84.誰かの名前を書きとめる(จดชื่อของใคร)【後編】
下がったチュアモーンに続いて、おしとやかな声が響く。
「ウォーウェーン(ว)さま。次は私の名前を書いてくださいまし」
白すみれ色の髪と瞳を持つ彼女がクマリーの前で正座になる。
ヨーヤック(ย)の文字保有者であるナーグルアは自身の棍棒を背中の後ろに置き、ひざに両手を重ねて品を作った。
「ナーグルアの『ル』に使用するのはローリン(ล)です。また、『ナー』に声調記号であるマーイエーク(–่)をつけてくださるとうれしいですわ」
「分かりましたっ! 教えていただきありがとうございます」
クマリーはふにゃふにゃした声で力強く返事をした。
俺とナーグルアはそんなクマリーを見守る。
灰色の地面に右人差し指をすべらせ、クマリーがまずノーヌー(น)を書く。
「……ナーグルアさんの『ナー』は響きからしてキアさんのノーヌーを用いるはず……っ。その右横に『アー』の音を示すラークカーン(า)をつけてノーヌーの右上にマーイエークを加えればっ」
自分で確認しながら「ナー(น่า)」としるした。
「そして『グ』ですけど……これは『ウ』っぽいからディアオさんのゴーガイ(ก)と一緒に『ティーンイアット(◌ุ)』を使えばいいのかな」
「素晴らしい考察ですが、私の名にティーンイアットは要りませんことよ」
やんわりと微笑しつつナーグルアが声をかける。
「ナーグルアの『グル』を一つの子音として捉えるとよろしいですわ」
これは「二重子音」と呼ばれるものの一つである。
「その場合ゴーガイ(ก)の音とローリン(ล)の音が重なり『グロ』のような音に聞こえます。したがって私の名前のゴーガイに母音記号を付する必要はありませんのよ」
「子音がセットになることもあるんですね」
うなずいて、クマリーが「ナー(น่า)」の右にゴーガイ(ก)とローリン(ล)を並べる。
「しかもそのセットになった子音が『ウア』と発音されるなら亀さんやトゥアムさん、チュアさんの名前と同じ記号がつくはず。ナーグルアさんの名前にマーイハンアーガート(–ั)は用いられるのでしょうか」
「用いますわ」
「そうなんですね、重ねて感謝ですっ」
クマリーはローリンの右上にマーイハンアーガートを書き込んだあと、ウォーウェーン(ว)を右横につける。
こうして「ナーグルア(น่ากลัว)」という名前も完成した。
「貫禄があって物腰も柔らかで、そしてお綺麗でお強いナーグルアさんにふさわしい安定感のある名前ですねっ」
「あらあら。お上手ですのね、ウォーウェーン(ว)さま」
右手を口もとに近づけ、ナーグルアが上品に笑顔を作った。
クマリーも照れながら微笑を返す。
「本当にナーグルアさんはすごい人です。おっきな相手も簡単に倒してしまいますし、テントや廃墟になったおうちを片付けるときも重そうなものをラクラクと持ち上げて――」
どうやら俺が眠っているあいだに、北側に張られていた白いテントやシアムによって燃やされた高床式住居の残骸はすでに撤去されたらしい。
褒められたナーグルアは、やはりおしとやかに答える。
「きっとウォーウェーン(ว)さまも、これからお強くなりますわ」
ついで棍棒を持って立ち上がる。
背面に回した棒に両手を添えた状態で俺にほほえみかける。
「トータハーン(ท)さま。あなたさまのご成長も楽しみですわね」
「成長の余地があるかは分からない」
俺はクマリーの左隣で中腰になり、慎重に答えた。
「それともあなたが言っているのは精神的な意味での成長なのか?」
「いいえ。個人の武力の成長でしてよ。元来文字保有者の全員がほかの文字保有者全員を殺しうると私は断言しますが――」
ナーグルアがボトムスの四枚の布を妖艶に揺らす。
「同時に、例外なく」
つま先で全身を支えながら俺に向かって上半身から下半身までを限りなくかたむける。
「私たち文字保有者は一人で世界のすべてを滅ぼしうるとも確信しておりますの」
* *
「そんじゃ指輪ちゃーん」
ポーパーン(พ)の文字保有者であるプラトゥが酒焼けしたような声と共に両ひざをつく。
「アタシの名前をかる~く書くといいよー」
「はい、プラトゥ師匠」
また左にずれ、クマリーが地面に指をつける。
