86.冠のドー(ฎ)
俺の左の首元には白旗が刺さったが、今は痛みもなくなり血も出ていない。
宿屋の室内のベッドの上から透明感のあるファの声が落ちてくる。
「先日、図書館塔の大部屋であなたを見たときから自分は違和感をいだいていました。アーティット……あなたはそのとき体調を悪くしていたそこの精霊をいたく気にかけていたご様子でありましたね」
ファが右中指でクマリーを指した。
「確かにアーティットは前々から優しかったと存じます。ただ、それはあくまで兵隊が味方に向ける範囲内での優しさです。民間人や傷病兵を助けたり不安におちいった味方を励ましたりする程度の行為でありました」
左手に握った自分の旗の棒をにぶく揺らし、続ける。
「しかしあなたがそのピーに向けるまなざしは……まるで長年連れ添った兄のそれではありませんか。そんな目を、自分は見たことがありません。このままだと冷徹に敵を処理していく兵隊としてのアーティットが消えていくようで、もはや我慢ならないのです」
ベッドが少しきしんだが、破損するほどの衝撃をファは与えなかった。
「あなたが口にした『ただ自分が生きるためだけの兵隊はやめた』――この意味不明な発言を撤回し、自分と戦場に立つことを今度こそ約束していただきたい。さすれば、あなたの左肩に刺さったいのちを奪う旗を安全かつ即座に抜いてあげましょう」
「発言は撤回しない」
俺は顔を上げ、立ち上がってファを見据えた。
長い前髪をさわり、ファが瑠璃色の視線を向け返す。
「だったら自分を殺しますか? そうすれば旗の効力は消えるのであります」
「君も殺さない」
「アーティット……そこまで」
ファが目を潤ませたあと、まなじりをつり上げる。
「そこまで堕落していましたか。これは腐りきる前に根性をたたき直さなければなりませんね」
ベッドから床に着地し、部屋の扉の前に置いてある自分の靴の前でしゃがむ。
「これから自分はこの町を離れて西に行きます。そして殺すにせよ説得するにせよ、あなたはこのファを絶対に追わなければいけません。そうしなければすでに申し上げたとおり、左肩に刺さった旗がいのちをすべて吸ってあなたを絶命させるでしょう」
俺に背を向けつつ、左右の靴に足を入れる。
「西には、アーティットが会いたがっている文字保有者たちもいます。その同志たちがあなたの追跡を全力で邪魔しますので、どうか力ずくで撃退するのでありますな」
……ずいぶん用意がいい。旗を刺したのも突発的な行為ではないようだ。
どうやらファは俺に接触する前から協力者に声をかけ、準備を整えていたらしい。
「ただし自分はあなたを殺したいわけではありません。戦いを通して、かつての戦闘兵器みたいなアーティットを取り戻してもらいたいだけです。あ、それから」
腰を浮かし、扉の取っ手に右手を伸ばす。
「チュアモーンの鐘で仲間と連絡を取ろうとしたりジョットマーイのジャンク船を呼んだりした場合も、旗は一瞬で深紅に染まり、あなたのいのちを奪います。あなただけでなく、クマリーがそうしたときも同様です。引き返してホーノックフーク(ฮ)の図書館塔などに戻るのもお勧めいたしません。そんな悠長なことをしていたら、自分のもとにたどり着く前に死ぬと明言しておきましょう」
ハッタリには聞こえない。
トートン(ธ)の文字保有者であるファは旗を刺した時点で、すでに俺のいのちを握り込んでいる。
「では、チョークディー(さようなら)であります」
部屋を出る際、彼女はクマリーをにらみつけた。
なにか言いかけたが口をつぐむ。
ついでファは、廊下側から静かに部屋の扉を閉めた。
* *
ファが姿を消してから、俺は泣きそうなクマリーに声をかけた。
「君はなにも悪くないよ。ファの気持ちをないがしろにしていた俺の責任だ」
「お兄さん……っ」
クマリーが宙を飛び、俺のうなじに抱きついてくる。
俺はベッドに残されたあるものを右手で拾う。
それは百バーツ硬貨三枚だった。
