82.誰かの名前を書きとめる(จดชื่อของใคร)【前編】
人面ムカデのコピー、そのオリジナル、シアム、そしてヨムとの戦いが終わったあと俺は眠ってしまっていた。
目が覚めたとき、最初に感じたのは体を包む心地いい弾力だった。
人肌のような温かさもある。俺はひざを曲げ、自分の身を両腕でかかえた状態でまどろみのなかにいた。
まぶたをあけると、上からうっすらと光が差し込んだ。
肌の色をした布団のようなものが前後と真下から俺を挟んでいる。
ついで籠もったような少女の声が真上から落ちてくる。
「おはよう、アーティットくん。わたしのお腹のなかは気持ちよかったかね」
桜色の髪と瞳を持つトゥアムがこまめにまばたきしながら俺を見下ろしていた。
彼女の顔と俺とのあいだには黒い布のかかった壁が立ちはだかっている。
壁が手前に突き出しているため、トゥアムの顔の全体は見えない。
しかし彼女の顔が妙に大きいのが気になる。
また、後ろの布団のへりに親指のようなものが二つ引っかかっている。正面の布団には丸いくぼみと赤くて大きなトートゥン(ถ)の文字が確認できる。
「……ともあれ疲労が抜けて体がラクになっているな。トゥアムが癒やしてくれたのか。ありがとう」
「マイペンライ。じゃ、わたしのなかから出すとしようか」
トゥアムの声と共に壁の親指が動き、俺に近づく。
親指に続いて人差し指や小指も姿を見せる。
巨大な両手が俺を抱きかかえる。
左手は臀部に、右手は背中に添えられた。そのまま静かに持ち上げる。
布団のようなものから出された俺は灰色の地面にそっと置かれた。
手が離れると、視界の左側にある赤茶の岩が縮み始めた。それに伴い、土が臀部と靴裏をくすぐってきた。
感覚の変化が終わったあと、立ち上がる。
正面には黒いオーバーオールスカートを着たトゥアムがいた。
みぞおちの下の切れ目に両手を突っ込んで立っている。
顔は通常のサイズに戻ったようだ。
「いや、戻ったのは俺か」
「起きる様子のなかった君を回復させるべくわたしの育児嚢に入れていたのだよ。そのあいだ、君のサイズが育児嚢に合わせて縮んでいたというわけさ」
どうやら壁はトゥアムの胸部、黒い布はオーバーオールの生地、俺を挟んでいた布団は腹部の袋状の育児嚢、なかの丸いくぼみはへそだったらしい。
「勝手にわたしのなかに入れてしまってすまないね」
「そんなことはないよ。助かった、本当にありがとう」
「――お兄さんっ」
ここで、ふにゃふにゃした声を響かせながら右からクマリーが飛んできた。
バナナの房が重なったような茶髪を肩にこすりつけてくる。
「お目覚めですね~。クマリー、お兄さんが元気そうでうれしいですっ」
「感謝するがいいよ」
トゥアムがきびすを返しながら言った。
「クマリーくんはアーティットくんが眠っているあいだ、君のトータハーン(ท)や名前を宙に書いて元気づけようとしていたからね」
「そうか、クマリー……ありがとう」
くもった空の下で、俺はクマリーの茶色の瞳に視線をやった。
彼女は少し垂れた目を細め、その丸っこい顔をほんのり赤らめる。
「えへへ……照れちゃいますっ」
髪をこすりつけるのをやめ、斜め上の俺を見る。
そのとき、ドスの利いた声が右前から届いた。
「起きたか、アーティット」
若草色の髪と瞳を持つカヤンがこちらに腹部を向けた逆立ちの姿勢で右足を揺らす。
「今から作戦の総括をおこなう。クマリーとこっちに来い」
「ああ」
右横に浮くクマリーを連れ、俺は早足でカヤンに近寄る。
場所はシアムのいた岩場の東の外縁のようで、灰色の地面の左側に赤茶の岩壁が見える。視界の右奥には焦げ茶のジャンク船が小さく映っている。
そして今回の作戦に参加した文字保有者たちがカヤンを取り巻くように半円の弧になって並んでいた。
左から右にかけて、先ほど列に戻ったトゥアム、ンゴットガーム、プラトゥ、ロップ、センセー、ユアユ、チュアモーン、レック、ミー、テーラさん、ルディ、ヒマ、ナーグルアの十三人が立っている。
