70.袋のトー(ถ)【後編】
「ホーノックフーク(ฮ)から聞いたことはあるかね」
籠もった声でトゥアムがクマリーに言う。
「あらゆる生き物も無生物も精霊も本来的に独自の文字を持つことが可能だと。スーンくんに文字を刻まれずとも、それぞれには『名前』という刻印がすでに存在する」
オーバーオールに突っ込んでいた左手を抜き、桜色の瞳をきらめかせる。
「さっきわたしのトートゥン(ถ)に対してやったように、ウォーウェーン(ว)の力を芽吹かせたクマリーくんは宙に文字を書くことでそれに対応する文字保有者へと力を与えることが可能になったようだ。これは対象の名前をじかに書いた場合も有効なのか――試してみてくれないか。とりあえずアーティットくんのやつでね」
「分かりましたっ。お兄さんの名前は隙あらば心のなかで書きまくっていますのでっ!」
クマリーは右人差し指を動かそうしたが、いったんとめた。
同意を求めるように俺へと視線をやったので、俺は黙ってうなずいた。
それにうなずきを返したクマリーは、オーアーン(อ)とラークカーン(า)、トータハーン(ท)とピンイ(–ิ)、トータオ(ต)、ヨーヤック(ย)とマーイタンタカート(◌์)を左から順に宙へと書いた。
こうして「アーティット(อาทิตย์)」という俺の名前が彼女の手によって再現される。
途端、俺の体が淡く光る。
ただし先ほどのトゥアムのときとは異なり、赤ではなく青い光を発している。
光はすぐに消えたものの、もう一度クマリーが宙に俺の名を書くと再び青い光が俺から生じた。
俺は自分の体に不調がないことを確認して今の感覚を伝える。
「力が内側からみなぎるというよりは、外側から力が静かに貼りついてくる感じだな。クルムのあずまやのリラックス効果とも違っている」
「どうも、アーティットくん」
トゥアムはオールバックの髪を右手でなでつつ、クマリーに再度頼む。
「今度はトータハーン(ท)単体を書いてみてほしい」
「お兄さんの文字ですね~」
クマリーは、さっとトータハーン(ท)を空中にえがいた。
だがいくら文字の軌跡を重ねても俺の体は光らない。
距離の問題かと思った俺はクマリーに近づいたが、それでも変化は見られない。
トゥアムが周囲を見回し、クマリーからもっとも離れた位置にいるレックへと視線を向けた。
「……クマリーくん。次はレックくんのトーパタック(ฏ)でやってみるんだ」
「はいっ」
トータハーン(ท)を書くのをやめ、クマリーもレックを見た。
「レックさん、いいでしょうか」
「もちろん」
白いもやがなくなったことにより、レックのチュニックは周囲の灰色の地面と同じ色を帯び始めている。
「オレチャンには気をつかわなくていいぞ、クン・クマリー」
「ありがとうございます~」
レックの了承を得たのち、クマリーはトーパタック(ฏ)を迷わず宙に書きしるした。
するとレックの体が淡く赤く光りだした。
「確かにオレチャンのなかから力が湧いてくるようだな」
「だろう?」
トゥアムは右の靴で地面を引っかく。
「しかしこのなかで一番遠くにいるレックくんのトーパタック(ฏ)が有効だとすればトータハーン(ท)が無効だったのは距離のせいじゃないね」
「またアーティットの文字をなぞればいいんじゃ?」
ヒマが菜の花色の髪をなびかせて跳ね、クマリーの右隣に立つ。
「クマリーはウォーウェーン(ว)を正式に継ぐ前にトータハーン(ท)をなぞっていたんだよね? だからきちんとウォーウェーンの継承者になったこのタイミングであらためて学びなおす必要があるとヒマは思うなー」
「あ、そっか。ヒマちゃん、ありがとっ」
クマリーが俺の正面に飛んでくる。
俺はひじを曲げて左手の平をさらした。
小さな指が手の平のトータハーン(ท)をすべる。
左上に時計回りで丸を書いたあと丸の右側から線を下ろし、左下に来たら右斜めに上昇。さらに右上に達してから真下へと線を引く。
それからクマリーが宙にトータハーン(ท)をえがくと、俺の体からも赤い光が淡く漏れ出た。
確かに力がみなぎる感じがする。
(どうやらヒマの推測が当たっていたようだな)
俺は左手を下ろし、クマリーの少し垂れた茶色の目をじっと見た。
「クマリー、君のウォーウェーン(ว)の力はついに覚醒を始めたんだな。これも君自身がずっとがんばって字を学んでいたからだよ。ยินดีด้วย(おめでとう)」
「えへへ……っ、クマリー、すごいでしょ~」
ほかのみんなからも「おめでとう」という言葉が飛び交うなか、クマリーは笑顔でほおを染める。
「でもこれは……文字保有者のみなさんがクマリーに快く字を学ばせてくれたおかげでもあります。お兄さんがクマリーのことをずっと見守ってくれたからでもありますっ。だからクマリーはお兄さんたちに感謝します。そしてトゥアムさん」
オーバーオールの切れ目の線に両手を突っ込んだトゥアムにクマリーが手を合わせる。
「まだ微力ながらクマリーがウォーウェーンの力を使えるようになったのは、トゥアムさんが導いてくれたからです。コープクンの極みですっ!」
「そうさ、感謝するがいい――と言いたいところだけど、クマリーくんはわたしがいなくてもウォーウェーンをモノにできていたと思うよ。だよねえ、みなの衆」
「――ああ」
俺たちはトゥアムに首肯を返した。
トゥアムは微笑し、岩場の上に浮かぶ太陽をはすに見る。
