83.誰かの名前を書きとめる(จดชื่อของใคร)【中編】
「……クマリー、その前に一つ」
俺は文字保有者たちをちらりと見た。
ついでクマリーと目を合わせ、気になったことを確認する。
「みんなの名前を文字にして書く場合、まだ君が学んでいない子音字が五つ出てくることになる。対応する文字保有者と会う前にそれらの字にふれても君は構わないのか?」
「確かに直接学びたいという気持ちは今も変わっていません」
クマリーが俺を正面から見返す。
「だから正式にそれらの文字を学ぶのは保有者のかたと顔を合わせてからにしますっ。でもその思いと同時に、イカしたみなさんの名前を書きたいという気持ちも抑えられないんです!」
「分かった」
真剣な彼女のまなざしを視界に収めながら俺はうなずいた。
「だったらまだクマリーが学んでいない文字を書くときは俺が補助するよ」
「助かります!」
手を合わせ、クマリーが礼を言う。
それからこの場にいる一人一人がクマリーに自分の名前の書き方を教える流れとなった。
なおクマリーは鐘のイヤリングでジャンク船のジョットマーイに連絡を入れ、自分のせいで乗船が遅くなってしまうことを謝った。
「――というわけで、すみません。ジョットお姉さん」
『時間はあるからいいんだよ、クマリーちゃん。あたしもなんかうれしいな』
ジョットマーイはクマリーを責めず、むしろ仲間の名前を積極的に書こうとするクマリーを歓迎しているようだった。
『それに、クマリーちゃんはあたしのジャンク船を呼んだよね。だから約束どおり、あたしはクマリーちゃんを絶対に送り届ける。だから安心してみんなの名前を書きとめるんだよ!』
「ありがとうございますっ!」
クマリーも、ジョットマーイのはつらつとした声に合わせて元気に感謝の言葉を伝えた。
* *
最初にクマリーの前に進み出たのは、菜の花色の髪と瞳を持つ少女――ヒマだった。
ローリン(ล)の文字保有者であるヒマがウキウキしているような高い声でクマリーの両手を握る。
「クマリー、まずヒマがヒマの名前の書き方を教えるよ~」
「ありがとっ。ヒマちゃん」
笑顔のまま、クマリーはヒマと共にひざをついた。
俺はその様子をクマリーの左隣で見ている。
灰色の地面に右人差し指を置いたクマリーを確認し、ヒマが言葉を継ぐ。
「ヒマの『ヒ』にはホーヒープ(ห)を使うんだ。スープパンちゃんとはもう会ってるよね」
「うんっ」
クマリーが指をすべらせてホーヒープ(ห)を地面に書く。
「そして『イ』の発音だからアーティット(อาทิตย์)お兄さんの『ティ(ทิ)』と同じように頭に『ピンイ(–ิ)』をかぶせるのかな」
ホーヒープ(ห)にピンイ(–ิ)が加わり、「ヒ(หิ)」の字ができた。
ヒマは手をたたく。
「そうそう、じゃあ次はヒマの『マ』だっ!」
「響きからしてサラサさんのモーマー(ม)を使うんだよね」
ヒ(หิ)の右横にクマリーはモーマー(ม)を加える。
「ヒマちゃんの『マ』は『ア』の音に近いね。でもクマリー(กุมารี)の『マー(มา)』よりも短いから『アー』をあらわすラークカーン(า)とは別の『母音記号』が必要になったりする?」
「そうだよ、『ウィサンチャニー(ะ)』をモーマーの右につけるの」
ついでヒマが俺を見上げて口角を上げる。
「アーティット~。クマリーの手を取って書いてみせなよー」
「お兄さん、お願いしますっ」
クマリーも俺を上目づかいで見つめる。
俺はしゃがみ、クマリーの右手に右手を重ねた。
ウィサンチャニー(ะ)は短い「ア」をあらわす記号だ。
ヒマの言ったとおり子音字の右に添える必要がある。
まず上半分の位置に反時計回りで小さな丸を書く。
次にその丸の下から線を右に突き出し、持ち上げながら緩い弧をえがく。
そして丸のてっぺんと同じ位置まで線が上がったらとめる。
下半分についても同様のマークをしるす。