「プラトゥ師匠の『プ』は師匠自身のポーパーン(พ)を使うんでしょうか、それともルディさんのポープン(ผ)ですか、あるいはジョットお姉さんのポーサムパオ(ภ)とか……っ?」
「残念だけど違うんだわ。アタシの『プ』は息を出さずに発音されるしねー。というわけで魚ちゃんの字を使うわけだけど、指輪ちゃんは魚ちゃんとは会ったことないんだっけ」
図書館塔の大部屋で互いに顔を見合った可能性はあるのだが、クマリーとポープラーの文字保有者がまともに話していないのは確かだ。
「じゃ、あとで正式に学ぶってことで兵隊くん、代わりに書いてあげなよー」
「ああ、そうだな」
例によって俺はクマリーの右手に右手をかぶせ、ポープラー(ป)を地面に書いた。
クマリーも例によって俺に礼を述べ、首をかしげる。
「なんとなく思ったんですけどプラトゥ師匠の『プラ』もナーグルアさんの『グル』と同じで一つの子音としてあつかえるのでは?」
「へー、指輪ちゃん。そこまで見抜くなんてね」
プラトゥが頭にかぶった金色の供物台を両手でつつく。
「すでに兵隊くんから聞いてるかもだけど、セットにして発音する子音を二重子音って言うんだわ」
「とすれば『プ』にティーンイアットをつける必要はなさそうですね。そして『ラ』は巻き舌だから……」
ポープラー(ป)の右横に、クマリーはロールア(ร)を追加した。
続いてロールアの右上にマーイハンアーガート(–ั)を書こうとする。
それをプラトゥがとめる。
「ここでは『ア』の音をあらわすのに『ウィサンチャニー(ะ)』を使うのがいいんだよー」
「え……」
クマリーがきょとんとする。
「でもカヤンさんから聞きましたよ。後ろに子音がつくときはマーイハンアーガート(–ั)が正しいのでは……? プラの次には『トゥ』が続きますけど……」
「あ~、老人ちゃんが言いたかったのは一つの音の塊のなかで後ろに子音がつくときにマーイハンアーガートを用いるってことなんだろうね」
まだ首をかしげているクマリーに、プラトゥが白の交じった群青色の視線をそそぐ。
「一つの言葉が音の塊を二個以上含んでいることもあるんだよ。アタシのプラトゥの場合はね~、『プラ』と『トゥ』で音が分かれるの。だからその『プラ』という一つの音の塊の最後の『ア』も、いったん後ろの音の塊と切り離されるわけだわ。その結果『プラ』の『ア』という母音をあらわすときはウィサンチャニー(ะ)を用いることになる」
「なるほどっ! 音がいったん切れる場合はマーイハンアーガートではなくウィサンチャニーで『ア』を示すということですねっ」
納得したクマリーがウィサンチャニー(ะ)を描き加えて「プラ(ประ)」の字を作り終えた。
「あとは『トゥ』ですね」
「そうだよー。亀ちゃんのトータオ(ต)を使おっか」
「ありがとうございます。ただ、『ウー』って伸ばす音に聞こえます。ティーンイアット(◌ุ)はクマリーの『ク(กุ)』のような短い『ウ』をあらわすわけですよね……? とすれば長い『ウー』をあらわすには新たな母音記号が必要なはずっ! お兄さん、教えてくださいっ」
「もちろん。ここで必要なのはティーンクーという母音記号だ」
俺の手に手をすべり込ませてくるクマリーと一緒に新たな記号をしるす。
まず子音字の下の真ん中あたりに時計回りで小さな丸を書く。
丸の右側から短い線を下ろす。
さらに線を右へと少し引っ張る。
まっすぐ持ち上げ、すでに書いた丸のてっぺんと同じ高さでとめる。
こうして「ウー」をあらわす母音記号「ティーンクー(◌ู)」が完成する。
「ティーンイアット(◌ุ)が右にちょっと伸びたかたちだな」
「これを使うんですね~。本当に助かりますっ」
ついでクマリーは自力でトータオ(ต)の下にティーンクー(◌ู)を加え、「トゥ(ตู)」の字を作った。
すでに書いていた「プラ(ประ)」と合わせ、「プラトゥ(ประตู)」の名前ができあがる。
「プラトゥ師匠の名前は、どこか世界の真実に踏み込んでいく扉のような――そんな深遠な感じがしますっ」
「分かってくれるとはうれしいわー。精霊や文字に対するアタシの探求方法は数多の扉をあけていくがごとしだからね」
続いてプラトゥは両ひざを地面から離し、その上に両ひじをつく。
「ところでアタシめっちゃ気になるんだけど~、指輪ちゃんって兵隊くんのことどう思ってるのかな」
