85.旗のトー(ธ)
今回から第三章に入ります!
――ここは大河の下流北岸にある港町。
潮の香りが波音と共に押し寄せてくる。
町には白っぽい石造りの建物や焦げ茶の小屋が並んでおり、そのあいだを五本の目抜き通りがつらぬく。
東から西に延びた大通りの左右には海産物や輸入品を売る商人たちが露店を構えている。
通りを行き来する者は多く、しばしば俺は通行人と肩をこすり合わせた。
そんな俺に、左前方からふにゃふにゃした声がかかる。
「お兄さーん! 一緒にバナナを食べましょうっ」
露店の一つの前に浮いている少女が、俺に両手を振っている。
彼女は、オレンジの混ざった茶色の髪と瞳を持つ精霊だ。
身長は俺の腰から足先までの長さと同じくらい。銀色に縁取られた白い上着と腰に巻かれた膝丈の白い布が両手に合わせて揺れている。
俺はそのバナナの房が重なったような髪の揺れも見ながら、通行人のあいだを抜ける。
彼女は俺がそばに来たところで自分の財布をさわった。
「ではクマリー、初めてのお買い物ですっ!」
茶髪の彼女――クマリーの財布は横長のだ円形であり、白い革でできている。
細い帯のようなヒモが付いている。当のクマリーは左肩から右腰にかけて財布を提げている状態だ。
財布は俺が買い与えたものである。
先日の仕事の報酬として俺の銀行口座にクマリーの十万バーツが振り込まれたため、その一部を財布に入れてクマリーに持たせた。
なお宙に浮く精霊を目にしても港町の人々はとくに気にする様子を見せない。
通行人と共に行き来する人型のピーも多いので、めずらしいとも思われていないようだ。
クマリーは露店の棚に並んだバナナをじっくり見つめる。
そのうちの二本を指差して店主の男性に元気よく声をかける。
「เอาอันนี้ค่ะ(これくださいっ)」
「一本一バーツだよ」
椅子に座ったまま店主は右手を差し出した。
対するクマリーは財布の口をあけて硬貨を二枚渡す。
買い物の仕方については事前に俺が教えている。
だが店主は受け取った硬貨をクマリーに返した。
「お嬢ちゃん、これは十バーツ硬貨じゃないかい?」
「そ……そうでしたかっ、すみません」
クマリーは十バーツ硬貨を財布にしまってから、それよりも小さい一バーツ硬貨二枚を店主の右手に載せた。
「ありがとうございます!」
お礼を言ってバナナ二本を両手に持つ。
店主はほほえみ、同じ言葉をクマリーに言った。
それから俺たちは目抜き通りを外れ、海のそばにある広場に寄った。
いくつもの船を視界に入れつつ、円形の石造りのベンチに腰かける。
クマリーは俺のひざに座り、バナナの房のような髪をこすり付けてきた。
「さっきの店主さん、とっても親切なかたでしたねっ」
「ああ、気づかないフリをすることもできたのにな」
なんにせよクマリーに初めてバナナを売ってくれた人が優しい人でよかったと俺も思う。
ここでクマリーは右手のバナナを俺の顔に向かって持ち上げた。
「はい、お兄さん。これはクマリーのおごりですよ~」
「ありがとう」
バナナを受け取った俺は皮をむき、クマリーと共に実をかじる。
「ん……アロイな。ちょっとあまじょっぱくて、太くて中身が詰まってる」
「お兄さんのバナナも最高ですけど、店主さんのバナナも最高ですねっ」
クマリーが口もとを押さえて感想を漏らす。
潮風を吸っているためか、バナナの実はほどよく塩味を帯びている。
食べ終わったあとは、広場をうろついていた女性に声をかけられた。
その女性はバナナの皮などを回収し、それを売ることを生業にしているらしい。俺もクマリーも彼女に皮を渡した。
大きな袋を背負って目抜き通りへと駆けていく女性を見つめ、クマリーがつぶやく。
「みなさんには、それぞれにやるべきことがあるんですね」
「そうだよ、みんな同じなんだ」
