88.子どものドー(ด)【中編】
禿頭の男は背後に回った俺の手首をつかむのをやめ、船内の休憩室から出ていく。その際、俺のほうを見てあごで行き先を示した。
俺はこちらに顔を向けてくるほかの乗客に「なんでもない」とジェスチャーで伝えたあと、クマリーを連れて男のあとに続く。
急に現れた男にクマリーも戸惑いを覚えているようだが、騒ぎ立ててほかの客を不安にさせないよう自分で自分の口を押さえている。
短い階段を上り、甲板に出る。
太陽はすでに沈んでおり、月明かりは薄い。
人気のない後部甲板に移動したあと、右舷側に立った男が舌足らずの声で笑う。
「ここでやり合ってくれんのか、トータハーン(ท)」
男の目は薄緑。壮年初期くらいの年齢に見える。
髪のいっさいない頭部が月影をほんのり吸っていた。
精悍な体つきをしており、青黒い上下の外からも丸太のような腕や脚がくっきりと捉えられる。
とくに大きく張り出した腹部が特徴的だ。
黒いブーツを前に出して近づこうとするその男に、俺は左舷側から返事をする。
「いいや、船を傷つけるわけにはいかない。戦いの場はこちらで用意させてもらう。タハーン・アーガート」
呼びかけに応じ、紫のコウモリの姿をした空の兵隊が出現する。
アーガートは船尾方向に向かって二対の翼をひるがえした。
ついで俺は後部甲板を蹴り、船の後方の海面上に跳ぶ。
だが落ちることなく、甲板と同じ高さの空中に立った。
左のつま先を上下させ、音を鳴らす。
「俺の兵隊であるアーガートに硬質の空気の層を作ってもらった。分かりやすく言うと船の船尾に接続する見えない床だな」
「へっ、そこでやろうってわけかい。まあ『เข้าตามตรอกออกตามประตู(カオ・ターム・トローク・オーク・ターム・プラトゥ)〔道のままに入って扉から出ろ〕』と言うくらいだし、人様のものを壊しちゃいけねえってルールを守んのも大事だな」
迷わず禿頭の男は跳躍し、俺の正面の見えない床に着地した。
真下には帯のような航跡が広がり、泡の音を立てている。
「だがこれは、おれとてめえのサシの勝負だ」
自身のこぶしを突き合わせ、男が甲板に残ったクマリーに横目を向ける。
「そこのウォーウェーン(ว)の継承者に手ェ出させんじゃねえぞ」
「分かったよ」
俺はクマリーに目配せしたあと、アーガートを手招きした。
「あと確認だが、おまえはファに協力して俺の追跡を邪魔しようとしている者の一人ってことでいいんだよな」
「まあそうさ」
「だがおまえ自身は文字保有者じゃない。おそらくは誰かの精霊か、あるいは――」
「答える義理はねえ。とっとと始めようぜ」
男が両腕を広げ、突進してくる。
なおアーガートに作らせた見えない床は後部甲板に接続するため船と共に移動しているが、そこまで速いスピードではないので戦いに影響を与えるほどではない。
俺は迫りくる大きな腹を両手で受けとめた。
しかし最初から男のねらいは俺ではなかった。
男の左右のこぶしが挟み込むようにアーガートを襲う。
衝撃によりアーガートが消滅した。
その影響を受け、ダメージが俺の脳にも伝わる。
しかも思った以上に男の突進は強烈だった。
硬い腹部が俺を押し、真後ろにはじき飛ばす。
落ちる直前で踏みとどまった俺を見て、男が静かに口角をゆがめる。
「弱えな。どうやらしょせんおまえは『กบในกะลาครอบ(ゴップ・ナイ・ガラー・クロープ)〔殻のなかのカエル〕』だったらしい」
「……ゲーンタハーン・クワーン」
俺は左手の平のトータハーン(ท)を赤く輝かせ、斧を引っ張り出した。
両手で持ち上げ、向かって右上から左下に振り下ろす。
だが男は身を沈め――。
斧を自身の側頭部で受けとめた。
とっさに俺は斧を引っ込めようとしたが刃は男の禿頭に食い込んだまま微動だにしない。
(生半可な力で引き抜くのは無理か)
おまけに男からは血すら出ていない。
彼はニヤリと笑って頭を激しく揺らした。
反射的に俺は斧の柄から手を離す。
左の側頭部に斧を食い込ませたまま男が反撃に移り、連続で掌底を撃ち込んでくる。
「武器は奪った。これはあれだな、『อ้อยเข้าปากช้าง(オイ・カオ・パーク・チャーン)〔象の口に入ったサトウキビ〕』ってやつだな! こんなおれを、壊せるもんなら壊してみろよ」
「……本当に壊していいのか」
「できるならなあっ!」
豪語するだけあって掌底一発一発の威力もすさまじい。
あと少しで海に落ちるところまで追い込まれながらも俺は新たに武器を出して抵抗する。
「タヌー、ホーク、ダープ」
左手から出した弓矢を撃ち、槍を突き出し、剣で斬りつける。
今度は俺が男を押し出し、見えない床のはしまで追い詰める。
ところが相手は巨体を震わせ、笑声をこぼす。
矢は腹部に、槍は右の上腕部に、剣は左の大腿部に食い込んだが、やはり出血はなく本人にダメージが発生している様子もない。