「もちろん、とってもイカした文字を持つ、とってもイカしたお兄さんですっ!」
クマリーが俺のほうにも視線を向けて自信満々に言った。
プラトゥが口角を上げてうなずく。
「いいわー、アタシそういうのホント大好物」
さらに首をかたむけ、俺を凝視する。
「じゃ兵隊くんのほうは指輪ちゃんをどんなふうに思ってる?」
「幸せになってほしい」
とっさに俺はそう答えた。
一瞬プラトゥにからかわれるかと思ったが、彼女は笑わずに優しく言葉を引き取った。
「そんなアナタも幸せになってほしいとアタシは思うわー」
* *
そして水色の髪と瞳を持つロップがプラトゥと入れ替わりにクマリーのもとに来た。
フォーファー(ฝ)の文字保有者であるヤーンロップが左ひざを立てて座り、体感的に冷たい声を発する。
「クマリー、わたしの名前も書いて。お願いします」
「こちらこそよろしくお願いします、ロップお姉さんっ!」
思わずクマリーが手を合わせて言葉を返す。
ロップは左耳をさわりながらほほえむ。
「そうかしこまらないで。今のクマリーならわたしの『ヤーンロップ』という名前も簡単に書けるはずだから……。『ロ』についてはローリン(ล)で表記する」
ここで、ハッと気づいてまばたきする。
「あ、そういえばワッタジャックの文字は学んでいるの?」
「いえ、そのかたとの交流はまだですっ」
ワッタジャックとはボーバイマーイ(บ)の文字保有者の名前である。
ヤーンロップという名前の最後にその文字が出てくるのでロップはクマリーに確認したというわけだ。
俺は最後の文字を一緒に書くと言って、まず「ヤーンロ」の文字列を書くようクマリーに促した。
クマリーは名前の音から推理し、ヨーヤック(ย)とラークカーン(า)を組み合わせたあとンゴーングー(ง)を続け、「ヤーン(ยาง)」と書いた。
さらにローリン(ล)を追加し、俺を見る。
俺はクマリーの手を取ってその右にボーバイマーイ(บ)を加えた。
こうして「ヤーンロップ(ยางลบ)」の名前が完成した。
「できました、大感謝ですっ。まさに気高いロップお姉さんのことをこの名前があらわしていると思いますっ! ひんやりとしたお姉さんの素敵な声も響いてくるようです~」
「そう……」
どこか不満があるのか、ロップが左ほおを膨らます。
「クマリーがそう言ってくれるのはうれしいけど、ほかのみんなに比べてわたしの名前を書き終わるのが早すぎる気がする」
しかしクマリーが謝ろうと口をひらきかけたところで、ロップがほほえみ言葉を継ぐ。
「別に責めたわけじゃない……。クマリーが字を書き慣れてきたってことだからね。本当はうれしいの」
「ロップお姉さん」
クマリーは浮遊し、ロップの左耳にささやきかける。
「クマリーはロップお姉さんのことも大好きですよっ」
「ああ……っ、そのふにゃふにゃした声、たまらない。プラトゥが来るって言ってくれたこともそうですけど、クマリーは本当にみんなに元気を与えてくれるね」
「そういえば、ロップ」
俺は彼女の左目をのぞき込み、聞く。
「このあたり一円に仕込んだ君の蓋はもう完全に撤去したのか」
「うん。アーティットがトゥアムのお腹でりりしい寝息を立てているあいだにわたしが取りのぞいた。だって――」
左わきのフォーファー(ฝ)に右手を這わせながらロップは答えた。
「かぶせるものがない蓋は、なんの意味もないでしょう?」
* *
それから土色の髪と瞳を持つ少女がクマリーの前に座った。
チョーガチュー(ฌ)の文字保有者であるンゴットガームは相変わらず白っぽいゴムのような服で全身をおおっている。
「クマリー嬢」
うるおいのある声でゆっくり言う。
「私の名前もぜひ書いてほしい。そんなに難しくないからすぐに終わると思うよ」
「ではンゴットさん、いきますよ~」
まずクマリーはンゴーングー(ง)の文字を地面にしるす。
その次のドーデック(ด)はルディの名前にも使用したがクマリーにとってはまだ学習していない字も同然なので俺が補助して右隣に加える。
ンゴットガームの「ガー」も「ンガー」という発音に近いのでンゴーングー(ง)であらわす。
あとは「アー」をあらわすラークカーン(า)と「ム」をあらわすモーマー(ม)をつける。