港に停泊する船のほうを見やると、積み荷を下ろす船員たちが視界に映った。
続いてクマリーが俺のひざから浮き上がり、勢いよく振り向く。
「クマリーもがんばりますっ! 四十二個の子音字のうち二十八個の子音字をマスターしたから、これから残り十四個の文字を習得するんです。そして文字保有者のみなさんの名前もすべて書けるようになりますよ~」
彼女はピーにして体に文字を刻んだ文字保有者の一人でもある。
クマリーが保有しているのは、「指輪のウォー」を意味する「ウォーウェーン(ว)」の文字だ。
ほかの文字や名前の書き方を学ぶことでその力は少しずつ覚醒していく――というのが俺の仲間の見解である。
今の俺の仕事はそんなクマリーを見守ること。
これからクマリーと共に、まだ彼女の学習していない文字を保有する者たち一人一人のもとを訪ねるつもりだ。
(リアンゲが世界中に放っていた縄の影響が失われたことによる具体的な被害の調査は、ほかのみんなに任せてある。だから俺は俺のやるべきことをする。ヨムと……おそらく彼の仲間になったシアムに対抗するためにもクマリーのウォーウェーン覚醒は急務だろう。ウォーウェーンだけが俺たちの文字を安全に着脱できるわけだからな。うまくいけばヨムのコークアット(ฃ)もはがせるかもしれない)
ただ、俺はそんな事情を抜きにしても――。
クマリーを守りたいし、クマリーの世界が広がっていくさまを見ていたい。
左手の平に赤く刻まれたトータハーン(ท)を握り締め、自分の気持ちを再確認する。
「……クマリー、これからも安心して文字を学んでほしい。君には兵隊がついている」
「お兄さん……とってもうれしいです」
俺の両手を取り、クマリーがそれを上下に振る。
「ではそろそろ、この港町にいるお二人に会いましょう!」
「クラップポム(了解)」
* *
広場のベンチから立ち上がり、俺たちは目当ての人物がいる場所に向かう。
そもそも俺とクマリーがグラーン川下流にあるこの港町を訪れたのは、文字保有者と会うためだ。
現在、仲間の二人がこの町に滞在している。
その情報はロージュラー(ฬ)の文字保有者であるエーンに教えてもらったことだ。
(人面ムカデの鎮静化が終わったあと、ジョットマーイがエーンのいる島まで俺たちを送り届けてくれたからな。ただしクマリーが会いたがっているみんなは現状図書館塔に集まれる状況にないらしかった。だから俺たちから訪問しないといけない。そして今から訪ねることについては、すでに一人一人にエーンが知らせてくれている)
俺は通行人のあいだをかき分け、エーンに言われた場所へと歩を進めた。
クマリーがついてきているのを確認しながら、先ほどとは別の目抜き通りに入る。
(このあたりか)
露店の途切れた場所に、大きな立て札が見える。
立て札の前に多くの人が集まっている。
見上げると、「兵隊志願者募集中」の貼り紙が黒く太い字で書かれていた。
港町が独自に募集しているのではない。
これは国による募兵である。
クマリーが俺の左肩をつつく。
「どうしたんですか、お兄さん」
「ไม่ได้เป็นอะไร(なんでもない)」
そう言って俺はきびすを返す。
ついですぐ真後ろに見知った相手が立っているのに気づいた。
そこにいたのは、顔色のすぐれない少女だった。
瑠璃色の髪は外に向かって広がり、肩に絡みついている。
前髪は長く、毛先が鼻梁に引っかかった状態。
ただし髪と同じ瑠璃色の瞳は見ひらかれ、こちらを激しく射すくめる。
長袖の白いトップスは粗い素材のものだ。
その上に袖のない紺の外套を羽織っている。
ハーフパンツに似たキュロットも靴下も靴も紺色で統一されているものの、手袋は白く分厚い。
顔色のすぐれない少女は左手に旗を持っている。