こうして短い「ア」を示す母音記号「ウィサンチャニー(ะ)」が完成する。
ただし俺はこのウィサンチャニーをモーマーから離れた地面に書いた。
クマリーは礼を言ったあと、自分の手だけでウィサンチャニー(ะ)をモーマー(ม)の右に追加する。
結果、灰色の地面に「ヒマ(หิมะ)」という名前が文字として書きとめられた。
なお宙ではなく地面に書いたせいか、あるいは一つの名前を一気に書かなかったせいか……ヒマの体がウォーウェーン(ว)の力を受けて光るということはなかった。
「ヒマちゃんの名前、書けたよ~。素敵な文字の並びだねっ、これでヒマちゃんにもっと近づけた気がする」
「……うん、間違いもないみたい。よかったねクマリー!」
ヒマはまたクマリーの両手をそっとつかんだ。
続いて、やや声のトーンを落とす。
「ねえクマリー。ヒマは、みんなの役に立ってたと思う?」
「思うよ。ヒマちゃんがいたからミーさんも人面ムカデさんも、もとに戻れたんだから」
クマリーはヒマの手をぎゅっと握り返した。
ヒマは目をうるませた。
「ありがとう、クマリー……ヒマ、ここに来てよかった」
自分の名前をクマリーに書いてもらったので、下がろうとする。
そんなヒマに俺はバナナを一本渡した。
クマリーとヒマが会話しているあいだに天幕の兵隊を呼び出し、なかの氷室からバナナを取り出したのである。
ヒマはバナナを皮ごとかじり、はにかんだ。
「やっぱりアーティットのバナナ、とってもアロイね、コープクン」
* *
そういう流れで、俺はほかのみんなにもバナナを一本ずつ渡した。
テーラさんも「食べられる皿」を出現させ、それをみんなに振る舞った。
ジョージャーン(จ)の文字保有者であるテーラさんが三白眼を細めながらクマリーの前でしゃがむ。
「ウォーウェーン・クマリー。次はぼくの名前を書きたまえよう」
「はい、テーラさん。ありがとうございます」
先ほど書いた名前を消したくないのか、クマリーが左にずれる。
「えっと、テーラさんの『テー』は息を出さない『タ・ティ・トゥ・テ・ト』ですよね」
「そうだよお、ただしぼくの名前の場合はトーパタック(ฏ)じゃなくてトータオ(ต)を使用するのさあ~」
テーラさんが、地面に指をつけようとしたクマリーをいったんとめる。
「で、ぼくの『エー』の発音をあらわす母音記号はねえ、子音字の左側に添えるんだよう。『マーイナー(เ)』という記号を重ねるのさあ~。トータハーン・アーティット、手本を見せるといいんじゃないか~い」
「そうするか……」
俺はクマリーの左隣で地面にマーイナー(เ)を書こうとした。
その際、クマリーが自分の右手を俺の手の下にすべり込ませてきた。
彼女の手をゆっくり動かす。
まず下に小さな丸を時計回りで書く。
そのあと丸の左側から線をまっすぐ上げて充分な高さになったらとめる。
充分な高さというのは、続けて書く字のてっぺんくらいの高さである。
こうして「エー」の発音を示す母音記号「マーイナー(เ)」は完成だ。
「でもテーラさんの『エー』をあらわすには、マーイナーをあと一つ重ねる必要がある。マーイナーが一つ(เ)の『エー』とマーイナーが二つ(แ)の『エー』は微妙に発音が違うからな」
そう言って俺はすでに書いたマーイナー(เ)の右に別のマーイナー(เ)を加え、マーイナーが二つ重なったかたち(แ)をクマリーに作ってもらった。
クマリーは「助かりました!」と礼を述べ、自分の手だけで二つのマーイナー(แ)を書いた。
この記号の右横にトータオ(ต)をしるし、「テー(แต)」という文字列を完成させる。
「これでテーラさんの『テー』をあらわせました。左に記号を追加すると、とっても勇壮な感じがしますっ」
「いい感性だね~。でも、まだだよお」
テーラさんが自分のマフラーと首を左右に振る。
「さらに『声調記号』をトータオの上に付け加えなきゃあ」
「声調記号……どこかで聞いたような……? あ、スープパンさんが言ってました!」