こうして「ンゴットガーム(งดงาม)」の名前も地面に刻まれた。
「なんとなく二つ並んだンゴーングー(ง)が、全体に樹木のような偉大さを与えている気がしますっ。ンゴットさんにふさわしい立派な並びですねっ!」
「そう言われるとうれしいものだね」
微笑し、ンゴットガームが腰を上げようとした。
しかし彼女をクマリーが制止する。
「待ってください、まだ名前を書かないといけませんっ」
「……クマリー嬢。よく気づくね」
ンゴットガームが浮かせていた腰を下ろす。
続いてクマリーが両手を口の端に添えて呼ぶ。
「フアロさんっ、出てきてください」
「どうも、クマリー氏」
どこか無機質な声と共に、ンゴットガームに寄生しているフアロが宿主の背中から顔を見せた。
宙に浮き、カラスの濡れ羽色の髪と青い瞳とその人間離れした美貌をさらす。
「もしかして私の名前も書きたいんですかあ」
右親指でンゴットガームを指差し、息をつく。
「この女と違って文字保有者でもない私の文字を」
「書きたいですっ」
まっすぐクマリーがフアロを見つめる。
「フアロさんも共に戦った仲間ですから!」
「仲間ですか。私は十万バーツを受け取るのも辞退しましたし……なんかこのまま絶妙なポジションでいこうかなあと思っていたんですが、そうハッキリ言われると弱いですね」
黙って目を細めるンゴットガームのほうをちらりと見てからフアロがひざをつく。
「じゃ、書いてもらいましょうかね」
「ありがとうございますフアロさんっ」
クマリーがバンザイし、すぐに灰色の地面に指を置く。
「えっと、フアロさんの『フア』はヒマちゃんと同じでホーヒープ(ห)を使うんでしょうか」
「そうですよ」
「分かりました、そして『ウア』の音だから……マーイハンアーガート(–ั)とウォーウェーン(ว)を使うんですねっ」
「ふーん、クマリー氏。きょう覚えたわりには飲み込みが早くて感心ですねー」
その口ぶりから察するに、フアロは姿を消しているあいだもクマリーの様子を見守っていたようだ。
対するクマリーは左こぶしで胸をたたく。
「はいっ、クマリーは頭がいいですから!」
さっそく地面に「フア(หัว)」と書く。
直後、困った顔をする。
「でも『ロ』はどうしましょう。ロールア(ร)を使うとは思うんですが、短い『オ』をあらわすとなると……」
「クマリー氏。これまで学習した母音記号の合わせ技で乗り切りましょう」
フアロが両目を光らせて前かがみになる。
「すなわち『マーイナー(เ)』と『ラークカーン(า)』と『ウィサンチャニー(ะ)』のコンボです!」
「つ、強そうです! もしかして全部使うんですかっ」
「そのとおり。フアロの『ロ』の母音をあらわす場合、子音字の左側に『マーイナー(เ)』を置き、同じ子音字の右側に『ラークカーン(า)』『ウィサンチャニー(ะ)』を順に加えるんです」
「おおっ、まさにこれまで学んだことの総決算みたいですっ!」
クマリーは興奮しつつもフアロの言ったとおりに母音記号を配置し、すでに書いた「フア(หัว)」の右隣に「ロ(เราะ)」を付け加えた。
こうして「フアロ(หัวเราะ)」という名前も完成した。
「精霊としての威厳と美しさを兼ね備えている名前ですねっ」
「ちょっと体がかゆくなりますね。まあ、いいですけど」
ついでフアロがクマリーを見つめる。
「私のことを忘れずに呼んでくれたこと、うれしかったですよ」
「私からも感謝を伝えるよ、クマリー嬢」
ンゴットガームもフアロと共に礼を言う。
「新しいウォーウェーンがクマリー嬢で、本当によかったと思う」
それから照れるクマリーからいったん離れ、ンゴットガームとフアロが俺に近寄る。
左耳からンゴットガームの小声が入ってくる。
「アーティットおにい。やっぱり今回の人面ムカデの正体は私と同じグラスーだったね」
「……ンゴット」
俺もほかのみんなに聞こえない程度の小声で応じる。
「だからこそ、君には思うところもあるのか」
「そりゃあるよ。でも私は彼女たちをかわいそうとは考えない。また、誇り高かったと言うつもりもない」
ひと呼吸置いて、吐息と共に言う。
「ただ彼女たちは存在していた、それだけさ。フアロと私と同じようにね」
「それはそうとアーティット氏」
右耳からフアロがささやく。
