91.チンのチョー(ฉ)【中編】
股に竪杵を挟んだままパイロが崖のふちに立ち、チンの片方を持った右手で崖の先を指す。
「勝負はレース形式でおこなう」
崖下には緑の葉っぱを茂らせた木々が広がっている。
そして五百メート先にも崖が見える。
今の俺たちがいる場所と同様、崖上に木は生えていない。目測したところその高さもほとんど一緒だ。
「私とアーティットが同時に飛び出し、あの向かいの崖上により早く着地したほうが勝者となる。ただし森を傷つけた者は着順にかかわらず敗北とする」
重低音のような力強い声が彼の口からよどみなく出る。
「先ほど言ったとおり私が勝ったら貴方は私と結婚しろ。私が負けた場合は戦闘することなく貴方とクマリーを先に行かせる。この条件に不服はあるか」
「受けよう」
俺は後方に控えさせていたイノシシの陸の兵隊を呼び寄せる。
対するパイロはいぶかしげな目でアドバイスを送る。
「差し出がましいようだがボックよりも空の兵隊を頼ったほうがいいのではないか。これは空を飛ぶレースだぞ」
「それでも最初はボックで行く」
イノシシの背中にまたがり、俺はパイロの左横に並ぶ。
パイロもそれ以上の忠告をせず、自身の竪杵を太ももに挟みなおした。
眼下の森の向こうに崖が小さく見えている。
クマリーが俺とパイロの頭上に浮いてレース開始の合図を示す。
「では……スタートっ!」
挙げた両手を彼女が振り下ろすと同時にパイロが飛び出した。
両足で地面を蹴り、自分たちのいた崖から空中に躍り出る。
竪杵の棒を股に挟んだ状態で浮き、両手のチンを打ち合わす。
するとパイロが加速した。
飛行スピードを上げ、一直線に目標に向かう。
一方、俺はボックを後ろに下げていた。
勝負を捨てたのではない。あらためてボックに前進を命じる。助走をつけさせ、崖っぷちで踏み切らせた。
俺を乗せたままタハーン・ボックが砲弾のように宙を進む。
ボックの毛も俺の髪も大きく逆立つ。
そして飛行するパイロに肉迫する。
ついには抜いた。だが後方から鋭い指摘が飛んでくる。
「しかし飛距離が足りないな」
パイロの言うとおりボックの跳躍は始めこそ勢いがあったものの、徐々に高度とスピードを落としていく。
自分のチンと竪杵で確実に飛行しているパイロに追いつかれるのは時間の問題だ。
彼は楽器であるチンの美しい響きを連続させながら俺とボックに近づく。
ボックのスピードが完全に失われる直前に俺は唱える。
「クルンヌン」
詠唱と共にボックが二体に分裂した。
体の大きさを二分の一にしたイノシシ姿の精霊が縦に重なった状態だ。
俺は上の個体の背中に乗っている。
その個体が下の個体を踏み台にして前方に跳躍した。
踏み台にされた個体は霧散する。
しかも分裂はまだ終わりではない。
次から次にタハーン・ボックは二体に分かれ、上の個体が下の個体を踏んづけて跳ぶ。
これを何回もくり返し、飛距離を稼ぐ。
乗れないサイズに縮んでから上の個体も消失したが、すでにそのとき俺は目標の崖近くに達していた。
――あと少しで届く。右手を伸ばす。
刹那、チンを打つ音と共にパイロの声が聞こえた。
「ルムラーム」
ヒュンヒュンと空気を切る音がしたかと思うと、パイロのいる空中からなにかが放たれた。
それはチンだった。
一対のチンの片方が飛来して俺の脚に直撃した。
目標の崖を越え、俺は前方の木々の上に大きく吹っ飛ばされた。
もちろん妨害はルール違反ではない。パイロは「森を傷つけた者は着順にかかわらず敗北とする」とは言ったが、相手の前進を邪魔した者が敗北するとは言っていない。
(しかも勝利条件は相手よりも先に崖を越えることじゃなくてより早く崖上に着地すること。崖にふれていない俺はその地点を通過しても勝ったことにはならない)
パイロの一対のチンはヒモでつながっている。
ヒモが伸びてチンの片方が崖のふちに引っかかったが、もう一方のチンを右手で持つパイロがそのヒモをゴムのように縮ませて崖上へと高速接近する。