ンゴットガームに寄生しているフアロの姿はない。また、俺たちを運んでくれたジョットマーイもこの場にはいないようだ。
俺とクマリーはナーグルアの右隣に移動した。
カヤンがうなずき、スリットのあるあずき色のロングスカートをなびかせる。
「今回の我々の作戦目的は、近隣の村人全員を殺した精霊――人面ムカデの鎮静化だった。そしておまえらの働きにより、人面ムカデを複製していたコピー元は消滅した」
ヒマによってグラスーとしての正体をさらしたオリジナルの人面ムカデは最後にシアムの前に現れて雲散霧消した。
その光景を直接見たのはこのなかで俺とレックだけだが、カヤンの言葉から察するにレックはヨムとの戦闘時に起こった出来事をすでに報告しているようだ。
「コピー元がいなくなったことにより、あたりにいた人面ムカデのコピーもすべて空気に溶けるように消えたわけだ」
「うん、僕のミツバチが確認している」
黄土色の髪と瞳を持つルディがしっとりとした声で言った。
「動かない人面ムカデのコピーが地下室に大量にいたから、『外部から手を加えない限りコピーは消滅しない』と僕は思っていたんだけど……どうやらオリジナルからエネルギーの供給を受けられなくなったときもコピーはその体を維持できなくなるようだね」
左ほおのポープン(ผ)をなでながら付け加える。
「ちなみに地下室に人面ムカデが積まれていたのは、いざというときに彼女たちの体積を吸ってコピー元を巨大化させるためだったんだろうね」
「ま、外敵に対処するためのシアムの策だったと見るしかねえな」
カヤンがルディの言葉を引き取り、続ける。
「ともあれ人面ムカデの消滅により、このあたりにいた凶暴なピーの鎮静化は完了した。つまり作戦は成功だ。おまえら、よくやった。心から礼を言う」
ここでカヤンが向かって右に側転し、逆立ちではなく普通に立った。
みんなに手を合わせたのち、また側転して逆立ちに戻る。
「とはいえ被害を受けた村とシアムのいた岩場周辺は安全が確認できるまでしばらく封鎖されたままになる」
当然の処置だと俺も思う。
人面ムカデが全滅したといっても周辺にほかの凶暴なピーがいないと断定することはまだできないし、岩場の地下には空洞もあるので不用意に誰かが進入すれば危険である。
「まあそれはわたしらじゃなくて国に属する化け物係の仕事だがな」
「ヨムに連れ去られたシアムはどうする」
右手をわずかに挙げて俺は聞いた。
カヤンは少し間を置いて答える。
「残念だが粗ビン野郎の動向がつかめない以上、今はどうにもできねえな。少なくとも、今後は粗ビン野郎に加えてシアムも警戒対象に入る」
ここでカヤンがひと息つき、ドスの利いた声をやや抑える。
「さて、あとでラートリーやほかの文字保有者にも今回の作戦成功の件を伝えるとして、最後にわたしからおまえらに言いたいことがある」
若草色の瞳が逆さのまま細められた。
「そもそも今回の作戦は誰のためのものか分かりにくかっただろう。作戦開始前から村人は全滅していた。彼らとおまえらとのあいだに接点があったわけでもない。よっておまえらに『人面ムカデを倒してくれてありがとう』と感謝してくれるヤツはいねえ。今さら村人たちが帰ってくるわけでもねえ。人が死んでいるのに作戦成功を喜ぶのは不謹慎でもあるだろう。それでも……おまえらのおかげで、これ以上人面ムカデに噛み殺される犠牲者を出さずに済んだんだ」
今回の作戦におけるリーダーとして、カヤンが一人一人に視線をやる。
「だから――誇れ。自分たちは立派なことを成し遂げたってな」
「はいっ!」
一番に返事をしたのはクマリーだった。
ほかのみんなも俺もカヤンにうなずきを返した。
そしてくろがね色の髪と瞳を持つテーラさんがねっとりとした声で口をひらく。
「しかしトープータオ・カヤ~ン。作戦の総括も大事ですがあ、同じくらい重要なことを忘れていませんかねえ~」
「なんかあったか?」
カヤンがとぼけた。