「おお、すでに学習していたとはやるじゃあないか、ウォーウェーン・クマリ~。声の出し方が通常のものとは異なる場合、声調記号を付加する必要があるのさ~。ぼくの名前では『マーイエーク(–่)』をトータオ(ต)の右上に書くんだあ」
この流れを受け、俺はまたまたクマリーの手に手をかぶせて「マーイエーク(–่)」を書いた。
字の右上の位置に短い縦棒を引いて終わりである。
それだけで声調記号の一つ「マーイエーク(–่)」は完成する。
クマリーはトータオの右上にマーイエークをしるし、ハッとした。
「むむっ、マーイエーク(–่)って、ピンイ(–ิ)につけるフォントーン(')にかたちが似ていますねっ」
「さすがクマリー、よく気づくな」
過剰かもしれないが、クマリーのうれしそうな顔を見ていると褒めたくなる。
「ただ、フォントーン(')はピンイ(–ิ)とくっつけて使われるから、字の右上に単独の縦棒があるときは声調記号のマーイエーク(–่)と覚えておくといいよ」
「豆知識ですねっ」
そういうわけで「テー(แต)」にマーイエーク(–่)が加わり、「テー(แต่)」という文字列に修正された。
テーラさんが満足げにうなずく。
「あとは『ラ』だねえ。巻き舌じゃないローリン(ล)を使うよ~」
「はい。しかも短い『ア』の発音に近いから、さっきのヒマちゃんのときみたいに『ウィサンチャニー(ะ)』を右につければ……っ」
クマリーはさっと地面に「ラ(ละ)」の字を書いた。
これで「テーラ(แต่ละ)」という名前ができあがった。
「どこかものすごく風格のある文字ですね~」
「そう言われたのは初めてさあ」
テーラさんはうれしそうに身を揺らした。
「ときにウォーウェーン・クマリーは今回の報酬の十万バーツをなんに使うつもりなんだ~い」
「バナナですっ!」
胸を張ってクマリーは答えた。
静かに立ち上がり、テーラさんが言う。
「そりゃあいいねえ~。ぼくもバナナは好きだよお、皮が皿みたいだからねえ」
ついで俺に視線を向けた。
俺は目を細めてテーラさんをじっと見る。
「あの、わたしになにか言いたいことがあるのでしたらうかがいますが」
「トータハーン・アーティット。なんで君はぼくに対してだけそんな言葉づかいなのかなあ」
「い……いえ、なんとなくテーラさんには礼儀を尽くしたい感じがしまして。けっしてテーラさんに距離を感じているとかそういうわけではありません。それともタメ口がいいでしょうか」
「自分の話したいように話していいんだよお~」
「ではこのままで」
「悪くないねえ、こういう関係も」
愉快そうに笑ってテーラさんは後ろに下がった。
* *
そしてテーラさんに続いてルディが進み出る。
だがルディはクマリーに自分の名前を書いてもらう前に、シアムの本拠地があった岩場の地図を全員から回収した。
「痕跡はできる限り残すべきじゃないからね」
もともとルディのミツバチが作成した地図である。
俺は炎の兵隊を呼び出し、バナナの皮と一緒に地図の束を燃やしつくした。
焼けるとき、ハチミツの焦げたにおいがわずかに漂った。
ポープン(ผ)の文字保有者であるルディが、さらに左にずれたクマリーの前でひざをつく。
「クマリー、僕の名前の『ル』は巻き舌の『ル』なんだ」
「ということは、プリアさんのロールア(ร)を使うんですねっ」
「いいや、子音字とは別の記号を用いる。……アーティット」
ルディにも言われたので、俺は再三クマリーの手と共にルディの「ル」を書く。
トゥアムのトートゥン(ถ)の右下の線をもっと下に引っ張ればいい。
できたのは、巻き舌のルをあらわす文字(ฤ)だ。
「俺もこの字の正式名称は知らないけど、まあ『トゥアル(ルの文字)』とでも呼べばいいんじゃないか」
「トートゥンとすごく似ているのに違う字なんですね~。やっぱりおもしろいですっ!」
クマリーが自分の右手だけでトゥアル(ฤ)をしるす。
