80.【ฏ】突き棒のトー・レック【その5】
夕焼けの終わる瞬間、乳白色の髪と瞳を持つ若い男はうつ伏せのシアムの前でしゃがんだ。
男の黒い靴とズボンは普通のものだが、腹筋の見える黒い前開きの上着と触手のようにうねった髪は独特の見た目をしている。
右手を出して体を引きずろうとするシアムに男はほほえみ、言葉を継ぐ。
「安心してよ、俺は君を助けに来たんだから」
「君って呼ぶな……わたしはシアムだっての」
かすれた声でシアムは応じた。
男は微苦笑し、腹筋を自身の太ももに押し付ける。
「ごめんごめん。ともかく俺と一緒に逃げようか。見たところシアムはすでに死んでるっぽいし、ほかに頼れるところも……って、おや」
なにかに気づいたように男は顔を上げ、しゃがんだまま首を左右にやった。
俺は男がシアムと話しているあいだにその左後ろに移動していた。レックも男の右後ろに立っている。
炎の兵隊を頭上に浮かべ、乳白色の髪に影を落とす。
「……ヨム」
男の本名を呼んで、俺はゆっくりと聞く。
「次はシアムを利用するつもりなのか」
「これはこれはトータハーン(ท)。元気そうだね」
ヨムは陽気に答え、隣のレックにも視線を向けた。
「トーパタック(ฏ)もお疲れさんっと」
「あなたがヨムさんですか……」
正面にいるミーがにび色の瞳をわずかに緑に光らせた。
体を揺らし、ヨムがミーに視線を返す。
「そうだよ、ソースーア(ส)。もしかしてあなたたちもシアムに用があるのかな」
「はい。村を壊滅させた人面ムカデはもう抑えました。あとはシアムちゃんのことが気がかりなんです」
ミーはうつ伏せのシアムのうなじを見下ろした。
先ほどの逃亡の際に力をすべて使い果たしてしまったようで、現在シアムから赤黒い炎は出ていない。
「でもヨムさん……あなたは、どうしてここにいるんです。センセーによって動きを封じられたあと、村でずっと寝たままだと聞いていましたが」
「抜け穴があったのさ」
地面に腰を下ろし、ヨムが立てた両ひざをかかえる。
「俺の監視を務めていたミツバチの使役者……ポープン(ผ)が俺と通じていたとしたら?」
「ウソだな」
右手で突き棒を立てたままレックが反論する。
「クン・ルディが裏切るわけがない。つまり昨夜村に現れた君はコークアット(ฃ)の力で作られたニセモノだった……というだけの話だろう? その可能性をオレチャンたちが想定していないとでも思ったのか」
「レックの考えには俺も同意する。ヨムがビンに自分の姿を映すことができるのは分かっているし」
ヨムの挙動を観察しながら俺は言葉を引き取った。
「本当におまえがルディと協力関係にあるのなら、みずからそれをバラすなんてあり得ない。隠していたほうがメリットが大きいしな。まあどちらにしてもあとでホーノックフーク(ฮ)に見てもらえばハッキリする」
「なるほどね、本物の俺が乱入してくることも織り込み済みってことかあ。ただ……完全に読んでいたわけじゃない」
舌を出し、ヨムはその表面に刻まれた赤黒いコークアット(ฃ)をのぞかせた。
「だって俺が現れることにあなたたちが確信を持っていたなら、弱った仲間をわざわざここまで連れてこなかったはずでしょ?」
その言葉が終わる前に、両ひざをかかえていたヨムが同じ体勢のまま前方へと跳躍した。
俺は右手で、レックは左手でヨムの肩をつかむ。
が、俺たちがつかんだのは黒い上着だけだった。
ヨム本体は裸体になった上半身の左にシアムをかかえ、ミーの真正面に着地する。
同時にミーの頭上の空間が大きくキラキラ輝いた。
輝きが凝集し、逆さまの透明なビンをかたどる。
ついで長さ二メートを超えるビンが落ち、ミーをなかに閉じ込めた。
当のミーは直前までヨムに左腕を押さえられていたため逃げられなかったのだ。
たちまちビンは収縮し、ヨムの前腕部と同等の長さになった。
なかにいるミーもビンに合わせて小さくなっている。
ヨムはそれを逆手で持ち上げ、底を下に向けた。ミーの頭部もそちらを向く。
「うわ、あっさり。人面ムカデとの戦いで相当弱ってたっぽいなあ」
ビン詰め状態のミーはうつろなにび色の目をまばたきすらさせずあけっぱなしにしている。
ギチギチに詰まっており、抵抗もできないようだ。
そんな彼女をヨムがためつすがめつ観察する。
「知ってるよ、この子ってシーフーハーターなんでしょ? つまり金を排出するわけだよねえ……こりゃ資金源にうってつけだ」
ここでヨムが地面を蹴り、向かって左後ろに後退する。
言葉なくレックが踏み込み、ひし形の先端でヨムを突こうとしたからだ。
レックの追撃は終わらない。
反時計回りの弧をえがいて逃げるヨムに刺突をくりだし続ける。
日が落ちたとはいえ、今のところ月の光は弱い。
俺はレックにタハーン・プルーンを同行させたうえで右耳に鐘のイヤリングを出し、トープータオ(ฒ)の字を書いてカヤンに小声で連絡を入れる。
「こちらアーティット。シアムを追って西に向かったところヨムと遭遇した。村で会ったヨムはニセモノだったらしい。現在ミーもシアムも捕獲されている。応援を頼む」
『了解した。すぐに粗ビン野郎のもとに行く』
カヤンのドスの利いた声により、鐘が静かに震えた。
通信を切ってから俺は音を立てずに進み、ヨムの背後に回る。
レックと交戦しているヨムの後ろから飛び出し、羽交い締めにしようとした。