「忘れていませんよねえ、あなたがンゴットの柔内臓を見たことを」
「……それは本当に悪かったと思ってる」
「ですよねえ、つまりアーティット氏は私たちに弱みを握られているということです。だから今後、私のルーツに関わる情報を手に入れることがあったら問答無用で教えてくださいよ~」
「ああ、そういう情報をつかんだらな」
やはり俺は小声で返答した。
ンゴットガームが遠慮がちに俺へと言葉をかぶせる。
「ごめんね、アーティットおにい。こいつ……フアロの性分は私にもどうしようもないんだ」
「いや俺が悪かったのは本当だし、自分のルーツを知りたいと思うのも当然じゃないか」
「そう、優しいことを言ってくれるね」
ンゴットガームは小さく笑った。
「確かに私だってフアロに負けず劣らず自分のルーツを知りたい」
耳から離れ、つぶやくように言う。
「もしかしてアーティットおにいも、そうなのかな」
* *
さらにすす色の髪と瞳を持つ壮年男性がよろめきながらクマリーの前に腰を下ろした。
フォーファン(ฟ)の文字保有者であるセンセーが四角形の眼鏡をかけなおし、沈んだ低音の声で話しかける。
「クマの字……オレの名前も書くのだな……」
「もちろんです、センセーっ!」
「元気がよくてよろしいなあ、クマの字よ……オレの名前にはガムランのソーソー(ซ)を使う。だが最初の『セ』がちょいと難しいかもしれんぞ……。短い『エ』の母音をあらわす記号を付加しなければならないからな……」
センセーはクマリーのつまずくところを前もって予想してくれているようだ。
「使用する母音記号は『マーイナー(เ)』と『マーイタイクー(◌็)』だ……」
マーイタイクーは少し複雑なかたちをしている。
これまでの流れどおり、俺がクマリーの手を取ってその記号を書いてみせる。
まず子音字の右上に小さな丸を時計回りで書く。
その丸の下から左へと線を持ち上げる。
ついで下方向に短い線を引き、すぐ上に折り返す。
折り返したあと右に線を引っ張り、丸の上あたりに来たタイミングで上げてとめる。
これで短い「エ」などをあらわすときに使う母音記号「マーイタイクー(◌็)」ができあがる。
「これとマーイナーを同時に使えば『センセー』の『セ』をあらわせるんですね」
クマリーはマーイナー(เ)を書いてからその右にソーソー(ซ)をしるす。
さらにソーソーの上に、先ほど学んだマーイタイクー(◌็)を付け加えた。
間違いなく「セ(เซ็)」と書くことができたクマリーを俺もセンセーも褒めた。
クマリーはほのかに顔を赤らめながら「ン(ง)」の字を続ける。
センセーは自分の無精ひげを軽くさわりながらうなずく。
「本当にやるものだ、クマの字……マーイタイクー(◌็)も美しい……あとは『セー』だが、すでにテーの字の『テー』を書いた君ならば造作もなかろう……声調記号である『マーイエーク(–่)』もつければ完璧だぞ……」
「適確なアドバイス、ありがとうございますセンセー!」
クマリーはテーラさんのときと同様、マーイナー(เ)を二つ重ねる。
それからソーソー(ซ)を再度書き、右上に短い縦棒のマーイエーク(–่)を付す。
こうして「センセー(เซ็งแซ่)」という名前も完成した。
「なんというか……センセーはセンセーって感じですねっ。これ以上はないほどセンセーの魅力を引き出している名前ですっ!」
「オレは敬称つきで呼ばれるべき男ではないからな……そう、クマの字の言うとおりセンセーでしかない……」
センセーは両手を後ろに置いて上体をその方向にかたむけた。
クマリーは力強く彼に声をかける。
「センセーは敬われるべき人ですっ! シアムさんにもしっかり寄り添おうとしていましたし、みなさんのために詠唱を考案したのも素晴らしいです」
「ありがとう……だがオレはそんなにたいした人間ではないのだ……」
ついでふらつきながら立ち、俺を見る。
「アーの字、クマの字を大切にな……」
「センセー……」
俺は彼のはち切れそうな胸板をじっと見つめ返した。
こちらの戸惑いを見抜いたのか、センセーが言葉を引き継ぐ。
「クマの字にしろ、シアの字にしろ……オレはどうしても気になってしまうのだ……オレには娘がいたからな……その娘と彼女たちを重ね合わせてしまう……だがオレは娘のためになにもしてやれなかった……」