「次はルディさんの『ディ』ですか。『イー』をあらわすためにピンイ(–ิ)とフォントーン(')を使用するのは理解できますけど、『ダ・ディ・ドゥ・デ・ド』の子音字は今までに出てこなかったような……?」
「そうだな、ここで君がまだ学んでいない文字が出てくる。だから約束どおり俺が補助する」
「お兄さん、お願いですっ」
クマリーの右手の甲が俺の右手の平にふれる。
書くのはドーデック(ด)という子音字だ。
だがそれだけをトゥアル(ฤ)の右横に加え、母音記号はクマリーに任せる。
クマリーはドーデックにピンイとフォントーンを付加し、「ディ(ดี)」の字を作った。
こうしてルディ(ฤดี)という名前が地面に書かれた。
「ありがとうございました、ルディさん! なんか詩的な感じがする名前です」
「本来のルディの意味は『心』だからね」
しっとりとした声でルディがつぶやいた。
ここでクマリーが彼のキリッとした瞳をのぞき込む。
「よければいつかルディさんの養蜂も見学させてくださいっ」
「そのときは歓迎するよ。おいしいハチミツを用意してね」
ついでルディは俺に近寄って耳打ちする。
「アーティット。ヨムのことなんだけど」
右耳に彼のしっとりとした声が入りこんでくる。
「村に現れたヨムはニセモノだった。センセーによって動きを封じられていたヨムのニセモノは、夜明け前に僕のミツバチの前でガラスビンのように砕け散った。そしてレックから聞いたけど、ヨムは僕の裏切りを示唆したらしいね」
「ああ」
俺は背中を丸めて答える。
「もちろんヨムが俺たちを混乱させるために適当なことを言っただけなのは分かっている」
「ありがとう、信頼してくれて」
口を俺の耳から離し、ルディが微笑する。
「でもこのままにしておくのも嫌だから、僕はこのあとホーノックフーク(ฮ)の図書館塔に行って身の潔白を証明してもらうつもりだよ。それでいいと思うかい?」
「もちろん。君の納得するようにやったらいい。俺もジャムークに疑われたときホーノックフークを頼ったわけだしな」
「ふふ……そうかい。じゃ、そうするよ」
ほおからハチミツをにじませつつ、ルディがきびすを返す。
「どうもありがとう。君と話せて、とてもスッキリできた」
* *
ルディの次にクマリーの前にやってきたのは、逆立ち状態のカヤンだった。
トープータオ(ฒ)の文字保有者であるカヤンが両腕を曲げてクマリーと目線の高さを合わせる。
「クマリー、おまえも今回の作戦でがんばってくれたな。あらためて感謝する」
ねぎらったあと、ドスの利いた普段の声を限りなく抑えて続ける。
「さてわたしの名前だが、おそらくクマリーのまだ知らない文字を最初に使うことになる」
「そうですか……気を引き締めます……っ」
クマリーがつばを飲む。
俺は彼女の右手を取ってコーカイ(ข)の文字を書いた。
正式にクマリーがこの文字を学ぶのはその保有者に会ったときなので、詳しい説明は省く。
クマリーが俺に礼を言ってから右に文字を追加する。
「音からしてカヤンさんの『ヤ』はナーグルアさんのヨーヤック(ย)を使うんですよねっ」
「そのとおりだ」
カヤンが優しく首肯した。
喜んだクマリーはさらに予想する。
「このヤは短い『ア』の音を含んでいます。つまりヒマちゃんやテーラさんの名前にもある『ウィサンチャニー(ะ)』の出番ですね!」
「いい線いってるが、惜しいなクマリー」
カヤンが左手であごをなでる。
「確かに短い『ア』の音ってのは合ってる。だが後ろに別の子音がつく場合、ウィサンチャニー(ะ)を右に添えずに別の記号を字の右上に加えることになる。それをマーイハンアーガート(–ั)と言う。……アーティット」
「分かった」
やはり俺はこの流れに乗り、クマリーの手をそっと取って記号をしるす。
字の右上に小さな丸を反時計回りで書き、その下から右に向かって線を突き出す。
そのまま持ち上げ、丸のてっぺんと同じくらいの高さでとめる。