「ファのやつ……宿屋の料金を多めに置いていったな」
「そりゃあ律儀なもんだね」
ここでファのものではない豪快な女性の声が響いた。
部屋の扉があき、すず色の髪と瞳を持った女が姿を見せる。
左右から垂れる髪は両のほおに張りついている。
後ろ髪は背骨のなかばにも届くが二つに分かれているため、うなじがくっきり露出している。
眼光は鋭くないものの、どこか威厳のようなものが瞳の奥に感じられた。
首から下の上半身は黒い網の目でおおわれている。
ただし両手・両ひじ・両肩・胸部に使われている素材は、網の目ではない紫がかった黒い布だ。
ボトムスは足首の見える白いズボン。つぼみに似た形状である。
両足には細い木を薄く切り取ってこさえたかのような茶色の下駄をはく。年輪らしき模様も確認できる。
さらに腰には下駄と同色の大きめのウエストポーチをつけている。
最初から俺たちはこの港町で二人の仲間と会う予定だった。
今現れたすず色の髪を持つ彼女こそ、ファの次に俺たちが会おうとしていた人物だ。
「ドーチャダー・イーガー! つかさどる字は冠の!」
腕を組み、豪快に大声を上げた。
だが同時に、室内の両隣の壁が同時にドンと鳴った。
「あ、これはすみません」
左右の部屋に泊まっている客に謝ったあと、声を抑えて仕切り直す。
「ではあらためて」
せき払いし、下駄を脱ぐ。
「【ฎ】ドーチャダー・イーガー、つかさどる字は冠のドー。二人ともとりあえず落ち着いて、わたしと一局指してみない?」
「指す? いきなりなにを」
俺はすず色の髪の彼女――イーガーに質問を返した。
イーガーは豪快に、なおかつ小声で笑いを漏らす。
「もちろんマークルックを指すんだよ」
マークルックとは、八かける八マスの盤上でクン・メット・コーン・マー・ルア・ビアの六種類の駒を動かし、相手の大将であるクンを仕留めるボードゲームである。
俺は意味が分からず、問いを重ねる。
「君がマークルックのプロなのは知っているけど、なんで今そんなことを言い出すんだ」
「わたしもトートン・ファに頼まれて君の追跡を阻む刺客になったからさ、トータハーン(ท)」
笑いつつ、イーガーはベッドに腰かけた。
「いや別にわたしはトートン(ธ)の行動に全面的には賛同してないよ? でもなんか、ここでトートンを押さえたらいずれもっとよくないかたちで爆発するだろうなと思ったから協力せざるを得なかった」
「じゃあ俺と戦うのか」
「そのとおり。その戦いの形式がマークルックってわけだね。派手に暴れてほかの宿泊客に迷惑をかけるのもよくないし、受けてくれないかな?」
「……分かった、受ける」
「そうこなくちゃ」
イーガーがポーチをあけ、マークルックの盤を取り出す。
色は茶色であり、格子状に黒い線が入っている。
二つ折りに畳めるタイプのようで、内側に駒が収納されている。
黒い駒と白い駒がそれぞれ十六個ある。
俺とイーガーはベッドに置かれた盤を挟んで向かい合った。
正座になったイーガーは白い駒を自陣に並べながら、左ひざを立てた俺を見る。
「……トータハーン(ท)。なぜトートン(ธ)をあっさり行かせた」
「君と同じ理由だよ、イーガー」
黒い駒を配置して俺は答えた。
「ここで無理にファを押さえ込んでも解決にはならない」
「だからいったんその気持ちを受けとめようと?」
俺のうなじから離れてふさぎ込むクマリーをちらりと目に入れ、イーガーが自陣にクンの駒を置く。
「ともあれ始めようか。そうだね……投了なしの十局勝負といこう。ハンデをつけない代わりに一局でもトータハーンが勝つことができればその時点でゲームは終わりだ」
「このゲームでの君のねらいは?」
「あなたをしばらく足止めすること。まあ意図的にルール違反を犯したりしなければ、わたしも手荒なことはしないさ」
* *
「ルック・カート」
イーガーのルアが盤上を動き、俺のクンを射程に置いた。
王手も宣言される。次にクンがどこに逃げても、別の駒に取られてしまう。
「結局、九回やって一度も勝てないか」