センセーの過去について聞くのは初めてだった。
「つまらない話をしたな、勝利の余韻に水を差したいわけじゃないんだ。忘れてくれ……アーの字。オレが伝えたかったのは……みんな無事でよかったということなのだ……」
そう言ってきびすを返すセンセーに、俺はなにも言うことができなかった。
* *
こうして、クマリーが名前を書いていないのはあと一人になった。
ミーの名前はすでに書いたことがあるから、残りはえび色の髪と瞳を持つレックである。
トーパタック(ฏ)の文字保有者であるレックはビブラートを利かせた声でクマリーに言う。
「クン・クマリー。オレチャンも頼む」
土ぼこりを立てず、静かに地面に座る。
なお彼の背中の突き棒には白っぽい枝が巻きつき、折れた箇所同士をくっつけている。ンゴットガームによる応急処置なのだろう。
「レはローリン(ล)、クはゴーガイ(ก)を使う感じだな。加えて、さっきセンセーの名前でやったときと同じ方法で短い『エ』をあらわしてみるといいよ」
「はいっ、レックさん」
「それから声の出し方を変えることを示すために『ホーナム』と呼ばれる『ホーヒープ(ห)』をローリンの前につける必要があるぞ。このとき『マーイナー(เ)』はホーナムの左横につくから注意してくれ」
「心して書きます!」
クマリーがまずマーイナー(เ)を書く。
次にホーヒープ(ห)をしるし、ローリン(ล)を続ける。
「レックさん、『マーイタイクー(◌็)』はローリンの上でしょうか」
「そうだ、クン・クマリー」
レックがうなずく。
うなずきを返したクマリーはローリンにマーイタイクー(◌็)をかぶせ、最後にゴーガイ(ก)を加えた。
こうして「レック(เหล็ก)」という名前も完成した。
「……レックさん、こちらの心を突いてくるような名前ですね」
ついでクマリーはにび色の髪と瞳を持つミーを手招きした。
ソースーア(ส)の文字保有者であるミーがいぶかしげにレックの右隣に座る。
「どうしたの、クマリーちゃん。ワタシの名前はもう書いてたよね」
「ミーさんの名前も、あらためて書きたいんです」
クマリーは灰色の地面に右人差し指をすべらせてレックの名前の左側に「ミー(หมี)」と書きしるした。
「気づいたんですが、ミー(หมี)さんとレック(เหล็ก)さんの名前のどちらにも『ホーナム』と呼ばれる『ホーヒープ(ห)』が含まれていますねっ」
「ほわー、ホントだ」
ミーが目を丸くする。
レックも視線を左右にやり、首を縦に動かす。
「オレチャンもこれまで意識したことなかったな」
「これってつまり」
クマリーが二人の顔を交互に見る。
「レックさんとミーさんが、とってもお似合いってことですよねっ! クマリーもお二人の幸せを願っていますよ~」
「クマリーちゃん……!」
目をうるませ、ミーが字を消さないようにしながらクマリーをだきしめた。
確かにクマリーの主張は強引なものだ。
ホーナムが名前に含まれている者はほかにもたくさんいる。
それでもミーは、自分たちを祝福しようとするクマリーの気持ちがうれしかったのだ。
「本当に……本当にありがとう。シーフーハーターのワタシにも、変わらずに接してくれるんだね……っ」
「……クマリー」
レックは身を乗り出し、手を合わせた。
「オレは感謝するよ。君という女の子に」
「クマリーだけじゃありません。イカしたみんなのおかげですっ」
クマリーは笑顔でそう答えた。
あらためてレックとミーが立ち上がり、互いに目を合わせる。
ミーがほわほわした声でレックを見つめる。
「そ……それでレックくんっ。あらためて確認するけど、ワタシ……魂を乗っ取られていたときも確かに聞いたよ。『君と一緒にこれからの時間も過ごしたい』ってレックくんが言ったことを。今もこの気持ちは変わらない?」
「変わらないよ」
レックがミーの両手を取る。
「それにオレチャンは――オレはミーが大好きだ。そう言ったことも、覚えてる?」
「うん……っ。ワタシも」
ミーがレックに身を寄せる。
「やっぱり君と一緒に過ごしたいし、レックくんが大好きだよ。シーフーハーターとしても、一人の女の子としても……」
「オレもオレとして、君を愛してる」