これで後ろに子音字があるときに「ア」の音をあらわす母音記号「マーイハンアーガート(–ั)」の完成だ。
クマリーがヨーヤック(ย)の右上に「マーイハンアーガート(–ั)」を加えて「ヤ(ยั)」の字を作る。
「あ、クマリー、気づきましたよ~。ウィサンチャニー(ะ)のかたっぽが右上に移動してマーイハンアーガート(–ั)になっているんですね」
続いて右に「ン」を示すノーヌー(น)を書く。
こうして「カヤン(ขยัน)」という名前が灰色の地面に刻み込まれた。
「感謝します、カヤンさん。文字の組み合わせがとてもきっちりしていて、まるで名前そのものがカヤンさんの立派な面をあらわしているようです」
「言われると悪い気はしねえな」
カヤンがあらためて両手を地につけてニヤリとする。
「それと忘れていたが、クマリーの十万バーツは保護者のアーティットの口座に振り込まれることになっている」
ここで曲げていた両腕を伸ばし、若草色の視線を俺に突き刺す。
「……アーティット。わたしはすでにレックにも同様の質問をしたが、おまえ……あらためて粗ビン野郎をどう思った」
「ヨムか。直接戦った感想としては」
彼の乳白色の髪を思い出しながら俺は返答した。
「得体の知れないようでいて、本当はもっと単純なやつじゃないかと思った」
沈黙するカヤンへと言葉を続ける。
「あいつはレックも俺も殺そうとしていた。いや、おそらく文字を奪おうとしていたな。なんらかの明確な目的があると見ていい。ホーノックフーク暗殺をあなたに持ちかけたのも、シアムを連れ去ったのも、ミーを資金源にしようとしたのも……彼なりの願いをかなえるためじゃないかと俺は感じた」
「それはおまえの」
カヤンが息をつき、問う。
「兵隊としての勘か」
「トータハーン(ท)としての勘だ」
そう答えた俺を見て、カヤンが表情を崩した。
両手を地面に置いたまま体の向きを転換し、つぶやく。
「なら参考にせにゃあな」
* *
「さてオメー、あとがつかえてんだから、もっとテンポよくいこうぜ~」
しわがれた声を発してユアユがクマリーの前でひざをつく。
トータオ(ต)の文字保有者であるユアユが胸部の鎧をコツコツたたいてクマリーに名前を書くよう促す。
「ウォーウェーン(ว)よお~。オメー、文字保有者の本名を書くと対象に力を与えることができるようになったんだよなあ。だったら今のうちにわたしらの本名を覚えてもらうのも有意義ってわけじゃねえか。これからヨムたちと本格的に戦うかもしんねえしなあ」
「さすが亀さんっ。クマリーも、もっと頼れるピーになってみせますっ!」
ついでクマリーはユアユの名前を書こうとしたものの、右手をとめる。
「あの……本当にすみません。亀さんの本名はなんでしたっけ」
「しょうがねえやつだなオメー、ユアユだよユアユ」
「ありがとうございます。ユアユさんだから最初と最後の『ユ』でヨーヤック(ย)を使うようですね」
「まあな、だがよお、最初の『ユア』に含まれる『ウア』という母音をあらわすには『マーイハンアーガート(–ั)』とオメーのウォーウェーン(ว)を組み合わせる必要があるんだぜ。トータハーン(ท)、教えてやんな」
そう言われることを予想していた俺はクマリーの右手に右手を重ねてマーイハンアーガート(–ั)とウォーウェーン(ว)を並べて書いて見せた。
このかたち(–ัว)を示しつつ、クマリーに説明する。
「子音字の右上のマーイハンアーガートに加えてウォーウェーンがすぐ左にある場合、発音は『ア』じゃなくて『ウア』になるんだ。このときウォーウェーンは母音記号のようにあつかわれる」
「なるほど、亀さん――ユアユさんのユアの部分をそうしてあらわすんですねっ」
うなずいたクマリーが自分でヨーヤック(ย)とマーイハンアーガート(–ั)とウォーウェーン(ว)を地面に書き、「ユア(ยัว)」の字を作った。
