90.チンのチョー(ฉ)【前編】
西の陸地の町で一泊したあと、俺はクマリーと共にさらに西方へと向かった。
ファと会う前にエーンから聞いていたことだが、まだクマリーに字をなぞられていない文字保有者十一人も全員この先にいる。
おそらくすでにファの説得を受け、俺の追跡を阻もうとしていると見ていい。
俺の左肩に刺さった白旗はうっすらと赤く染まり始めている。
この旗が深紅になった時点で俺は死ぬので、邪魔する文字保有者をしりぞけつつ急いでファに追いつかなければならない。
町から離れ、緑色のイノシシである陸の兵隊を森のなかで走らせる。
ボックにまたがった状態で俺はこれから戦う者たちについて整理した。
(エーンの捉えてくれた文字保有者は全部で十四人。所在地も教えてもらっている。彼女の情報をもとにして俺とクマリーは東から西へと順にファ、イーガー、ウィサーハ、パイロ、チャーイハート、ダーンナー、ワッタジャック、ネーティ、バンダー、ニウフアメー、フルンフリン、マレット、トラニー、ジウと会う予定だった)
だがイーガーの次にドーデック・フルンフリンが来たことを考えると必ずしもこの順に遭遇するとは限らない。
(向こうだって移動する可能性があるからな。それに昨晩見た「グラハン」らしき影も気になる。あれはおそらく――)
ここで、俺の前に座っていたクマリーが声を上げる。
「お兄さんっ! 前方にあやしい何者かがいますっ。きのう町の上を飛んでいた人に似てますよ!」
「……本当だな」
木々の向こうのひらけた場所に、なで肩の男が浮いている。
俺たちはボックに乗ったままいったん木の密集地を抜け、その男と対面した。
二十代から三十代に見える美丈夫だ。
すっきりとした短髪と瞳孔の大きな瞳が真鍮色に染まっている。
顔は面長であり、唇は薄い。
白い布を左右の肩から手首にかけて巻いている。
渦巻きのようになった布のあいだから肌がのぞく。
引き締まった上半身は丸見え。
下半身は赤紫の太い布でおおわれてズボンのような形状になっているが、足に通された黒い靴は町で売っていそうな普通の種類。
しかしその青年の最大の特徴は両手に持った楽器と股に挟んだ棒だろう。
楽器は丸い一対のザルのかたちに似ている。ただし実際のザルとは異なり網目はない。丸い貝殻と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
このザルに似た物体を一つずつ左右に持って出っ張ったへり同士をぶつけることで音が鳴る。
彼が持っているのは真鍮製。通常のものよりも大きく、手の平以上のサイズである。一対の楽器のてっぺん同士は真鍮と同じ色のヒモで連結されている。
また、股に挟んでいるのは中央にくびれを持つ薄茶の竪杵だ。
本来は脱穀などに使用する道具だが、真鍮色の髪の青年はそれにまたがった状態で浮いている。
青年は崖を背にし、ボックから降りる俺たちを観察していた。
クマリーが興味深そうに彼へと声をかける。
「あなたはきのう、町の上空を飛んでいたかたですか?」
「見ていたか」
青年は否定せず、重低音のような力強い声で答えた。
続いてクマリーが質問を重ねる。
「手に持っているのは、なんなんでしょう。遠目ではザルっぽかったですが……」
「これは私のチンだ」
「……チン? チンって初めて聞きます。よければクマリーに教えてくださいっ!」
「チンとは楽器だ。こう使う」
左右の手でヒモの根もとを持った青年が、真鍮の楽器のへりをぶつけ合わせる。
すると高い音がチンと鳴った。深く繊細な響きが、しばらく空気を震わせた。
その震えが終わった瞬間にクマリーが手をたたく。
「とってもきれいです。余韻がいつまでも耳に残りますねっ」
「コープクン。そしてそろそろ自己紹介に移ろう。アーティットとは知らない仲ではないが、貴方とこうして話すのは初めてであるからな」
棒を股に挟んだまま、彼が地上に降りる。
両手を合わせる代わりに自身のチンを重ね合わせる。