俺は紫のコウモリの姿をした空の兵隊を呼び出し、崖に引き返そうとした。
だがパイロが股に挟んでいた竪杵を発射し、アーガートの翼をつらぬき落とした。
俺はアーガートがやられた反動で地面に落下し、木々のあいだの登り坂を走る。
森自体を遮蔽物にしながら、木の生えていない崖上を目指す。
このままではパイロのほうが早く目的地に着く。
「タハーン・グラジョーム!」
灰色のワニに似た天幕の兵隊を崖上に出現させ、崖に引っかかっているパイロのチンをかみちぎるよう命令する。
しかし宙を舞っていた竪杵が単独で飛行し、斜め上からグラジョームの頭部に突き刺さった。
すでに崖間際に迫っていたパイロが霧散するグラジョームの向こうから左手を出す。
「結婚は成った」
「いいや、そうは成らない」
パイロの左手が崖上に着く前に、俺は崖のふちを踏んだ。
わずかに後れて彼の手が俺の靴をかすめる。
「なぜ間に合っている、アーティット」
「君の竪杵を利用させてもらった」
左手に持った釣り竿を俺はパイロに見せた。
木の枝に似た簡易なものではあるが、「ルークタハーン・カンベット」と唱えることで左手の平のトータハーン(ท)から俺がこの竿を出せることはパイロも知っている。
竪杵がグラジョームめがけて動くと同時に俺は釣り糸を飛ばした。
釣り針と糸を竪杵に引っかけたのち、勢いよく移動するそれに引っ張られるかたちで一気に登り坂を駆けたのだ。
もちろんそれだけで崖上に到達できたわけではないが、充分に距離は稼げた。
パイロは俺の竿を見るだけで、以上のことを一瞬で理解したようだ。
「そうか。グラジョームを出現させたのは私のチンをかみちぎるためではなく、私の注意をそらしながらこちらの杵を逆用するためだったのか」
もしグラジョームに杵が向かわなくても、その場合は素直にチンを崖から落とせばよかった。
俺はパイロに右手を差し出しながら聞く。
「だけど、さっきの杵やチンの素早い動きを最初から惜しみなく発揮していれば君のほうが有利だったんじゃないか」
「私は手加減などしていない」
左手で俺の右手をつかみ、パイロが引っ張られる。
「もし序盤か中盤の時点で私が仕掛けていたら貴方はもっと軽々と対処していたことだろう」
崖上にひざをつき、チンの片方を再び左手に持つ。竪杵をまた股に挟む。
「なんにせよ私の負けだ。約束どおり、先に行け」
空を飛んで追いついてきたクマリーにも顔を向け、パイロが言った。
(ファ側の目的は俺を殺すことでも妨害そのものでもなく、戦いを通して俺を昔の姿に戻すこと。フルンフリンもそうだったが、だからこそ徹底抗戦することもないわけか。ただ、ファに協力したパイロ自身の目的は……)
うつむいたパイロの背中に刻まれたチョーチン(ฉ)を目に入れながら俺は釣り竿を左手の平にしまった。
しゃがみ、彼の真鍮色の瞳と目を合わせる。
「その前に君と話したい」
「急いでいるだろう。邪魔した本人が言うのもなんだが」
俺の左肩の、うっすら赤い旗を見てパイロがつぶやく。
「貴重な時間を私に割くものではない」
「むしろ仲間のためなら割くさ。旗のタイムリミットがきょうというわけでもないしな」
腰を下ろし、俺は崖の先を見た。
スタート地点の崖も五百メート先に小さく映っている。
「どんなに貴重な時間も絶対的には、そうじゃない時間と同じように流れていく。だったら自分の好きに使いたいと思う」
「浪費でなければな」
パイロは薄い唇をわずかに綻ばせ、両手のチンをこすり合わせた。
その静謐かつ繊細な音がこだまし、あたりの木々に吸い込まれていく。
次回「92.チンのチョー(ฉ)【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
クルンヌン(ครึ่งหนึ่ง)→半分
ルムラーム(รุ่มร่าม)→不格好だ