ユアユはうなずきを返してまだ足りない部分を教える。
「スジがいいじゃあねえか。しかしユアユという言葉の声の出し方を示すには、ヨーヤックの右上に声調記号の『マーイエーク(–่)』を加えなきゃいけねえのさ。すでに母音記号が頭についているときはその上に書くことになる」
「分かりやすくて助かりますっ」
クマリーは「ユア(ยัว)」に「マーイエーク(–่)」を追加し、書き直したもの(ยั่ว)を俺たちに見せた。
「残るは最後の『ユ』ですね。これは短い『ウ』の発音を含んでいるから――」
どうやらクマリー(กุมารี)は自分の名前の「ク(กุ)」を表記するときに使った母音記号をちゃんと覚えていたようだ。
「ここはヨーヤックの右下に『ティーンイアット(◌ุ)』を加える場面っ!」
こうしてユアユ(ยั่วยุ)という名前も完成した。
「ちょっと対称的で不思議な字ですね。ミステリアスで魅力的な亀さんにふさわしい名前だと思います」
「わたしもそう思うぜ~」
ユアユは後頭部に両手を添えて首を回した。
「しかしクマリー、オメー……字を書くごとに書くのがどんどん速くなっている感じがするな。はたから見ても気持ちいいっつーかよお~。その調子でがんばんな!」
「はいっ、応援感謝ですっ!」
クマリーが手を合わせて礼をする。
ユアユは小さく笑ってその場を去ろうとした。
俺はそんな彼女を呼びとめ、小声で言う。
「ユアユ、本当にありがとう」
「あん? クマリーに名前を書いてもらったのはオメーのためじゃねーんだが」
「君の占いのほうだよ。俺とレックに凶兆が出ているとユアユが教えてくれたから油断せずにヨムとも戦えた。それに、ミーに付着していた君の鎧のカケラが俺の眉間に当たったせいだろうけど、おかげで限りなく引き延ばされた時間のなかで『望まない未来』のビジョンが見えた」
「そんなことがあったのか。わたしの力がそのカケラに反映されていたんだろうな」
「あれがなかったら、俺はレックを見殺しにしていたと思う」
「ちげえよ、トータハーン。わたしじゃねえ。オメーが仲間を守ったんだ」
左こぶしでユアユが俺の胸をたたいた。
「運命に釣り上げられそうになったら逃げるのも手ってわたしは言ったよなあ。だがオメーは逃げなかったな。立ち向かったな。それでいいんだ。わたしも占った甲斐があったってもんだぜ」
「そうか、それでよかったんだな」
俺は左こぶしをユアユのこぶしに軽く当てた。
「ただあと一つ気になるんだが、どうしてユアユはレックの凶兆を本人じゃなくて俺に伝えたんだ」
「そりゃオメー」
ユアユがこぶしを引っ込め、とくさ色の髪をかき上げる。
「わたしも知らねーっての。あの場はノリでオメーに言っただけさ」
* *
ユアユの次はトゥアムがクマリーの前に来た。
トートゥン(ถ)の文字保有者であるトゥアムがひざを曲げ、膝行でクマリーに近づく。
「やあやあ、クマリーくん。みなの衆の名前を順調に書いているようだね」
これまでクマリーが書いた地面の名前のほうに目を向け、しみじみと言う。
「母音記号もたくさん覚えたようだし、成長いちじるしいことだ」
「ありがとうございます、トゥアムさんの名前も書きますよ~。息を出す『トゥ』だからトープータオ(ฒ)か、トータハーン(ท)……あるいはご自身のトートゥン(ถ)あたりを使いそうですね」
「わたしの『トゥ』はアーティットくんのトータハーン(ท)を使用するのだよ」
トゥアムが上体を正面にかたむける。
「そしてトゥアムの『ウア』の部分は先ほどの『ユアユ(ยั่วยุ)』くんの『ウア(–ัว)』と同じように表記するとクマリーくんは思っているのではないかね」
「むっ、その言い方は――違うというパターンですねっ!」
「ご名答。母音の発音自体は同じなのだが、『ウア』という音をあらわすときは『マーイハンアーガート(–ั)』を省いてウォーウェーン(ว)だけを右にくっつける場合があるのだよ。ユアユくんの名前はマーイハンアーガートをつけなければならない。一方、わたしのトゥアムにはマーイハンアーガートをつけないのさ」
