81.【ฏ】突き棒のトー・レック【その6】
向かって右にヨムはいる。
俺は左手にこぶしを作り、小声で唱えた。
「アスニバート・マット」
早口での詠唱と共に、左こぶしを俺の左脇腹に撃ち込んだ。
ジグザグの挙動を抑え、力の方向を限定する。
俺は俺自身の持ちうる最大出力によって骨と肉をきしませながら右へと超速で吹っ飛んだ。
ヨムの持つビンのノコギリのような断面がレックのトーパタック(ฏ)に当たろうとした瞬間――。
俺の体がヨムとレックのあいだにすべり込む。
その際、俺は背中でレックを後方に押した。
胴衣と上着を裂きながら、へその上をビンの断面がえぐった。
鋭い牙のような形状が右から左に熱く走る。
下部の肋骨と接触する際、ビンは小動物の鳴き声に似た音を発した。
腹部の左側がビンの断面を通り過ぎたあと、俺は勢い余って地面に跳ねて転がった。
ねばりけのある灰色の土が唇の隙間に入り、わずかに口腔がひんやりする。
ヨムはミーのビンを右ポケットに入れなおし、赤く染まったビンの断面を斜め下の俺に突き出す。
ねらいは言うまでもなく、俺の左手のトータハーン(ท)。
ユアユはレックよりも早い段階で俺に凶兆を出していた。
それはこの戦いで俺が限りなく死に近づくという予言だったのだろう。
ビンの丸く鋭い断面が左手の平に接触する。
すかさずビンは反時計回りに回転し、鮮血と共に皮をえぐり取った。
だが、はぎ取られて宙を舞う皮に文字は刻まれていなかった。
えぐり取られたのは俺の皮膚ではなく、レックのそれだったからだ。
レックは地面に転げた俺の背後から左手を伸ばして攻撃を代わりに受けたのだ。
もちろん突き棒でヨムをしりぞけるのも手だっただろう。
しかし左手の平をえぐって俺を殺したと一瞬でも思ったヨムに、わずかの隙が生じていた。
俺は白いトカゲの医者の兵隊を呼んで自分の腹部とレックの左手に自切したしっぽを当ててもらったあと、唱えた。
「ゲーンタハーン・ホーク」
赤く輝く左手の平のトータハーン(ท)から槍を引き抜く。
石突きと穂先と赤い長柄を持つ、ただの槍だ。
俺は槍を構え、向かって右から刺突を放った。
左からはレックのパタック(突き棒)がヨムに迫る。
頭上には炎の兵隊が浮き、夜に光を投げている。
ヨムはあとずさりしつつポケットからミーやシアムのビンを出して盾にしようとするも、立て続けにくりだされる突きの前にその余裕もない。
割れたビンで防御しながら少々高めの声を張り上げる。
「二対一とはいえ、こうも俺が劣勢に……!」
軽い口調は鳴りを潜め、ヨムの言葉には苛立ちがにじんでいる。
「人面ムカデとの死闘の直後のくせして、なんなんだあなたたちは!」
「【ฏ】トーパタック・レック、つかさどる字は――」
「【ท】トータハーン・アーティット、つかさどる字は――」
突きの手を緩めず、聞かれたからには名乗りを上げる。
「突き棒の」
「兵隊の」
俺は左手に槍を持ち替え、レックの右腕と共に突き出す。
「トー!」
さけんだかもつぶやいたかも分からない声が重なった。
ただし「トータハーン(ท)」の「トー」は息を出しながら、「トーパタック(ฏ)」の「トー」は息を漏らさずに発音される。
ヨムの持っていたビンが残さずコナゴナに砕ける。
キラキラした透明の破片が夜に散る。
のけぞったヨムは乳白色の瞳をぎらつかせ、両手を前に出した。
すると空中にビンが六本出現し、俺たちに口を向けて輪になるやいなや時計回りを始めた。
「ดื่ม(飲め!)」
すべてのビンの口からけたたましい音と共に弾丸のような水が発射される。
途切れがないため槍にも見える。
高圧力の水の槍がうねりながら眼前に近づく。偶然よぎった羽虫が水の先端にふれ、溶けるようにかき消えた。
このままであれば頭部も四肢も無事では済まない。
しかし左右によければヨムに隙を与えることになる。
ここで――。
レックが俺にしがみついてきた。
驚きつつも、俺もとっさにレックにしがみつく。
互いの胸部を接触させたうえで宙に浮く。
足を真後ろに、頭頂部をヨムに向ける。タハーン・プルーンもその陰に隠れる。
ビンの水は俺たちを輪状に狙撃した。
身を寄せ合って空中で横になれば、その輪をくぐるようにして回避できるというわけだ。
槍と突き棒のひし形の穂先も頭頂部と同様、まっすぐヨムを指している。
俺とレックはそれぞれ相手の左肩にあごを乗せた状態で、二つの胴体で二つの柄を挟み込んだ。
手に持ったままだと敵の攻撃を食らって持ち主ごと吹き飛ばされるおそれがあった。
頭頂部から足先までをつらぬく軸を中心にして俺たちは時計回りに身をひねり、ビンから発射された水の槍すべてをかわした。
打ち合わせなしでここまでできたが、そこまで不思議な気もしない。
お互いに完全に信頼し合っている――という関係とは少し違う。
すでに俺はレックを友達と認識しているが、一般の「友達」の定義からは外れるのだろう。過ごした時間や交わした会話がとくに多いわけでもない。
ただ俺とレックの過去は似ている。
俺はずっと兵隊として生きてきた。レックはひたすら犯罪者を突いてきた。
誰かとの出会いによって少し変われたという点も一致する。
どこか……そこに共鳴のようなものを感じる。
そばにいると心を突き刺される。
魂ごと、突き合いたいと思わされる。