「【ฉ】チョーチン・パイロ、つかさどる字はチンのチョー。私は自認グラハンだ」
「クマリーこそよろしくお願いします」
手を合わせ、クマリーが丁重にあいさつを返した。
「でもまた質問で恐縮ですけれど、その『グラハン』というのはいったい……?」
「ザルを両手に持ち、竪杵を股に挟んで空を飛ぶ精霊のことだ」
「ということは」
真鍮色の髪の青年――パイロの両手のチンと股の棒をじっと見てクマリーが顔を輝かせる。
「パイロさんもクマリーと同じピーなんですねっ」
「残念ながら私は人間の枠にとどまる。実際のグラハンは農業で用いるザルを持つが、私は自分のチンを代わりに持っている凡夫に過ぎない」
ついでパイロがクマリーに背を見せた。
その背いっぱいにฉの赤く太い文字が浮かび上がっている。
クマリーが顔を左右に揺らしながら腕をぶんぶん振る。
「な……なんて大きさ!」
ホーノックフーク(ฮ)も背中に文字を刻んでいるが、大きさはパイロのチョーチン(ฉ)のほうが勝っている。
また、パイロの背中には多くの切り傷が見られる。
ただしどれもチョーチン(ฉ)の赤い線の下にある古傷だ。
重低音のような声で、パイロが言う。
「貴方の思うままにチョーチン(ฉ)をなぞるといい」
「すごい迫力……パイロさん、コープクンです!」
飛行しつつ、クマリーが体ごと右人差し指をダイナミックに動かす。
チョーチン(ฉ)のかたちを端的に説明するなら、キアのノーヌー(น)に弧が重なったかたちと言うこともできるだろう。
まず左真ん中に時計回りで小さな丸を作る。
ついで丸の右側から線を下ろす。
底に達したらやや右上に進む。
そして全体の右下あたりに時計回りで新たな丸を書いてからすでに書いた線をつらぬき、真上に引っ張る。
右上に来たところで左に寄せながら緩く上に張り出す弧をえがく。
最後に、左上付近に到達したあと最初に書いた丸に少し線を近づけ、とめる。
こうしてチョーチン(ฉ)の文字が完成する。
「なんというか神秘にあふれた字ですっ! 途中でチェックポイントのように丸を作るところも最終的に最初の丸に戻ってくるのもそうですが、流れの一つ一つに美しさを感じずにはいられません!」
全身を宙に躍らせ、クマリーがチョーチン(ฉ)を何度も書く。
だが彼女は右人差し指ではなく、パイロの股に挟まった竪杵をつかんでチョーチンの軌跡をえがいていた。
察するに、自覚なく竪杵に手が伸びてしまったのだろう。
ハッとしたクマリーがパイロの杵から手を離して詫びを入れる。
「コ……コートート(ごめんなさい)、パイロさん」
「気にするな。貴方が気持ちよく書けたのなら、それで構わない」
いっさい怒ることなくパイロがまた俺たちにつま先と顔を向けた。
それからチンを持った両手を下ろし、俺に真鍮色の視線をやる。
「さてアーティット。クマリーにはチョーチン(ฉ)を学んでもらったが、それは文字保有者としての義理を果たしたまでのこと。もう分かっているだろう。私はファの協力者の一人だ。よって貴方を簡単に進ませるわけにはいかない」
「俺と戦うんだな、パイロ」
間合いを計算しながら、俺はわずかにあとずさる。
パイロは大きな瞳孔をさらにひらき、おもむろにチンを鳴らした。
「そうだ。そしてアーティット、貴方が負けたら私と結婚してもらう」
次回「91.チンのチョー(ฉ)【中編】」に続く!
ฉ←これが「チョーチン」の文字。意味は「チンのチョー」……「シンバルのチョー」と訳す場合も。ノーヌー(น)に弧を続けたような形ではありますが、チョーチンの最初の丸はちょっと低い場所から始めるのがよさそうですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ウィサーハ(วิสาห)→所有する
パイロ(ไพเราะ)→音がきれい
チャーイハート(ชายหาด)→砂浜
ニウフアメー(นิ้วหัวแม่)→親指
マレット(เมล็ด)→種
トラニー(ธรณี)→地面
チン(ฉิ่ง)→シンバルに似た小型の打楽器




