92.チンのチョー(ฉ)【後編】
パイロと俺は崖のふちを向いて地面に腰を下ろした。
左のパイロが右ひざを立て、右の俺があぐらをかく。
クマリーは横にした俺の足首に座った。
ここでパイロが唱える。
「グラップ」
すると両手のチンと脚に挟んでいた竪杵がみるみるうちに小さくなった。
チンのヒモを竪杵のくびれに巻きつけたのち、ミニサイズの貝殻みたいになった一対のチンの両側を左右の耳穴に差し込む。
水平の竪杵が、ヒモに絡んだまま彼のうなじで揺れている。
大きな瞳孔を持つパイロの右目が俺を捉える。
「まずはアーティット、貴方に謝罪する」
立てていたひざを倒し、正座になった。
胸部とひざの先を俺に向ける。
「妙なことを口走ってしまい、すまなかった」
「君が勝ったら俺と結婚すると言ったことか」
足首に乗っているクマリーごと、俺はパイロに体を向け返した。
「確かに戸惑いはしたし君の気持ちには応えられないけれど、俺のほうこそ謝りたい。君の言葉を聞いても俺は自分の気持ちをはぐらかしてスルーしていた。真剣な君と違って俺の態度は失礼だった。悪かった」
「アーティット……」
パイロは再び崖のほうを向いて右ひざを立てた。
「どうして私が今あんなことを言ったのか、貴方も疑問に思っているだろう」
「ああ、君の気持ちを聞かされたのは初めてだからな」
俺もクマリーと共に体の向きを戻す。
「口にしたきっかけはなんなんだ、パイロ」
「私にも分からない。気づいたら口をついて出ていた。無論、洗脳によって言わされたとかそういうことでもない。ただ……顧みるに君と結婚したいと思うのはウソではないと断言する」
右耳に入れたチンをさわりつつ、パイロが続ける。
「あるいは貴方に並々ならぬ思いをいだくファの影響を受けて私の口が自然に動いたのかもしれないな。そもそも私がファに協力するのは、アーティットに対する彼女の思いの強さが私にも分かるからだ。自分を救ってくれた貴方の姿を目に焼きつけているからだ」
「少なくとも君を助けた記憶は俺にはないが」
「無理もない。当時の私の髪は長く、顔もほとんど隠れていた」
すっきりとしたパイロの短髪が崖からの風を受け、揺れる。
「四年前、北にある私の村が盗賊にねらわれた。そのとき通りかかった傭兵たちが村を守ってくれた。彼らのなかに貴方がいたことは確かに私が記憶している」
「それなら覚えがある。みんなと紛争地帯に向かう途中だったな」
ファやスーンと出会う前の話である。
「だが俺たちが村を助けたのは善意じゃない。腹が減っていたから、食料という対価のために盗賊をしりぞけたにすぎない。そして村が無事だったのは俺じゃなくてそこにいた傭兵全員のおかげだ」
「村単位で言えばそうだ。しかし私を救ったのは赤目赤髪の貴方にほかならない」
パイロが静かに俺の髪と目に視線をそそぐ。
俺は彼の背中の切り傷をじっと見つめた。
当時の光景を記憶の海から詳細に引っ張り出してみる。
そして思い出した。村の倉庫で子どもたちをかばって盗賊の剣を背中で受けていた人がいたことを。
「パイロと俺はそこで会っていたのか」
「記憶がよみがえってきたようだな。あのときの私はただの村人だった。チョーチン(ฉ)の文字もない。そんな無力な私の目に貴方が飛び込んできた。盗賊数人を十秒もかからず始末した貴方はとても偉大に映った。貴方の助けがなければ子どもたちも私も死んでいる。兵隊の貴方にとって人のいのちを救うことは珍しい事例でもないのだろうが、私は礼を言いそびれていた。四年越しにありがとうと言わせてくれ」
手を合わせ、パイロが真鍮色の瞳をまばたきさせる。
「その後、貴方は私たちに『もう盗賊は撃退しました』と冷静に伝えた。さらにケガをした私をかかえて子どもたちと倉庫をあとにし、衛生兵のもとで治療を受けさせてくれた。そのぶんの費用を貴方が払っていたことを私は、貴方の仲間から教えてもらった」
ずっと黙って話を聞いているクマリーにも視線をやり、重低音のような声を静かに響かせる。
「思えばすでに私はその時点で貴方にほれていた。それだけで結婚に結びつけるのも短絡的に映るだろうが、私の村では年齢性別問わずそういう考え方が普通なのだ。貴方が村から去ったあと、グラハンになって貴方のもとに飛んでいけないかと夢想したくらいだ。竪杵にまたがりザルを両手に持って、真面目に飛ぼうとしていた」
「そんななか、スーンにチョーチン(ฉ)を刻んでもらったんだな」
「そうだ。結果、ザルではなくチンを持って飛行することが可能になった。そしてしばらくたってからトータハーン(ท)の文字保有者と顔を合わせた。貴方は私を思い出さなかったが、私は貴方が私を救ってくれた赤目赤髪の男であるとひと目で分かった」
文字同士が俺たちを再会させてくれたわけだ。
くしくもレックとミーの過去にも似ているかもしれない。
「ずっと貴方に気持ちは伝えられなかった。迷惑だろうと思ったからだ。……いや、私のほうがアーティットに釣り合わないと考えていたのかもしれないが」
「だからこそ結婚するにしても俺に勝つ必要があったんだな」
「おそらく心の底で私は貴方に並びたいと考えていたのだと思う。かつ、負けてファに失望される貴方に寄り添ってやろうという下心もあったはずだ」
「かつての俺に戻ってほしいという気持ちもあるのか」
「いや」
パイロが目を閉じてかぶりを振る。