「あなたも強いよ。楽しいから、あっという間に時間が飛ぶね」
軽く笑って、イーガーがまた駒を並べる。
「しかしトータハーン(ท)も災難じゃないか。ヨムが暗躍したりンゴーングー(ง)の縄の封印がとけたりして大変なときなのに、身内同士で争っている場合じゃないってさけびたくてたまらんだろう?」
「いいや」
それぞれの駒を置きつつ、俺は首を横に振った。
「むしろ身内同士で争う局面だと思う。ファだけじゃなく、彼女に協力するほかの文字保有者も心になにかをため込んでいるわけだろう。今後ヨムたちや凶暴なピーと戦うにあたって、仲間の悩みや心残りは今のうちに解決しておくべきだ。だから今は、そういうことをしている場合なんだよ」
「……おもしろいことを言うもんだ。ともあれ最後の一局が残っている」
十局目は、互いに相手の陣地に深く切り込む勝負となった。
すべての駒が初期位置から大きく前進し、双方入り乱れての混戦模様を呈する。
積極的に俺は攻めてイーガーのルアの駒二つを取った。
だがイーガーはマーの駒を巧みにあやつる。
その一手一手が攻撃と防御の両方の意味を持っていた。
ついに俺のクンはイーガーの陣のすみに追いやられ、逃げ場所を失った。
「俺の全敗か」
「戦術は悪くなかったよ、じゃあわたしはいったん帰ってトートン(ธ)と合流する」
イーガーが駒と盤を片付け、ポーチにしまう。負けた俺に、なにかを要求するそぶりも見せない。
「負けたとはいえ自尊心は潰れていないようで安心だ。うん、不屈の精神を持つあなたであればトートンとまっすぐぶつかり合うことができるよ。そして気持ちも引き締まっただろうし、次に会うときはじかに戦ってあげよう、トータハーン」
「むしろそっちのほうがやりやすいな」
「ふふ、わたしを楽しませてくれたからそのお礼と受け取ってくれよ」
「……そうか。あと、君にこれを渡しておく」
俺はチュアモーンの鐘のイヤリングを取り出し、イーガーの右手に握らせた。
イーガーがすず色の目を丸くする。
「これが遠隔の仲間と通信する道具か。敵対関係にあるわたしにあげてもいいのかな」
「ああ、なにが起ころうと最初から渡すつもりだったしな」
「……あなたもあなたで律儀なもんだね、そういうことならもらうさ」
いったんイーガーはイヤリングをポーチに収納した。
ついで、ふさぎ込んでいるクマリーを見つめる。
「イヤリングのお返し兼足止めの延長だ。クマリー……いやウォーウェーン(ว)。わたしのドーチャダー(ฎ)をなぞったらいい。わたしもエーンからすでにあなたたちの事情を知らされているからね」
「え……あ、ありがとうございます」
クマリーがふらふらと飛び、イーガーに近づく。
イーガーの文字であるฎも俺と同じ左手の平に刻まれている。
ベッドから下り、イーガーはしゃがんでクマリーを見上げた。
左手をひらいて持ち上げる。
「わたしは相手から見下ろされるのも相手を見上げるのも好んでいる。もちろんマークルックの次に好きという意味だが……」
「そ、そうなんですか」
このタイミングでクマリーが俺にそっと視線をやった。
俺は左肩に刺さった白旗をさわって答える。
「ファに刺された旗のことは気にしなくていい。急ぐ必要はあるけど焦る必要はないよ。それに、君が文字を学んでウォーウェーンの力をさらに覚醒に近づければファも君をみとめてくれるかもしれない」
「分かりました……っ」
少しだけ元気を取り戻し、クマリーがイーガーのドーチャダー(ฎ)に右人差し指をすべらせる。
まず左下に反時計回りで小さな丸を書く。
その丸の右側から線を持ち上げ、途中で右に寄ってまた左に戻る。
右に向かいながら上に張り出す弧を書いたのち、線を下ろす。ここまではポーサムパオ(ภ)およびトーパタック(ฏ)と同じ書き順だ。
すでに書いた丸よりも低い位置に来たところで左上方向に線を続ける。トーパタック(ฏ)の場合はこのあといったん左下に移る必要があるがドーチャダーにそのような工程はない。