テーラさんは自身の白いマフラーに右手をすべらせながら言葉をかぶせる。
「十万バーツですよお」
「もちろん報酬は支払われるさ、テーラ」
歯を見せ、カヤンが両足をすり合わせる。
「この場にいる十六人全員がそれぞれ一律で十万バーツを受け取れる。参加したタイミングは関係ない。みんながんばってしかも無事でいてくれたから、誠実な化け物係が五日以内に報酬を銀行口座に振り込んでくれるだろうよ。ただし現金で受け取りたい場合はあとでわたしに言ってくれ」
「トープータオ(ฒ)……オメー、わたしにも払うつもりかよ」
とくさ色の髪と瞳を持つユアユがしわがれた声を出す。
「わたしはオメーの試験も受けてねえんだぜ」
「確かに亀ちゃんの言うとおりならアタシももらう資格ないかも」
続いて白の交じった髪と瞳を持つプラトゥが酒焼けしたような声と共に首をかしげた。
対するカヤンは右手を地面から離し、なだめるように返す。
「ユアユ、プラトゥ。もちろん鎮静化に貢献してくれたおまえら二人にも同額を払うさ。今回、化け物係とはそういう約束を交わしていたからな。今さら額に差を設けることもできねえってわけだ。それに……これはラートリーを警戒してわたしらと会うことを制限している化け物係なりの『ありがとう』でもあるんだよ」
「そういうことならポーパーン(พ)と一緒にありがたくもらっとくかー」
ユアユが胸部の鎧を軽くたたきつつ、ほほえんだ。
プラトゥも頭にかぶった供物台を少し回して表情を緩ませる。
「んじゃ、作戦も終わったしジャンク船ちゃんの船に乗せてもらお~っと。帰りはタダで乗船できそうだし」
「まあ、おまえらには意地でもジャンク船で帰ってもらう必要があるからな」
後ろに小さく見える焦げ茶の船体に目をやってカヤンが言う。
「わたしからジョットマーイにチケットの回数を消費させずにプラトゥを乗せてくれと頼んでいる。化け物係との契約上、村の位置をおまえらに知られるわけにはいかないんでな。今回のことも文字保有者以外の誰にも他言すんじゃねえぞ」
「了解」
カヤンの言葉に返事をしたあと、俺たちはジャンク船のほうにつま先を向けた。
このタイミングでクマリーが声を上げる。
「みなさんっ。まだ時間はあるでしょうかっ」
彼女の質問を耳にした俺たちは足をとめた。
「戦いも終わりましたし、クマリーは共に戦ったみなさん一人一人の名前を文字にして書きたいんですっ」
そういえば決戦前に、この戦いが終わったらやりたいと言っていた。
「保有する文字だけでなく、みなさん自身を構成する文字にじかにふれたくてたまりません。イカした文字を持つイカしたみなさんに、もっと近づきたいから」
今のタイミングをのがせばこのメンバーといつ再会できるかも分からない――そんな気持ちがクマリーの心の奥にあるのだろう。
ジャンク船に乗ってから切り出すこともできたわけだが、その場合みんなの名前を書く余裕はないかもしれない。
「どうかお願いします!」
「え……それはもちろん」
みんなが振り向き、クマリーに答える。
「――ไม่ต้องเกรงใจ อยากให้จด(マイトン・グレーンジャイ ヤークハイ・ジョット)〔遠慮しないで書いてほしい〕」
次回「83.誰かの名前を書きとめる(จดชื่อของใคร)【中編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ジョット(จด)→書きとめる
チュー(ชื่อ)→名前
クライ(ใคร)→誰か/今回のタイ語のサブタイトル「จดชื่อของใคร」は「ジョット(จด)/書きとめる」+「チュー(ชื่อ)/名前」+「コーン(ของ)/○○の」+「クライ(ใคร)/誰か」の四つの単語に分けることができます。したがって意味は「誰かの名前を書きとめる」……続けて発音すると「ジョットチューコーンクライ」になりますね~。
マイトングレーンジャイ(ไม่ต้องเกรงใจ)→遠慮するな
ヤークハイ(อยากให้)→○○してほしい




