリーブ。かつタートルネックでもある。両手をやや広げ、円盤の壁に置いている。
「もう知っているかもしれんが、わが名はチャーイハート。ファの願いに応え、キサマと手合わせしに参った」
「分かった、いつでもかかってきていい」
俺は川面をパシャリと鳴らし、前に出た。
しかし樺色の髪の彼女――チャーイハートはかぶりを振る。
「否否。拙が戦いたいのはアーティットではないぞ」
「……え?」
「これから拙と手合わせするのは――」
チャーイハートが両の中指で差したのは、バナナの房が重なったような茶髪を持つ彼女だった。
クマリーがそれに気づき、両手の人差し指で自分を差す。
「……クマリーをご指名ですか」
「そうだ、キサマだ……ん?」
このタイミングで北から南へと強い風が吹いた。
風に押され、チャーイハートのハマっている灰色の円盤が転がる。
「わああ~……」
緩やかな流れをさかのぼり、左へと消えていく。
俺は振り返り、クマリーにたずねる。
「……追うか」
「はい」
俺たちは上流方向に急ぐことにした。
次回「95.小僧のノー(ณ)【前編】」に続く!(5月9日(土)午後7時ごろ更新)
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
サート(สาด)→ぶっかける
マイルー(ไม่รู้)→知らない