だがヨムはこちらの動きを読んでいたようで、俺の接近と同時に真上へとジャンプした。
間髪いれずレックの穂先が斜め上に飛ぶ。
刹那、ヨムは左にかかえていたシアムを前に出した。
シアムを盾にされたことで反射的にレックの突き棒がにぶる。
この隙に間合いをあけ、充分な距離ができたところでヨムは左手のシアムを揺らした。
「盾にはなるけど、さすがにかかえたままじゃ戦いにくいね」
そう言ってシアムを地面に落とす。
さらにヨムは腹這いになり、尻もちをついたシアムを遮蔽物としてその身を隠した。
(遠距離攻撃を封じてきたか)
俺とレックは左右から近づこうとする。
しかし走っている途中で透明なガラスのような壁にぶつかった。
(これもコークアット(ฃ)で出したものだな)
ヨムは左手に新しいビンを出現させ、その口をシアムに向けて振り下ろす。
このときシアムの前に白いもやが生じた。
それは精霊のかたちに変化した。
黒髪で赤目のグラスーがヨムとシアムのあいだに立ちふさがったのだ。
(ヒマがグラスーに戻した人面ムカデのオリジナルか。そういえばトゥアムが「やろうと思えば風のようになって移動することも可能」とか言ってたな)
だがすでに体にガタが来ていたのだろう。ビンに当たる前にグラスーはとくに反撃することもできずに雲散霧消した。
顔が母親にそっくりであるというそのピーが実際にシアムを守ろうとしたのかは分からない。
ただシアムは、ほとんど聞き取れない声でつぶやいた。
「今まで……夢を見せてくれてありがとう……」
彼女の表情は、今の俺の角度からは見えなかった。
結局ヨムの振り下ろしたビンの勢いはとまらず、シアムに直撃する。
ビンの口がシアムを吸った。
小さくなったシアムは、ミーと同様にビン詰めとなる。
ヨムは立ち上がり、ズボンの左ポケットにシアムのビンを、右ポケットにミーのビンを収めた。
ほぼ同時にレックが透明な壁を砕き、ヨムへと突進する。
ポケットの外側からビンをなでつつ、ヨムが目を丸くする。
「すごいなあ。トーパタック(ฏ)を封じていたほうの壁はとくに頑丈にしたつもりだったんだけど」
「スンヤーガート」
レックが詠唱し、臼のかたちをした穂先を引き戻す。
動作に伴い、ヨムがレックに引き寄せられた。
これは村で会敵した際にも使った技だ。
加えてレックが詠唱を重ねる。
「インプーン」
今度は穂先を突き出し、ヨムに空気の塊を飛ばす。
引き寄せられていたヨムがあごの裏側を見せて吹っ飛ぶ。
「スンヤーガート・インプーン・スンヤーガート・インプーン・スンヤーガート・インプーン……」
レックが突き棒を前後させると共に、ヨムの体がレックから遠ざかったり逆に近づいたりする。
もはやヨムは乳白色の髪とみずからの肢体を宙で躍らせるばかりだ。
俺も透明な壁を突き破り、ヨムに追撃を加えようと走った。
このタイミングでヨムは宙を再度キラキラさせた。
そうして出現させた白色のビンの首を右手でつかみ、レックの空気の塊にぶつける。
するとビンの胴体が割れた。
断面は鋭いギザギザになっている。
ヨムはそのまま地に沈み、頭を低くしてレックめがけて駆け出した。
「どうやらあなたたちも、なかなか弱っている様子!」
ひし形の穂先が撃ち込まれそうになったところで、ヨムはミーのビンを取り出して盾にする。
レックの突き棒の勢いが殺される。
「また同じ手に引っかかるとはトーパタック(ฏ)……これじゃあ『突き人』の名折れじゃないかあ!」
ノコギリのようなビンの断面がレックの腹部に向かう。
しかも、へそのすぐ上をねらっている。そこにはちょうどトーパタックの文字が刻まれている。
(文字の位置を知っているのか!)
俺たち文字保有者は、皮膚に刻まれた文字を取り外された時点で死ぬ。
ヨムは割れたビンの断面でトーパタック(ฏ)をえぐり取り、レックを死に追いやろうとしている。
……俺も走るが、このままではレックのもとまで間に合わない。
レックも体勢を崩し、対応できない状態だ。
ここでミーの詰まったビンの口から緑がかった茶色の破片一つが飛んできた。
(これはユアユがミーのそばに浮遊させていたもの……その一部)
限りなく引き延ばされた時間のなかで、破片が俺の眉間に当たった。
ビジョンが飛び込んできた。
(ユアユの出した凶兆どおりに、このあとレックは死ぬ……せっかく人面ムカデを鎮静化したのに文字保有者たちも……そしてクマリーも悲しむ……ミーは自分を責める……俺はヨムに復讐するために生きることになる……)
そんな未来が――そんな運命が待っている。
(……ユアユの言葉を借りるなら、俺たちは今、運命に釣り上げられそうになっている)
それについては逃げるのも手――これもユアユの言葉だ。
だがもう逃げることはできない。
レックの死が眼前にある。
(未来は必ずそうなる。受け入れるしかない)
俺は思いを口にも出す。
「そんなわけ……そんなこと」
タハーン・プルーンに照らされるレックのえび色の瞳を見据える。
「――させるものか」
運命を口実にして目の前の仲間を見殺しにして、なにが兵隊だ。
勝手に諦めて……友達を見捨てて――。
「なにが俺だ」
「なにがアーティットだ」
「なにがトータハーン(ท)だ!」
ここで眉間の破片が砕け、時間の流れがもとに戻った。
次回「81.【ฏ】突き棒のトー・レック【その6】」に続く!