ストレートに、レックはミーにそんな言葉を突き刺した。
(レックにトーパタック(ฏ)を与えて彼を解放したのはスーンなんだろう。でも一番にレックを癒やし、彼自身を愛したのはシーフーハーターのミーだ。ミーがいなかったら、トーパタックを刻まれてもレックの生き方はまた違ったものになったはずだ)
俺は二人を直視せず、くもった空を見上げた。
その場にいるほかのみんなも柔らかい表情で雲を眺めている。
そのあいだ意外にもクマリーは二人に声をかけることがなかった。
ただ俺の右隣に来て、静かに頭をこすりつけてきた。
* *
それからレックとミーが俺の前にやってきた。
「アーティット」
レックが俺を見据える。
「今回の作戦が成功したのはみんなのおかげだ。でもとくに君には最大限の礼を言いたい」
ミーと共に手を合わせ、えび色の視線を俺に投げ続ける。
「オレチャンたちの相談に乗ってくれたこともそうだけど……とくにヨムとの戦いのとき、アーティットはオレをかばってくれた。それがなかったらオレは死んでた――そうだろう?」
「……分からない」
俺はまばたきしながら答えた。
「ただ、かばってくれたのはレック――君もだ。だからお互いさまってことにしよう」
「……ああ、そうだな。そうしよう」
レックが少しだけまぶたを閉じた。
ついでミーが半歩前に出る。
「それとアーティットくん。感謝だけじゃなくて、ワタシからはごめんと言いたい。すでにみんなには伝えたんだけど、ワタシ……シアムちゃんに洗脳されたりヨムに簡単につかまったりして迷惑かけたよね……」
「そうは思わない」
俺は正直に返答した。
「シアムやヨムの攻撃については、初見でほとんどよけられるものじゃない。だからどのみち仲間の誰かは同様の攻撃を受けていただろう。でもミーはそれらの攻撃を受けてもなお、自分を壊されることなく耐え続けていた。それに君は地下で落盤を防いでくれたしシアムを追い詰めるときも活躍していた。けっしてミーはみんなの足を引っ張ってなんかいなかった。むしろ」
俺も手を合わせて、礼を返した。
「君もレックやみんなと同じで、コープクンと言われるべき人だよ」
「アーティットくん……みんなと同じこと言うんだね、こちらこそコープクン」
ミーはほわほわした調子でそう口にした。
「さて……あとはジャンク船に乗って帰るだけだけど……ワタシ、次に会ったら今度こそシアムちゃんとしっかり話すよ」
「ああ、そうしよう」
ゆっくり俺はうなずいた。
ついでレックが俺の両肩に手を置いてくる。
「アーティット。そういえばさっきクン・チュアモーンの前で、応援を頼まなかったらヨムに殺されていたかもと言ってなかったか?」
「言った」
「クン・テーラが訪れた時点でオレチャンたちはかなり有利な状況にあった。それでも殺されていたかもしれない?」
「あくまで仮定だよ。ヨムの底が見えない以上、余力や隠し技を持っている可能性はあったからな。次に戦うときも油断はできないと思う」
「そうだね、だったらそれまでにもっと強くなろう」
レックは俺の肩から手を離し、力強くあごを上下させた。
「だからアーティット、オレはいつでも君と突き合うよ!」
「それはいいな」
自分の口角が自然に上がるのが分かる。
「君と突き合うのは、最高に楽しいからな」
* *
こうして、レックもミーもほかのみんなも……焦げ茶のジャンク船へと足を向け始める。
クマリーはみんなの名前を書いた。それを覚えた。
しかしウォーウェーンの力が発動したわけではない。
それでもクマリーは灰色の地面に書きとめた名前を右から左に見て満足そうにうなずいた。
ヒマ(หิมะ)、テーラ(แต่ละ)さん、ルディ(ฤดี)、カヤン(ขยัน)、ユアユ(ยั่วยุ)、トゥアム(ท่วม)、チュアモーン(ชั่วโมง)、ナーグルア(น่ากลัว)、プラトゥ(ประตู)、ヤーンロップ(ยางลบ)、ンゴットガーム(งดงาม)とフアロ(หัวเราะ)、センセー(เซ็งแซ่)、レック(เหล็ก)、ミー(หมี)の名前が間違いなく並んでいる。
当然ながらここを去れば、一日も経たずに消えるだろう。
だがクマリーに、それを心配する表情は見えない。
自分の心のなかにもみんなの名前を書きとめたと、すでに彼女自身が知っているからだ。