「じゃあクマリーくん、サポートのためにわたしたちの名前全部も書けるようになろうか」
「待った」
右手を振り、俺はトゥアムを制止した。
「いきなり複数の名前を覚えようとしたら混乱するだろ。トゥアムもミーの袋のなかで聞いていただろうけど……クマリーが作戦開始前に言ったとおり、みんなの名前を書くのはこの戦いが終わったあとだ」
直後、俺はハッとしてクマリーに向きなおった。
「いや……俺が決めることじゃなかったな。すまない、クマリー。君の気持ちも聞かずに……」
「謝らないでくださいっ」
宙のクマリーが高度を上げ、右手で俺の頭をなでる。
「クマリーもお兄さんに賛成です。お兄さんがクマリーのことを心配しているのは、ちゃんと分かっていますからね」
ついで俺の頭から手を離し、トゥアムと目を合わせた。
「だからトゥアムさん。クマリーは戦いが終わったあとにみなさんの名前を書きます。でもトゥアムさんがクマリーに提案してくださったことも……うれしかったですっ」
「分かった、クマリーくん」
トゥアムは嫌味なく歯を見せて返答した。
そのあと俺たちはクマリーのウォーウェーン(ว)の力が復活し始めたことを鐘のイヤリングを介してルディに知らせた。
休憩を終え、その場を離れる。
人面ムカデをしりぞけながら赤茶の岩壁の迷路を進み、シアムのいる中央の広場に向かう。
そして道中、トゥアムが新たに提案した。
「みなの衆。シアムくんの心理状態を探るためにまずはわたし一人に任せてくれないかな」
* *
ようやく俺たちは迷路を抜ける。
ルディのミツバチが作成した地図のとおり、岩場の中心には広場があった。
高さ十五メートの赤茶の岩壁が、ほぼ真円のかたちで灰色の地面を取り巻く。その直径は四十メートほどだ。
広場への入り口は南と北北西にある小さな途切れ二つのみ。
白いもやは、すっかり消えている。しかも三メートの人面ムカデはどこにもいない。
背中に子どもを乗せた五メートの人面ムカデが中央でとぐろを巻いているだけだ。
その子どもとは、釣り鐘型の柑子色の布で全身をおおい、焦げ茶の編み上げ靴をはいた子どもだ。
赤い長髪と黒い瞳のみならず、うなじに赤黒い炎のかたまりを持っている。炎は髪も服も焦がしていない。
そんな様子を観察しながらトゥアムは南から広場に入った。
両手を軽く振って歩き、西を向く人面ムカデの正面に立つ。
「やあやあ、君がシアムくんかね」
籠もった声と共にあごを上げ、シアムの黒い瞳をのぞく。
「わたしはトゥアム。仲間と一緒に人面ムカデの鎮静化に参加している。村人を殺しつくしたそいつらを放っておくわけにはいかないからね」
ムカデの赤黒い胴体にも視線を走らせる。
「ここに来るまでにわたしの仲間たちが人面ムカデを大量に狩った。白いもやも消した。もうシアムくんは追い詰められているし、どうかな? 事情を話してくれたら助かるのだけど――」
「หุบปาก(フップパーク)〔黙ってよ〕」
性別の判然としない子どもの声でシアムは言葉をさえぎった。
同時にうなじの炎の一部を右手でもぎ取り、トゥアムに投げつける。
「あなたのこと、嫌いなんだけど。まず上から目線でむかつく。次にトゥアムという名前が気に食わない。わたしのシアムって名前に似てて不愉快」
赤黒い炎につつまれるトゥアムを見下ろしながら声を荒らげる。
「なにより一番許せないのは……わたしを『君』って言ったこと! だから極刑! ソムナムナー(ざまあみろ)!」
「それは悪かったね、ごめん」
「……は?」
シアムの左ほおから汗が伝う。
燃えるトゥアムの背中がセミの抜け殻のように縦に割れ、なかから薄茶の革袋が飛び出した。
籠もった少女の声が、しぼんだ袋から響く。
「チート」
すると袋の口が結ばれ、内部より膨張を始めた。
バルーンアートのように袋がねじれる。そして頭部、肩、ひじ、手首、指の関節、腰のくびれ、股関節、ひざ、足首、足の指が形成されていく。
みぞおちの下がへこみ、腹部の育児嚢までが再現された。
さらに袋が細かい凹凸を作り、ノースリーブシャツ、オーバーオールスカート、ハイソックス、靴を表面にかたどる。
続いて靴が紺色に、ハイソックスが白に、オーバーオールが黒に染まる。
シャツは薄茶のままだが肌に生身の色がつき、双眸とオールバックの髪が桜色を帯びた。
そのままトゥアムは宙で後転したのち、灰色の地面に着地した。
「まあ名前に関してだけは謝らないけど……シアムくんは一つ勘違いをしている」
「ば……化け物……っ! フップパーク、フップパーク!」
シアムが青ざめ、「黙れ」とくりかえす。
対するトゥアムは涼しい顔で自身の腹部をなでている。
「事情を話せば助かるのは、わたしたちじゃない。シアムくん自身なのだよ。なるべく同情を引くように詳細に、しかも正直に話してくれたら情状酌量の余地はあるかもしれないよ」
オーバーオールの水平の線を両手で引っ張り、育児嚢を見せる。
「それさえできないのなら、わたしのなかで一から育ててあげようか?」
次回「71.【ส】虎のソー・ミー【その1】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
インディードゥアイ(ยินดีด้วย)→おめでとう
フップパーク(หุบปาก)→黙れ
チート(ฉีด)→注入する




