69.袋のトー(ถ)【前編】
シアムのいる岩場の中央に入る前になって俺たちは休憩をとった。
だがこのタイミングでミーの持つ薄茶の袋がうごめき、あたりの白いもやをほとんど吸い込んでしまった。
クマリーが右耳に鐘のイヤリングを出し、ルディに連絡する。
「ルディさんルディさんっ! クマリーたちの近くのもやが消えました!」
『報告ありがとう』
しっとりとした少年の声でルディが答えた。
『すでにチュアとロップからも同様の知らせを受けている。あちこちに飛ばしている僕のミツバチも、もやの消失を伝えてくれた。ナーグルアさんと僕のいる岩場の外にはまだ白いもやが広がっているけど、みんなのいる岩場一帯に関しては視界がクリアになったと言っていいね』
ついで声を低くして疑問を口にする。
『でもどうして今までずっとあったもやが消えたんだろう。敵の作戦の可能性は考えられるかな』
「――ところが敵じゃないんだなあ」
籠もったような少女の声が、ミーのかかえる袋の口から再び響いた。
「白いもやを吸いつくしたのは、わたしだよ」
袋のなかの黒い石炭が揺れ、その隙間から人の右手が出てくる。
続いて左手と、桜色の髪でおおわれた頭部が現れた。
「とうっ」
桜色の髪を持つ彼女は一気に残りの体を引き出し、宙で前転したあと灰色の地面に立った。
「【ถ】トートゥン・トゥアム、つかさどる字は袋のトー。やあやあみなの衆、もやを取っ払ってやったわたしに深く感謝するがいいさ」
「ありがとう」
俺たち全員は手を合わせ、袋から出てきた少女――トゥアムに謝意を示した。
ルディもクマリーのイヤリングを通して礼を述べた。
ドライアイのためか、トゥアムは桜色の瞳をこまめにまばたきさせている。
髪はオールバックにしており、やや波打ったそれを腰の近くまで伸ばしている状態だ。
薄茶のノースリーブシャツの上に黒いオーバーオールを着ている。
ちょうどみぞおちの下の箇所に水平の線が入っている。また、オーバーオールの下部は膝上丈のフレアスカートだ。
かつ、紺色の靴に白のハイソックスをはいている。
トゥアムはオーバーオールスカートの水平の線に両手を突っ込み、まるでトンネルのなかにいるときのような籠もった声をもう一度発した。
「苦しゅうないね。そしてみなの衆、わたしに聞きたいこともあるだろ?」
垂直軸を中心にしてその場で体を回転させ、クマリーと鐘のイヤリング、ヒマ、レック、ミー、テーラさん、俺を順に見る。
「その疑問に答えてあげよう」
質問を受ける前に、トゥアムが回答する。
「まず、今のわたしは本物の体じゃない。ミーくんの袋の底に仕込んでいたもう一つの『袋』を本体そっくりに変形させてそれを遠隔操作しているだけさ」
「ほわっ、そんなことできたんだ、トゥアムちゃん!」
ミーがにび色の目をぱちくりさせてつばを飲む。
「袋が破れたときのために、別の袋を石炭の袋のなかに入れてくれているのは分かっていたけど」
「いいかね、ミーくん。人の肉体はビンでも箱でもない。中身に合わせて変形する袋なのだよ。ならば袋のトー(ถ)の保有者であるこのトゥアムがリアルの袋から人をかたどれない道理はないだろう?」
トゥアムは自信たっぷりに答えたあと、クマリーの出している鐘のイヤリングに再度注目する。
「で……わたしは袋を耳のように機能させ、ずっとカヤンくんたちの様子をうかがっていた。どうして今になって出てきたかというと、敵に対処の時間を与えないためさ。たとえばきのうのうちに白いもやを消していたら、当然ながら向こうもそれ相応のことをしてくる。ゆえに最終決戦の直前になって登場した次第なんだよ」
「しかしねえ~、トートゥン・トゥアム~」
ねっとりとした声でテーラさんが言う。
「敵に対して情報を伏せるのはいいとしてもお、せめてぼくらに自分の存在を知らせることくらいはしてもよかったんじゃあないか~い?」