クマリーは四十二個の子音字を学ぶべく俺と行動を共にしていた。
今回の作戦前に覚えていた文字は十四だったが、今回の作戦後ではそれも二十八に増えた。
全文字の三分の二を学習したわけだ。
それだけではなく母音記号や声調記号も着実に覚えつつある。
誰かから強制されたからじゃない。
ほかならない自分の意思で目標を立て、そのために突き進んだ。
最初は俺の名前を書くことを目標にかかげていたが、最終的にはそれを超えて共に戦ったみんなの名前をも書いてみせた。
俺はクマリーを守ってやろうと考えていた。
だがそれは彼女の強さを分かっていなかった俺の傲慢だったのかもしれない。
クマリーは今回の作戦においても、自分のできることを考えて仲間のために最善を尽くしていた。
彼女は文字を学びながら確実に成長している。
いや、クマリーだけでなく今回の作戦に参加した文字保有者のみんなもそれぞれ前に進もうとしている。
(じゃあ俺はどうなんだろう)
スーンとの一件が終結したあと、俺も目標を立てていた。
ただの「トータハーン(ท)」の一字として誰かの世界を守り、誰かの世界を少しだけ広げるために戦いたい――そんな目標を。
それを俺は少しでも達成できたのだろうか。
そのとき前方からふにゃふにゃした声が鳴り響いた。
クマリーが大きな声を震わせて、ジャンク船に向かうみんなに手を合わせたのだ。
「みなさんっ! クマリーに名前を書かせてくれて……本当にありがとうございました!」
みんなは足をとめて振り返り、クマリーに笑顔を返していた。
俺もその声を聞いて、その光景を見て気持ちが晴れた。
(そうだ、俺はちゃんと――みんなと一緒に戦えた)
クマリーの後ろ姿に追いつこうとする。
ここで彼女が突然後ろを向き、俺の両手を握った。
彼女の左手は俺の右手を、右手は俺の左手をつかんでいる。
「そういえばお兄さん」
少しおとなっぽい感じでクマリーが見上げてくる。
「この戦いに参加したのにクマリーとお兄さんの名前を書くのを忘れていました。今から書きましょう」
それからずいっと顔を近づける。
「クマリーはお兄さんの左手にお兄さんの名前を書きます。お兄さんはクマリーの左手にクマリーの名前を書いてください。お互いに名前を書きとめましょうっ!」
最後は声をはずませて、クマリーは言った。
俺はうなずき、左手の平を真上に向けた。
クマリーの右人差し指がトータハーン(ท)の赤い字をすべり、俺の名前を書いていく。
俺は上に向けられたクマリーの小さな左手の平に彼女の名前を書く。
俺の名前は子音字が四つで、クマリーの名前は子音字が六つだ。
それでもなぜか、書き終わるタイミングは同じだった。
俺の手にはアーティット(อาทิตย์)としるされた。
クマリーの手にはクマリー・トーン(กุมารีทอง)としるされた。
指を這わせただけなので、文字として残りはしない。
それでも俺は彼女の手によって書かれた自分の名前と彼女の手に書いた彼女の名前を自分の心に書きとめた。
(クマリーも、そうなんだろうか)
ほおを染めながらクマリーが俺を見つめ返してくる。
「不思議な感じがします。これはクマリーとお兄さんだけの文字なんですよね……っ」
「そうだな、俺たちだけの名前だ」
「……はい!」
クマリーが俺の右横に飛ぶ。
俺は彼女と共にみんなの背中を追う。
あるいはこれは、ありふれた話なのかもしれない。
なんらかの文字を知り、その文字を並べて誰かの名前を書こうとする。
みんなの使える文字を使って、自分たちだけの言葉をかかえる。
今もあしたも遠い過去でも。
名前の知らない誰かが、誰かの思いを受けとめて――。
きっときょうも、誰かの名前を書きとめる。
〈ท(トータハーン) 第二章 完/๛〉
次回「番外編03.仲間が大事と彼は言う・カオボークワープアックサムカン(เขาบอกว่าพวกสำคัญ)」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ワッタジャック(วัฏจักร)→輪廻
ティーンクー(ตีนคู้)→「ウー」の母音をあらわす記号(◌ู)
マーイタイクー(ไม้ไต่คู้)→「エ」や「オ」の母音をあらわすときに使われる記号(◌็)