白い棒に黒い布をつけたものではあるが、その布は長方形ではなく人のかたちをしていた。
棒のてっぺんから人のシルエットがぶら下がり、潮風に揺られている。
彼女の口が動き、透明感のある声がこぼれる。
「会えてうれしいであります、アーティット」
ついで背中を見せ、立て札の向かいに建つ宿屋をあごで示す。
「お話は、あのなかでうかがいましょう」
その言葉に従い、俺とクマリーは顔色のすぐれない彼女についていく。
宿屋の二階に上がって扉を閉めたあと、彼女は言う。
「ちょっと部屋に入れるだけなら追加料金もかかりませんので心配は無用であります」
「そうか、ともかく俺も会えてよかった」
続いて俺はクマリーを紹介しようと思った。
しかしクマリーは自分から進み出て自己紹介をおこなう。
「あらためて……クマリーはクマリーと申します。あなたの文字を学びに来ました」
手を合わせ、声を抑えて丁寧にあいさつする。
「このたびはお時間を作っていただき感謝します。よろしくお願いします」
「……こちらこそよろしくお願いいたします、クマリー。自分の名は――」
彼女はベッドに旗を置いたあと、クマリーに両手を合わせた。
「【ธ】トートン・ファ、つかさどる字は旗のトー。自分はしがない旗持ちでありますれば、どうぞ今後はご遠慮なきよう」
そして右袖をまくり、ひじを露出させる。
ひじの内側にธの赤い文字が刻まれている。腕を水平にしたときに、ちょうど正式な向きで字が見える。
「エーンから事情は聞いているであります。さっそく、なぞっていただきたい」
「ありがとうございます、ファさん!」
ベッドに腰かけるファの水平の右腕にクマリーが近寄り、トートン(ธ)の文字に右人差し指をすべらせる。
まず字の左側のなかばくらいの高さから線を下ろす。
下に達したら線を右に引っ張る。
(このときまっすぐ書く人もいるだろうし、弧をえがく人もいるだろう。ただしファの体に刻まれた書体に関しては下に張り出す弧に近い)
さらに全体の右下に来た時点で線を上げる。
字のスタート地点よりも高い場所に届いたら、やや左上に持ち上げていく。
ついでスタート地点よりも左に突き出したあとで今度は右に行く。
緩く上に張り出す弧をえがいてから、右下の線よりも右に来たあたりで少しだけ右上に跳ねてとめる。
こうしてトートン(ธ)の字が完成する。
「今までにない字ですっ!」
興奮しながらクマリーが宙にトートン(ธ)を何回も書く。
「丸がないってめずらしいですねっ。イカした文字のなかでもとくに独特の雰囲気をかもし出す、とってもイカした字だと思いますっ!」
「そうでありましょうかね……」
まくっていた袖をファが戻す。
「ちなみに自分のトートン(ธ)はアーティットのトータハーン(ท)の音とまったく同じです」
「それは素晴らしいですっ」
クマリーが音を立てずに拍手した。
「あ、ファさんの名前の書き方も教えてもらえるとうれしいですっ!」
「……あとにしてもらえるでしょうか」
ファが長い前髪のあいだからクマリーを見据える。
「アーティットも自分に用があるようなので」
「分かりましたっ、ファさん」
素直にクマリーがうなずき、後ろに下がる。
ファに促された俺は上着の内ポケットからレモン色の袋を出す。その袋から鐘のイヤリングを取り出し、ファに渡した。
「チュアモーンとガムランが共同開発した鐘のイヤリングだ。耳につけてくれ」
俺はチュアモーンに頼まれ、まだ持っていない文字保有者にイヤリングを配る仕事も担当しているのだ。
ロージュラー・エーンの力ほど万能ではないにせよ、遠くの仲間と連絡をとれるイヤリングは今後のために文字保有者全員に渡しておく必要がある。ただし俺がイヤリングを届ける相手はこれからクマリーが文字をなぞる者たちだけだが。