「お……奥深すぎますっ。本当に文字っておもしろいんですね~」
感心しながらクマリーがトータハーンとウォーウェーンを並べて「トゥア(ทว)」の字を作る。
このあとトゥアムがトータハーンの右上に「マーイエーク(–่)」を加えるよう指摘したので、クマリーはそれをつけて別のかたち(ท่ว)に修正した。
残るは「ム」の部分だが、クマリーはそこにモーマー(ม)を書くと自力で見抜いた。
こうして「トゥアム(ท่วม)」という名前も完成した。
「シンプルでそれでいて深みもある、とってもいい名前ですっ」
「深みかあ。わたしも名前負けしないようにしないとね」
それからトゥアムはやはり膝行であとずさる。
「それとクマリーくん。すでに言ったけど、今のわたしは本物の体じゃなくて袋が変形したものだ。本来であれば本体を君の前に出すべきなのに、そうしていない。これは真摯に文字や人と向き合おうとしている君に対して失礼でもある。すまなかったね」
「そんなことはありません」
クマリーは顔を上げ、トゥアムの顔をじっと見た。
「トゥアムさんは温かいです。だから……クマリーは目の前のトゥアムさんも本物だと自信をもって断言します」
「ありがとう、君こそ温かいよ、クマリーくん」
さらにトゥアムは立ち上がって俺に話しかけてきた。
「アーティットくん。参考までに聞きたいのだが、わたしは上から目線で『偉そう』か?」
「俺はとくに気にならないし君の性格もいいと思うけど、見た目のわりに自信たっぷりな感じはするな」
「そこがシアムくんの反感を買ったのかもしれないね。今後は反省しないと」
「やっぱりシアムが気になるんだな」
「当然だよ。わたしのなかで一から育ててあげるって言ったのもウソじゃないし」
トゥアムは息をつき、オーバーオールの隙間から育児嚢をのぞかせた。
「なにより名前が似ているからね」
* *
そしてレモン色の髪と瞳を持つチュアモーンがやってくる。
尊大な声でクマリーに声をかける。
「はっ、クマリーちゃん。なかなか調子よさそうじゃねーの」
コーラカン(ฆ)の文字保有者であるチュアモーンが目の前であぐらをかき、左右の耳とえりの前面の鐘を鳴らす。
「だが俺様の名前を書けるかな?」
「やってみせます」
挑発的なチュアモーンに対し、クマリーが燃える。
「でもチュの子音字は分かりません! というわけでお兄さんに頼ります」
「くく……素直じゃねーか」
チュアモーンが右手で顔面を押さえ、笑いをこらえる。
ともあれ俺は彼の名前の最初の文字であるチョーチャーン(ช)を、クマリーの手を取って地面に書いた。
クマリーが律儀に礼をする。
「本当に何度感謝しても足りません。お兄さん、ありがとうのありがとうです」
「どういたしましてのどういたしまして」
思わず彼女に合わせて俺は返答していた。
「俺もクマリーが字を書くところを見るのは楽しいからな」
「クマリーもお兄さんに見守られながら字を書くのが最高に楽しいです」
「アーティット、クマリーちゃん。俺様に見せつけてくれるとはいい度胸じゃねえか」
チュアモーンは笑いながら自分の名前を書くよう求める。
俺と共にクマリーは謝り、目の前の彼に確認する。
「チュアさんの『ウア』は亀さん――ユアユ(ยั่วยุ)さんパターンですか。それともトゥアム(ท่วม)さんパターンですか」
「いいところに目をつけるもんだぜ。俺様のチュアはユアユと同じでマーイハンアーガート(–ั)をつけて表記するのよ。おっと、『マーイエーク(–่)』も忘れずにな」
「分かりました!」
クマリーは元気よく首を縦に振り、教えられたとおりに「チュア(ชั่ว)」の字を書いた。
「あとは『オー』という音をどうあらわすかですね。お兄さんっ、またまた頼みます!」