「こうして戦って話してみると……確かに貴方は丸くなったが、その強さも優しさも健在なのだと分かる」
息をつき、パイロが両脚を前方に伸ばす。
俺は鐘のイヤリングを出し、それをパイロに手渡した。
「ありがとう、パイロ。そしてこれはチュアモーンの鐘だ。使い方は――」
ファやイーガー、フルンフリンにもおこなった説明をくりかえす。
左手に鐘を握り込み、パイロが目をあける。
「私はいったん退散するが、また貴方たちの前に立ちはだかるだろう」
ついで両ひざを立て、クマリーに話しかける。
「クマリー、私になにかできることはまだあるだろうか」
どうやらパイロは長話に付き合わせてしまったということで、クマリーに対して申し訳なさを覚えているらしい。
俺の足首に座ったままクマリーが背中を倒してパイロを見返す。
「ではパイロさんの名前の書き方を教えてくださいっ!」
「喜んで」
「やったあっ! さっそくご指南願います~」
足首から離れ、クマリーはパイロの前に移動した。
「まずは『パイ』ですね。母音は『アイ』なんでしょうが、この音のあらわし方を知りたいです」
「使うのは『マーイマラーイ(ไ)』だ」
重低音に似た声を和らげ、パイロが教える。
マーイマラーイを自分の右人差し指で崖上の地面に書く。
この記号は子音字の左に付加する母音記号の一つだ。
最初に底のほうで時計回りの小さな丸を作る。
次に丸の左側から線をまっすぐ上げる。
ほかの子音字のてっぺんよりも上部に来た段階で左斜め下に折り返す。
それからすぐ、左斜め上に進路を変更する。
右に作った鋭角の高さを越えたあたりでとめる。
こうして「アイ」をあらわす母音記号「マーイマラーイ(ไ)」が完成する。
「この右横に子音としてプラトゥのポーパーン(พ)を添えればいい」
「教えていただきありがとうございますっ! あとは――」
新たに学んだマーイマラーイ(ไ)とポーパーン(พ)によりクマリーは「パイ(ไพ)」と地面に書いた。
続いてパイロが「ロ」の書き方を教えようとしたが、俺はジェスチャーでここからは静かに見守ってほしいと彼に伝えた。
うなずく彼には気づかず、クマリーが右人差し指で地面を削る。
パイ(ไพ)の右隣に「マーイナー(เ)」をしるす。
さらに「ロールア(ร)」「ラークカーン(า)」「ウィサンチャニー(ะ)」を連続させた。
それにより「ロ(เราะ)」の字ができあがった。
自分だけで「ロ」と書いたクマリーに、パイロが感嘆の声を漏らす。
「素晴らしい。すでにそちらの書き方は習得していたか」
「えへへ……クマリー、すごいでしょ~」
首をひねり、俺とパイロを交互に見る。
「フアロ(หัวเราะ)さんのお名前を思い出しながら書いたんです! フアロさんの『ロ』は巻き舌ですし、パイロさんの『ロ(เราะ)』と同じ書き方をするとクマリーは見抜いたんですっ」
「ンゴットガームの精霊とも仲よくなっているとは」
ひたすらパイロは感心している。
大げさと言えば大げさだが、クマリーが褒められるとなんとなく俺もうれしくなる。
クマリーは地面にできあがった「パイロ(ไพเราะ)」という名前を見つめ、笑った。
「パイロさんのお名前の字も、とってもきれいです。始めのマーイマラーイ(ไ)を起点にして、そこから文字が整然と並んでいく――これってまるで、パイロさんのチンが奏でる美しい音と余韻そのものですっ! このお名前はパイロさん自身の美しさもあらわしているとクマリーは断言しますよ~」
「それはコープクンだ、クマリー」
ここでパイロは両耳に入れていたチンを抜き、やや大きくしてそっと打ち合わせた。
チン……という奥ゆかしい音と共に、パイロはほほえんだ。
笑顔のままクマリーは、そんな彼に質問をぶつける。
「ところでパイロさんはきのうの夜、どうして町の上空を飛んでいたんですっ」
「ああ、もうすぐアーティットとぶつかることができると思って――」
地面に書かれた自分の名前に目を落とし、パイロがはにかむ。
「つい舞い上がっただけだ」
* *
そうして俺とクマリーはパイロと別れ、その先の森を進んでいく。
なおボックはまだ回復に時間がかかるので兵隊として呼び出せない。
徒歩で前進し、夕暮れ前に森を出る。
目の前には草木のない黄土色の砂場が広がっている。
しかし俺が西に向かって十歩ほど足を踏み出したとき――。
なんの前ぶれもなく地面が音を立ててすり鉢状にへこんだ。
「流砂か……?」
へこんだ場所の中心を見下ろすと、何者かがそこにいた。
「あれはマレットか」
「正解ッスよ、トータハーン(ท)ちゃん」
ワサビ色の髪と瞳を持つ女がへこんだ地面の底で割座になっている。
右手に黒い「銃」を構えてほくそ笑む。
浮ついた声を出し、女――マレットが俺を見上げた。
「チョーチン(ฉ)を片付けるの、ちょい時間かかりすぎッスねえ。そんなに死にたいんスか? じゃ、遠慮なく撃ち伏せるんでよろしくっとな!」
そのセリフが終わるときにはすでに、マレットの銃口から弾が放たれていた。
次回「93.水牛のコー(ค)【前編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
グラップ(กลับ)→戻る
マーイマラーイ(ไม้มลาย)→「アイ」の母音をあらわす記号(ไ)/子音字の左側につけます。