左上方向に引っ張った線からじかに反時計回りの丸を作る。最初の丸よりも低い位置である。
ついで右上に続け、すでに書いた線をつらぬいたところでとめる。
こうしてドーチャダー(ฎ)の字が完成する。
「感謝します、イーガーさん」
いつもより引き締まった声と共にクマリーが同じ字を宙にえがく。
「レックさんのトーパタック(ฏ)よりもシンプルなのがドーチャダー(ฎ)なんですね。豪快でどっしりとしたイーガーさんをあらわしているかのようです」
「それはどうも……それとクマリー」
文字の名ではなく本名を口にし、イーガーが語りかける。
「ファはあなたにキツいことを言ったようだね。態度もよくなかったと見える。それを許すかどうか決めるのはわたしじゃないけれど、誰にだって精神的に不安定なときはある。そういうときは思わず誰かを傷つけてしまうもんさ。ただ……そんな心にふれたあなたがさらに自分自身を傷つける必要はないんだと思う。相手を、もっとひどい加害者にしたくない限りは」
「……ファさんが加害者だなんて、そんなことは思っていません」
クマリーが両手で目もとをぬぐう。
「もう一度クマリーはファさんと向き合って、自分の気持ちを伝えたいです。ファさんの気持ちをもっと受けとめたいです……っ!」
「だったらその意思を大切にするんだ」
しゃがんだままイーガーは扉の前に寄り、そこに置いてある下駄をはく。
一方クマリーは真剣だが柔らかくもある表情と共に手を合わせた。
「本当にありがとうございます、イーガーさん。クマリーとも、いつか一局お願いします」
「大歓迎だね、それは!」
豪快に笑いながらイーガーは立ち上がる。
「あなたたちを見ていると、思うよ! 勝って調子に乗る者よりも、負けても傷ついてもなお立っている者のほうが強い! はははは、はははは!」
だがこの瞬間、両隣の部屋からまたドンという音が響いた。
「あ、これはまたまた申し訳ありません……」
腰を低くして部屋から出ていく。
(冠のドーを冠するのに、あんまりそれっぽくないな……)
なおそのあとベッドを確認すると、ファが置いたものとは別の百バーツ硬貨三枚が新たに見つかった。
次回「87.子どものドー(ด)【前編】」に続く!
ฎ←これが「ドーチャダー」の文字。意味は「冠のドー」……パッと見た感じトーパタック(ฏ)と区別がつきづらいですが、字の下側に連続するギザギザがなく書き方がよりシンプルなほうがドーチャダーと覚えておくのがいいかもしれませんね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
イーガー(อีกา)→カラス
チャダー(ชฎา)→冠
マークルック(หมากรุก)→チェス……とも訳せるみたいですが、実際のタイにはチェスや将棋に類似する独自のボードゲームがあるようです。この物語の舞台は現実のタイではありませんが、作中で言う「マークルック」はチェスはチェスでも「タイ式チェス」と考えていただければ幸いです。
クン(ขุน)→マークルックの駒の一つ。前後左右斜め一マスに動けます。将棋の王将やチェスのキングに当たり、自分のクンが逃げられない状態になるとゲームに敗北します。
メット(เม็ด)→これも駒の一つで、右前・左前・右後ろ・左後ろの斜め一マスに移動が可能です。
コーン(โคน)→メットの移動範囲に加え、正面にも進めます。
マー(ม้า)→右前の一マス右か正面・左前の一マス左か正面・右後ろの一マス右か真後ろ・左後ろの一マス左か真後ろに飛べます。チェスのナイトに相当。
ルア(เรือ)→前後左右まっすぐに何マスでも動ける駒です。動きは将棋の飛車やチェスのルークと一緒です。
ビア(เบี้ย)→正面に一マス前進する駒です。敵の駒を取る場合は前方斜め一マスに移動します。ここまではチェスのポーンに似ていますが、敵陣に踏み込めば将棋の駒のように「成る」ことができるらしいです。