ときにその共鳴は信頼や時間よりも、大きいのではないかと思う。
瞬間、俺はレックから離れた。
宙で身を横たえたまま自分の槍を右手に持つ。
「ホックリアム」
ぼたん雪の姿をした雪の兵隊を呼び出し、槍に冷気をまとわせる。
正面に向かって反時計回りに槍を回し、ヨムのまわりに浮く六本のビンを傷つけ破裂させた。
ほぼ同時にレックは沈み込み、ひし形の穂先をヨムに突き上げる。
だがヨムは新たなビンを右手に出現させ、突き棒をはじいた。
突き棒の柄がレックの手から離れ、弧をえがきながらヨムの斜め後ろに飛ぶ。
「惜しかったねえ、トーパタック(ฏ)」
「そうでもないよ」
レックの右手には、まだ突き棒の柄が握られていた。
臼のかたちの先端を持つ柄である。
それを引き戻し、唱える。
「スンヤーガート・ソムブーン!」
「二本目……いや、柄を折っていたのか」
ヨムは腹部と胸部の前にビンを移動させ、ガードする。
「対象を引き寄せる技……逆に利用させてもらうよッ!」
両手の平をビンの胴体に添え、それを勢いよくレックに押し出す。
「このまま今度こそあなたの文字といのちをはぐ!」
だがこの刹那。
ヨムの背中からなにかが突き刺さる音がした。
「が……っ」
よろめき、勢いが弱まる。
見ると、えび色の棒――いや、折れた突き棒の柄が肩甲骨の左下あたりに食い込んでいた。
銀色のひし形の穂先ではなく、折れて鋭い杭のようになった先端のほうが刺さっているようだ。
「本当に引き寄せたかったのは俺じゃなく……突き棒の片割れのほうだったのか」
「君との突き合いも楽しかったよ、ヨム」
レックはすれ違いざま、左手でヨムの背中の柄を抜いた。
「いつか万全の状態で、一対一で突き合おう」
「それは……結構だよ」
ヨムの傷口から赤が噴き出す。
さらに俺たちの後ろから、白くて丸い巨大な皿が飛んでくるのが見えた。
(テーラさんたちも到着した。もうヨムに勝ち目はない)
俺は彼のポケットからミーとシアムのビン二つを取ろうとした。
しかしヨムは俺よりも早く両手でビンをつかむ。
いったん両腕をクロスさせ、シアムのビンを向かって左に、ミーのビンを向かって右に投げ上げた。
レックは当然――ミーの詰まったビンへと走る。
当のヨムはその隙に、レックとは反対の方向に逃げる。
俺は槍を持ったままヨムへと駆け寄った。
振り向くヨムに槍を振り下ろす。
ヨムは口角を上げた。
彼とその背景が書き割りのように砕け、やや離れた場所に本体が現れる。
「俺をあんまりなめないことだね、トータハーン(ท)」
「なめるわけないだろ」
俺は静かに答えた。
「おまえにはさんざん苦汁を飲まされたからな、ビンのコー(ฃ)」
先ほどのヨムの姿に攻撃するとき、俺は槍を手放していた。
代わりに回り込むようにその斜め前方に移動していた。
そこにちょうど、本当のヨムが現れていた。
「な、読んでいたのか……!」
「なんとなくな」
俺は淡々と返し、左こぶしを赤く光らせてヨムの顔面に撃ち込んだ。
「ゲーンタハーン・ガムパン」
ペートに応急手当させた腹部の傷口が再び裂けたが、そんなことは些細なことだ。
「く……あっ!」
ヨムはもろに衝撃を受け、地面を転がった。
しかしそこに、シアムを詰めたビンも転がっていた。
そのビンをつかみ、ヨムが笑う。
「これはついてる! チョークディー(さようなら~)」
キラキラとした光と共に巨大なビンがヨムのまわりに形成される。
それが西を向いて斜めに持ち上げられ、シアムのビンを持ったヨムを大砲のようにはき出した。
大砲のようなビンはたちまち割れて砕け散った。
そうしてヨムとビン詰めのシアムが夜のかなたに消え去った。
(逃がしたか。ロップの蓋も凶暴なピーにしか反応しないからな)
ついで俺はレックのほうに目をやる。
ちょうどレックはビンをスライディングで受けとめていた。
その衝撃により、ビンが割れる。
小さくなっていたミーが大きくなり、レックにだきかかえられた。
俺はひざをついたレックに近寄り、声をかけた。
「よかったな、ミーが無事で」
「アーティット……君のおかげだよ」
レックは笑顔で応えた。
俺も同じ表情を返す。
「いや、レック。俺のほうこそ君に礼を言うよ。君がいたから、ここまで戦えたんだ」
そして西のほうに顔を向ける。
「ただ……シアムとヨムは逃がしてしまった。すまない」
「謝ることじゃないよ、アーティット」
もはや敬称をつけることなく、レックが俺の名を呼んだ。
「人面ムカデの鎮静化は達成された。それに――」
ビブラートを利かせつつ、レックが破顔する。
「誰も仲間は死んでない。それだけでオレチャンたちの大勝利だよー」
「……そうか、そうだな」
核心を突かれ、俺は小さく笑い返した。
「俺たちの勝利だな」
空を見ると、やや月光が強くなっていた。
それを眺めつつ、俺はあお向けに倒れ、目を閉じた。
次回「82.誰かの名前を書きとめる(จดชื่อของใคร)【前編】」に続く!(4月18日(土)午後7時ごろ更新)
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ドゥーム(ดื่ม)→飲む
ホックリアム(หกเหลี่ยม)→六角形
ソムブーン(สมบูรณ์)→完全な
ガムパン(กำปั้น)→こぶし
チョークディー(โชคดี)→さようなら