「チュアモーンの『モー』の母音だな。『マーイオー(โ)』を使う。母音をあらわしたい字の左側につけるんだ」
俺はクマリーの右手に手をかぶせる。
まず下に時計回りで小さな丸を書いてその左側から線をまっすぐ持ち上げる。
ここまではマーイナー(เ)の書き順と一緒だが、マーイオー(โ)を書くときは隣の字のてっぺんよりも高い場所まで線を引っ張る。
そして線を左に持っていく。
さらに、やや上に出っ張る弧を右に寄せながら書き、最後は少し跳ね上げる。
これで「オー」の音をあらわす母音記号「マーイオー(โ)」の書き順が完了する。
続いてクマリーが自分でその「マーイオー(โ)」を「チュア(ชั่ว)」の右横に書き、さらにモーマー(ม)を加える。「ン」を示す「ンゴーングー(ง)」も書き足す。
こうして「チュアモーン(ชั่วโมง)」の名前もクマリーによって灰色の地面にしるされた。
「躍動感のある並びです。真ん中の『マーイオー(โ)』がとてもいい味を出しています。見た目もなにもかも、とってもかっこいい名前です!」
「クマリーちゃんみたいなかわい子ちゃんにそう言われたら勘違いしちまうぜ」
からかうように、それでいて満更でもなさそうにチュアモーンが返す。
「そういやクマリーちゃん、鐘のイヤリングの使用感はどんなもんよ」
「すこぶる良好ですっ! 遠くのみなさんとも会話できるおかげで、とても頼もしい感じがします」
「そりゃあよかった。ま、俺様が開発にたずさわったんだから当然だがな」
チュアモーンがあぐらを崩し、立とうとする。
俺は彼にも声をかける。
「……チュアモーン。イヤリングには俺も助けられた。ヨムと戦ったときも、イヤリングで仲間と連絡をとって応援を呼ばなかったら俺たちはヨムに殺されていた可能性がある。やつが撤退したのは駆けつけたテーラさんの皿が見えたためでもあるわけだしな。共同開発をしたガムランにも礼を言いたい」
「ガムランの野郎はスーンの一件でかなり参ってたからな。おまえが感謝してくれるなら野郎も報われるってもんだ」
「もちろん俺は君にも感謝している。君は俺たちがここに来たとき自分がヒマだと言ったけど、それは君がみんなのことを考えて急ピッチで鐘の開発を進めてくれたからなんだろう? だからありがとう」
「はっ、アーティット。そりゃないぜ」
服についた土を払い、チュアモーンが左目を閉じる。
「そういう照れることを直接言うもんじゃねえよチクショウ」
* *
ともあれこれでヒマ(หิมะ)、テーラ(แต่ละ)さん、ルディ(ฤดี)、カヤン(ขยัน)、ユアユ(ยั่วยุ)、トゥアム(ท่วม)、チュアモーン(ชั่วโมง)の七人の名前が地面に書かれた。
かなり時間を使ったような気もするが、雲の向こうにある太陽は思ったよりも動いていない。
次回「84.誰かの名前を書きとめる(จดชื่อของใคร)【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ウィサンチャニー(วิสรรชนีย์)→「ア」の母音をあらわす記号(ะ)
マーイナー(ไม้หน้า)→「エー」の母音をあらわす記号(เ)/二つ重なった形(แ)だと少し違う音の「エー」になります。また、この母音記号に限った話ではありませんが別の記号とセットになってまったく違う母音をあらわす場合もあるようなので注意したいですね~。
トゥアル(ตัวรึ)→巻き舌の「ル」をあらわす記号(ฤ)/発音としてはロールア(ร)すなわち英語のRと一緒のようです。トートゥン(ถ)にすごく似ていますが右下の長さで判別できます。
マーイハンアーガート(ไม้หันอากาศ)→「ア」の母音をあらわす記号(–ั)/ウィサンチャニーと同じ発音ですが後ろに子音が続く場合はこのマーイハンアーガートのほうを用いるようです。
マーイオー(ไม้โอ)→「オー」の母音をあらわす記号(โ)




