表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/101

87.子どものドー(ด)【前編】

 イーガーが去ったあと(おれ)とクマリーは宿屋から出た。

 俺の左肩(ひだりかた)――正確に言えば左の首元に(なな)め四十五度の向きで()さった白旗を安全に()いてもらうため、西に()げたファを追わなければならない。


 ファの言葉を信じるなら、時間経過と共に旗は俺のいのちを吸って赤くなっていく。

 完全に赤く染まった瞬間(しゅんかん)に俺は死ぬ。


 ジョットマーイのチケットやチュアモーンの(かね)を使用した場合も即死(そくし)するらしい。


斥候の兵隊(タハーン・ラート)とクマリーをホーノックフーク(ฮ)のもとに向かわせて俺単独でファを追跡(ついせき)する方法もあるが、そうした場合も旗が反応して俺を即座(そくざ)に死に追いやるかもしれないな)


 俺たちは目抜(めぬ)(どお)りを進み、船着(ふなつ)()(はい)った。

 西には海が広がっている。遠くにぼんやり()える陸地に太陽が(しず)もうとしている。


 船乗(ふなの)りたちに声をかけると、これから西の陸地に向かう(わた)(ぶね)が出ることが分かった。


 料金は十バーツ。

 ただしクマリーは子ども料金で五バーツ(はら)う。


 船首から船尾(せんび)までの長さが十五メートほどの白い船に俺たちは乗った。

 客は少なく、船内の休憩室(きゅうけいしつ)もすいている。俺の左肩に刺さった旗にいぶかしげな視線をやる人は何人(なんにん)かいたが、とくに追及(ついきゅう)されることはなかった。


 クマリーは手前右のすみっこ近くのソファに(すわ)り、丸窓から(そと)の海面を見る。

 俺が左隣(ひだりどなり)(こし)かけたところで船が動きだした。


 夕焼け色の海原(うなばら)を船が切り()く。

 白い航跡(こうせき)を引きながら、波に合わせて上下(じょうげ)()れる。


 魚が銀色の腹をさらしてパシャリと()ねた。

 水しぶきがはめ(ごろ)しの窓にかかった。


 船内に潮風はほとんど(はい)ってこないものの、鼻孔(びこう)と舌が塩味(えんみ)にふれたときのように(ふる)える。


 茶色の目を(かがや)かせ、クマリーが両手の指を窓枠(まどわく)にふれさせた。


「き……きれいですっ! こんな世界もあるんですね……っ」

「本当にいい景色(けしき)だな」


 ついで俺は近くにほかの客がいないことを確かめてから声のボリュームを下げる。


「……クマリー。今のうちにファのことをちょっとだけでも伝えておこうと思う」


 本来なら勝手に(はな)すのはよくないがファが(たたか)いを仕掛(しか)けてきた以上、開示できる情報は開示しておく。


「まずはファと俺との出会いについて。聞くか?」

「聞かせてください」


 窓外から目を(はな)し、クマリーが俺を見上げた。

 俺はうなずきを返して当時のことを()り返る。


「ファとの出会いは三年前。俺がスーンにトータハーン(ท)を刻んでもらったのが二年前だから、その一年(いちねん)くらい前の出来事(できごと)だな。そのときはファも俺も文字保有者じゃなかった」


 ひざに手を置いて聞き()るクマリーに話を続ける。


傭兵(ようへい)として俺は南東方面の防衛に参加していた。だがその戦争は負け(いくさ)だった。防衛ラインは突破(とっぱ)され、(てき)が近くの町になだれ()んだ。味方の指揮(しき)系統(けいとう)壊滅(かいめつ)し、俺たち兵隊は()()りになった」


 そうなってしまえば傭兵は無力同然だ。


「俺は合流した味方数名と町の民家に入った。普通(ふつう)なら不法侵入(しんにゅう)だけど敵兵の目からのがれるために()()()()な。その(いえ)に、瑠璃色(るりいろ)(かみ)(ひとみ)を持つ子どもがいた」

