87.子どものドー(ด)【前編】
イーガーが去ったあと俺とクマリーは宿屋から出た。
俺の左肩――正確に言えば左の首元に斜め四十五度の向きで刺さった白旗を安全に抜いてもらうため、西に逃げたファを追わなければならない。
ファの言葉を信じるなら、時間経過と共に旗は俺のいのちを吸って赤くなっていく。
完全に赤く染まった瞬間に俺は死ぬ。
ジョットマーイのチケットやチュアモーンの鐘を使用した場合も即死するらしい。
(斥候の兵隊とクマリーをホーノックフーク(ฮ)のもとに向かわせて俺単独でファを追跡する方法もあるが、そうした場合も旗が反応して俺を即座に死に追いやるかもしれないな)
俺たちは目抜き通りを進み、船着き場に入った。
西には海が広がっている。遠くにぼんやり見える陸地に太陽が沈もうとしている。
船乗りたちに声をかけると、これから西の陸地に向かう渡し船が出ることが分かった。
料金は十バーツ。
ただしクマリーは子ども料金で五バーツ払う。
船首から船尾までの長さが十五メートほどの白い船に俺たちは乗った。
客は少なく、船内の休憩室もすいている。俺の左肩に刺さった旗にいぶかしげな視線をやる人は何人かいたが、とくに追及されることはなかった。
クマリーは手前右のすみっこ近くのソファに座り、丸窓から外の海面を見る。
俺が左隣に腰かけたところで船が動きだした。
夕焼け色の海原を船が切り裂く。
白い航跡を引きながら、波に合わせて上下に揺れる。
魚が銀色の腹をさらしてパシャリと跳ねた。
水しぶきがはめ殺しの窓にかかった。
船内に潮風はほとんど入ってこないものの、鼻孔と舌が塩味にふれたときのように震える。
茶色の目を輝かせ、クマリーが両手の指を窓枠にふれさせた。
「き……きれいですっ! こんな世界もあるんですね……っ」
「本当にいい景色だな」
ついで俺は近くにほかの客がいないことを確かめてから声のボリュームを下げる。
「……クマリー。今のうちにファのことをちょっとだけでも伝えておこうと思う」
本来なら勝手に話すのはよくないがファが戦いを仕掛けてきた以上、開示できる情報は開示しておく。
「まずはファと俺との出会いについて。聞くか?」
「聞かせてください」
窓外から目を離し、クマリーが俺を見上げた。
俺はうなずきを返して当時のことを振り返る。
「ファとの出会いは三年前。俺がスーンにトータハーン(ท)を刻んでもらったのが二年前だから、その一年くらい前の出来事だな。そのときはファも俺も文字保有者じゃなかった」
ひざに手を置いて聞き入るクマリーに話を続ける。
「傭兵として俺は南東方面の防衛に参加していた。だがその戦争は負け戦だった。防衛ラインは突破され、敵が近くの町になだれ込んだ。味方の指揮系統も壊滅し、俺たち兵隊は散り散りになった」
そうなってしまえば傭兵は無力同然だ。
「俺は合流した味方数名と町の民家に入った。普通なら不法侵入だけど敵兵の目からのがれるためにやむなくな。その家に、瑠璃色の髪と瞳を持つ子どもがいた」
「……ファさんですね」
「ああ。彼女は俺たち兵隊に『自分も仲間にしてほしい、一緒に敵を倒したい』と震え声で言った。仲間の一人がそのわけをたずねると、ファは部屋の真ん中を黙って指差した。そこにはすでに動かなくなった男女が血を流して倒れていた。二人がファの両親で、敵兵に殺されたことは明らかだった。家の棚やベッドもひっくり返され、割れた食器類や壊れた家具があたりに散乱していた。金目のものはほとんど持ち去られていた」
これでも言葉を選んでいる。実際はもっと凄惨だった。
「その晩、町に火が放たれた。俺たちはファを連れて家から出た。直後、俺は近くの高台に弓矢を構えた敵兵が並んでいるのを見つけた。とっさに味方にそれを知らせたが間に合わず、仲間は全員射殺された。俺はそばにいたファをかかえ、ひたすら走って逃げ続けた。燃える町から出て北西に向かい、いったん山の横穴で休んだあと……なんとか次の日に安全な町に到着した。その町には事情のある子どもを世話してくれる慈善団体の建物があった。ファをそこに預けてから、俺は彼女と別れた」
俺は言葉を切り、夕焼け色を失った海を見つめた。
船内のランプの光を受けながら、クマリーが口をひらく。
「ファさんはお兄さんに憧れたと言ってましたね……」
ソファに座ったまま左に体を動かし、俺に身を寄せてくる。
「それは……憧れますよ。いのちの恩人で、しかも自分をかかえてずっと必死に守ってくれたんでしょう……? お兄さんに並々ならぬ思いをいだくファさんの気持ち……クマリーにも分かる気がします。いえ、ファさんの思いをクマリーが勝手に推し量ってはいけないのかもしれませんが……」
「俺もファのことは忘れられなかったよ。ただ、もう会うことはないとだけ思っていた」
上体を少し倒し、俺は両腕を後方斜め上に伸ばす。
――その瞬間、後ろから誰かに左右の手首をつかまれた。
相手の手は大きく、ゴツゴツしている。
そして俺が振り向く前に、舌足らずの男の声がささやいてきた。
「ทำดีได้ดีทำชั่วได้ชั่ว(種をまいたからにはそれをしっかり刈り取れよ)」
押さえられた俺の手は力を入れても少ししか動かない。
首をひねって見ると、大柄で禿頭の男がそこにいた。
中腰になって俺の両手をつかんでいる。
(この男、いつ近づいた……? いや、その前にこいつは誰だ)
顔見知りでも、ましてや文字保有者でもない。
(ただの乗客とも思えないが……)
俺のほおを汗が伝う。
男は薄ら笑いを浮かべ、言葉を重ねる。
「あんまり無用心に重要な話をするもんじゃないぜ。『กำแพงมีหูประตูมีช่อง(壁に耳あり扉に穴あり)』って言葉を知らねえのか? なあ、トータハーン・アーティット」
「……なるほどな」
休憩室の床を蹴り、その勢いで俺は空中で逆立ちになった。
後転し、手首をつかまれたまま男の背後に着地する。
「おまえが誰かは知らないが、敵で間違いなさそうだ」
左ひざを曲げ、男の左ひかがみに軽く当てる。
「とりあえず移動しようか。ここは休憩する場所だからな」
次回「88.子どものドー(ด)【中編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
タムディーダイディータムチュアダイチュア(ทำดีได้ดีทำชั่วได้ชั่ว)→いいことにせよ悪いことにせよ自分のやったことは自分に返ってくるということわざ。
ガムペーンミーフープラトゥミーチョン(กำแพงมีหูประตูมีช่อง)→壁に耳あり障子に目あり/直訳すると「壁に耳あり扉に穴あり」になります。