「こりゃてめえ、まさに『พายเรือในอ่าง(パーイ・ルア・ナイ・アーン)〔風呂のなかで船を漕ぐ〕』みたいなもんだなあ! んなことやっても無駄なのによおッ!」
「ゲーンタハーン・ガムパン」
俺は左手にこぶしを作り、手の甲までを赤く光らせた。
ありったけの力を込めて右の上腕部に殴打を浴びせる。
そしてパンチがヒットする直前、俺は右手を伸ばして男の右腕を回転させた。
食い込んだ槍の石突きがちょうど外側を向くように。
ついで向かって左に体を移し、その石突きを殴りつける。
刺さっていた穂先が右の上腕部を貫通し、胴体をつらぬき、左の上腕部をも串刺しにする。
今や男の両腕は胴体に縛りつけられたに等しい。
だが痛くはないのだろう。だから対応がわずかに遅れる。
間髪いれず俺は男の左の大腿部に食い込んだ剣の柄を左こぶしで殴る。
先ほどと同様、右手で大腿部を回転させて柄の尻を外側に向けておく。
刀身が向かって左へと押し出されて貫通し、両の大腿部までもが上腕部と同じ串刺し状態になる。
「あ、あ、あ……あ?」
両腕と両脚を封じられた男は、困惑の表情を見せている。
「なんで……さっきまで、おれのほうが有利だったはず……」
左右の二の腕を槍で、両の太ももを剣で横向きにつらぬかれた男は見えない床にひざをついてうなだれた。
俺は黙って彼の前に近づく。
すると男の体が急に動き、俺に向かって頭突きを食らわせてきた。
「バーめ! 最後に余計なことをするから負けんだよ! 『แกว่งเท้าหาเสี้ยน(グウェーン・タオ・ハー・シアン)〔足をぶらぶらさせてトゲを探す〕』って知ってっか! 要らんことをして痛い目に遭うって意味さ」
「そうか、じゃあ」
赤く光らせた左手をひらき、俺は男の頭頂部を受けとめていた。
「こっちもそのトゲをなんとかする。そしてことわざといえば、確かこんな言葉もあったか」
男の首をひねり、側頭部に食い込んだ斧の柄を俺の正面に持ってくる。
「หนามยอกเอาหนามบ่ง(ナーム・ヨーク・アオ・ナーム・ボン)〔トゲにはトゲを〕」
斧めがけ、左こぶしを打ち下ろす。
刃が横向きの頭部から一気に沈み、首と胴体を縦に裂く。
最後に俺は腹部に刺さった矢に左ストレートを入れた。
それにより、張り出していた腹が破裂する。
血や内臓、骨が露出することはなかった。
まるでぬいぐるみが破れたときのように皮と綿が飛び散る。
ここで、戦いを見ていたクマリーのふにゃふにゃした声が聞こえた。
「お……お兄さん、やりすぎなんじゃ……っ」
「心配ないよ」
壊してみろと言ったのは相手自身だ。それに――。
「中の人は傷つけてない」
「く、お……おまえ~っ」
舌足らずの声が、破裂した腹のなかから響いた。
ただし新たに聞こえたのは壮年の男の声ではなく、少女のそれであった。
「本当に壊すやつがあるかあ……っ。まあ先にケンカを売ったおれ――いやあたしが悪いんだけどな」
薄緑の髪をポニーテールにした少女が四つん這いで出てきて、同じく薄緑の瞳でにらんでくる。
――と思ったら、散乱する皮と綿の上で笑いだした。
「こういうのをなんて言うんだっけな。そうそう、この状況にピッタリなのは……」
クセなのか、また新しいことわざを口にする。
「กงเกวียนกำเกวียน(ゴン・グウィアン・ガム・グウィアン)〔因果応報〕……ってやつかねえ」
次回「89.子どものドー(ด)【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
カオ・ターム・トローク・オーク・ターム・プラトゥ(เข้าตามตรอกออกตามประตู)→「小道に従って入り、扉に従って出る」と直訳することができます。ルールを守り正しいことをしなさいという意味。
ゴップ・ナイ・ガラー・クロープ(กบในกะลาครอบ)→殻のなかのカエル/「井の中の蛙大海を知らず」に相当する言葉。
オイ・カオ・パーク・チャーン(อ้อยเข้าปากช้าง)→サトウキビが象の口に入った/もうどうしようもないという意味のことわざ。
パーイ・ルア・ナイ・アーン(พายเรือในอ่าง)→浴槽のなかで船を漕ぐ/決まった枠組みのなかだけで努力してもそれ以上の成果は見込めないという意味。
グウェーン・タオ・ハー・シアン(แกว่งเท้าหาเสี้ยน)→足をぶらぶら揺らしてトゲを探す/もっと慎重に行動すべきなのに余計なことをしている様子。
ナーム・ヨーク・アオ・ナーム・ボン(หนามยอกเอาหนามบ่ง)→毒をもって毒を制す/おそらく直訳すると「鋭いトゲには貫くトゲを」みたいな意味になります。
ゴン・グウィアン・ガム・グウィアン(กงเกวียนกำเกวียน)→因果応報/直訳すると「牛車の車輪は牛車そのものをつかんでいる」でしょうか。車輪は回転し続け、また同じように牛車を進ませる――そのイメージから、いずれ自分に返ってくる運命というものをイメージするのかもしれませんね~。