そういう事情があって俺が使い方を教えたあと、ファは深くうなずいた。
「感謝します、アーティット」
すでにファに託した鐘のイヤリングは見えなくなっている。
「それと自分からも話があります」
「なんでも言ってくれ」
俺はイヤリングの入った袋をもとの場所にしまった。
ファは姿勢を正し、透明感のある声を静かに響かせる。
「また自分と、同じ戦場に立ってください。そして敵のしかばねの山を築きましょう」
「すまないがそれはできない」
これまで俺は傭兵としていくつもの戦いに参加してきた。
そのなかでファとは戦場でよく顔を合わせた。
いずれの戦いでも味方同士の関係だったので、ファと俺とは戦友とも言えるかもしれない。
瑠璃色の瞳を近づけ、ファが声を荒らげる。
「今の仕事が終わったあとでも駄目なのでありますか」
「そうだ。俺はただ自分が生きるためだけの兵隊はやめたんだ」
身を低くし、目線の高さを合わせてから俺は言った。
目を伏せたファは、つぶやくように言葉を引き取る。
「では、もっとこちらに来てください。こっそり伝えたいことができました」
クマリーに聞かれたくないことでもあるのだろうか。
俺はゆかにひざをつき、ベッドに座るファに近づいた。
しかしファは小さく首を横に振る。
「もっとです」
そう言われてさらに近寄った俺に、ファが両腕を回した。
彼女のあごが俺の右肩に置かれる。
「そういえばアーティットとの出会いは文字保有者になる前でしたね」
右耳に、透明感のあるささやき声が入り込む。
「あのとき敵方から矢の雨が撃ち込まれました。ほかの味方は全滅しましたが、アーティットと自分だけは助かりました。あなたがいち早く動き、おびえる自分を連れ出してくれたからです。あの日以来、自分はあなたに憧れました。あなたと共に戦場で死にたいとも望みました。自分にとってあなたはそれほどの人なのです。なのに、今さら戦場から逃げるなど――」
瞬間、俺の左の首元に痛みが走る。
「――許されざる裏切りでありましょうよ」
「ファ……?」
見ると俺の首の付け根に斜め四十五度の角度から白い棒が刺さっていた。
長方形の布を持つ小さな白旗の棒を、ファの右手が俺に突き刺している。
クマリーが声を震わせて戸惑いの声を出す。
「ど、どうしたんですかファさん……っ。なんでお兄さんを……!」
「黙りましょうか、アーティットを腑抜けさせた元凶が」
ファは立ち上がり、ベッドに横たえていたほうの旗を左手に持った。
「今あなたに立てたその旗は刺した相手からいのちを吸い取ります」
ベッドの上に直立し、ひざをついた俺を見下ろす。
「時間経過に応じて白い旗は赤く染まっていき、あなた自身の髪と瞳のように深紅になった瞬間にあなたの生命活動を停止させます」
俺の左肩に足を載せ、揉むように指を動かす。
「抜いたらいけませんよ、それだと血と共にいのちがぴゅーっと出て即死しますので。折ったり削ったり押し込んだり布を外したりした場合も同じことです。旗をどうにかしたいならさっきの発言を撤回するか、さもなくば」
ついでファはかかとを落とし、俺をゆかの上に沈めた。
「――自分を殺すでありますな」
次回「86.冠のドー(ฎ)」に続く!
ธ←これが「トートン」の文字。意味は「旗のトー」……子音字によく見られる小さな丸もなく、どこか独特の存在感を持っていますね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
トン(ธง)→旗
アオアンニー(เอาอันนี้)→これください
カ(ค่ะ)→丁寧な表現を表す語
マイダイペンアライ(ไม่ได้เป็นอะไร)→なんでもない
あらためて、いつもお読みいただき感謝いたします。評価やブクマ等も励みになっています。