「……ファさんですね」


「ああ。彼女(かのじょ)は俺たち兵隊に『自分も仲間にしてほしい、一緒(いっしょ)(てき)(たお)したい』と(ふる)(ごえ)で言った。仲間の一人(ひとり)がそのわけをたずねると、ファは部屋の真ん中を(だま)って指差した。そこにはすでに動かなくなった男女が血を流して(たお)れていた。二人がファの両親で、敵兵に殺されたことは明らかだった。家の(たな)やベッドもひっくり返され、割れた食器類や(こわ)れた家具があたりに散乱していた。金目(かねめ)のものはほとんど持ち去られていた」


 これでも言葉を選んでいる。実際はもっと凄惨(せいさん)だった。


「その(ばん)、町に火が放たれた。俺たちはファを連れて家から出た。直後、俺は近くの高台(たかだい)に弓矢を構えた敵兵が並んでいるのを見つけた。とっさに味方にそれを知らせたが()に合わず、仲間は全員射殺(いころ)された。俺はそばにいたファをかかえ、ひたすら走って逃げ続けた。燃える町から出て北西に向かい、いったん山の横穴で休んだあと……なんとか次の日に安全な町に到着(とうちゃく)した。その町には事情のある子どもを世話してくれる慈善(じぜん)団体の建物があった。ファをそこに預けてから、俺は彼女と別れた」


 俺は言葉を切り、夕焼け色を失った海を見つめた。

 船内のランプの光を受けながら、クマリーが(くち)をひらく。


「ファさんはお兄さんに(あこが)れたと言ってましたね……」


 ソファに座ったまま左に体を動かし、俺に身を寄せてくる。


「それは……憧れますよ。いのちの恩人で、しかも自分をかかえてずっと必死に守ってくれたんでしょう……? お兄さんに並々(なみなみ)ならぬ思いをいだくファさんの気持ち……クマリーにも分かる気がします。いえ、ファさんの思いをクマリーが勝手に()(はか)ってはいけないのかもしれませんが……」

「俺もファのことは忘れられなかったよ。ただ、もう会うことはないとだけ思っていた」


 上体を少し倒し、俺は両腕(りょううで)を後方(なな)め上に()ばす。

 ――その瞬間(しゅんかん)、後ろから(だれ)かに左右の手首をつかまれた。


 相手の手は大きく、ゴツゴツしている。

 そして俺が振り向く前に、舌足らずの男の声がささやいてきた。


ทำดี(タムディー)ได้ดี(ダイディー)ทำชั่ว(タムチュア)ได้ชั่ว(ダイチュア)(種をまいたからにはそれをしっかり()り取れよ)」


 ()さえられた俺の手は(ちから)()れても少ししか動かない。

 首をひねって見ると、大柄(おおがら)禿頭(とくとう)の男がそこにいた。


 中腰(ちゅうごし)になって俺の両手をつかんでいる。


(この男、いつ近づいた……? いや、その前にこいつは(だれ)だ)


 顔見知りでも、ましてや文字保有者でもない。


(ただの乗客とも思えないが……)


 俺のほおを(あせ)が伝う。

 男は(うす)ら笑いを()かべ、言葉を重ねる。


「あんまり無用心(ぶようじん)に重要な話をするもんじゃないぜ。『กำแพง(ガムペーン)มี(ミー)หู(フー)ประตู(プラトゥ)มี(ミー)ช่อง(チョン)(かべ)に耳あり(とびら)に穴あり)』って言葉を知らねえのか? なあ、トータハーン・アーティット」

「……なるほどな」


 休憩室の(ゆか)()り、その勢いで俺は空中で逆立ちになった。

 後転し、手首をつかまれたまま男の背後に着地する。


「おまえが誰かは知らないが、敵で間違(まちが)いなさそうだ」


 左ひざを曲げ、男の左ひかがみに軽く当てる。


「とりあえず移動しようか。ここは休憩する場所だからな」

次回「88.子どものドー(ด)【中編】」に続く!


今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り

タムディーダイディータムチュアダイチュア(ทำดีได้ดีทำชั่วได้ชั่ว)→いいことにせよ悪いことにせよ自分のやったことは自分に返ってくるということわざ。

ガムペーンミーフープラトゥミーチョン(กำแพงมีหูประตูมีช่อง)→壁に耳あり障子に目あり/直訳すると「壁に耳あり扉に穴あり」になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