「スパイされている可能性を考慮したまでさ、テーラくん」
トゥアムはオーバーオールに突っ込んだ手をごそごそ動かした。
「とはいえ戦いも佳境に近いし、もう潜伏は終わりだよ。ルディくんにみなの衆、ここからはわたしも作戦に参加しよう」
『分かった、カヤンさんとセンセーには僕から知らせておく』
ここでルディとの通信が切れ、クマリーのイヤリングがすうっと消えた。
続いてトゥアムがクマリーに桜色の視線を向ける。
「さてクマリーくん。君もなかなか戦闘で役に立っていたようだね。実はクマリーくんがいてくれたものだから人面ムカデたちは君を優先して攻撃しようとしていたんだ。そのためかえって人面ムカデに隙が生まれ、アーティットくんたちも戦いやすかったのだよ」
「そんなふうに貢献できていたとは……クマリー、誇りに思いますっ!」
本心から褒めているのか皮肉で言っているのか分かりにくいトゥアムの言葉に対し、クマリーは素直に喜びの表情を見せた。
直後、緩めていた表情を固くする。
「だけどクマリーは……みなさんのように強い存在になりたくもあります」
「質問しよう」
トゥアムがオーバーオールの線から右手を出す。
「クマリーくんはスーンくんからウォーウェーン(ว)を受け継ぐまでに何文字を学んでいたんだい?」
「十四文字ですっ」
「ではウォーウェーンを継承したあとに学んだ文字の数は?」
「えっと……トーパタック(ฏ)、ポーパーン(พ)、ソースーア(ส)、トータオ(ต)、トープータオ(ฒ)、コーラカン(ฆ)、チョーガチュー(ฌ)、フォーファー(ฝ)、ヨーヤック(ย)、ポープン(ผ)、フォーファン(ฟ)、ジョージャーン(จ)、ローリン(ล)の十三文字ですね~」
「そうかい」
オーバーオールに入れた左手首をトゥアムが小さく振る。
「なら、さっさとわたしの文字も学習したほうがいいだろうね」
まばたきを一秒間に五回ほどくりかえす。
「クマリーくんはウォーウェーンを継承するまで体内にスーンくんの魂を宿していたらしいじゃないか。とするとそのあいだに学んだ文字はウォーウェーンの継承前ということもあって……クマリーくん自身に百パーセント吸収されなかったと考えられる。言い方はひどいかもだけど、そのとき十四回クマリーくんはスカを引いたも同然なのだよ」
さらにオーバーオールに引っかけた左手を下ろし、その腹部をひらく。
「だがスーンくんの魂が消えてクマリーくんが正式にウォーウェーンを継承したあとは話が別さ。新しい十三文字は確かに百パーセント君のなかに吸収されたことだろう。そして新しく学んだ文字が十四個に達したとき、ようやくクマリーくんは重ねた十四のスカをチャラにできる。新鮮な文字の刺激を真の意味で受けることが可能になる」
言いながらトゥアムは、へそのない腹をさらした。
「こうして、わたしたちに文字を刻んだウォーウェーンの記憶をさかのぼるようにクマリーくんのウォーウェーンが開花を始める」
「おお~っ。難しいですがトゥアムさんの文字をなぞることでクマリーは覚醒に近づくんですねっ。ただ……」
クマリーが真剣な表情でトゥアムに顔を近づける。
「……クマリーは、最初に学んだ十四文字のことをスカとは思っていませんっ。全部の文字が、それを学んだ記憶が、かけがえのないクマリーの宝物なんですっ」
「素晴らしい。そして表現が不適切だったことについては謝罪しよう」
ついでトゥアムの両手が、露出させた腹部の上方を斜め下に引っ張った。
「このなかにわたしのถがある」
どうやらトゥアムのみぞおちから下の腹は袋状になっているようだ。
弾力を持つ厚さ三センティメートの肉が腹部に重なり、衣服のポケットに似た構造を作っている。
「育児嚢さ。遠い地にはカンガルーという動物がいて、お腹の袋で子育てするらしいけれど……わたしはその袋を持って産まれたのだよ。トートゥン(ถ)の文字はこの袋の内側に刻まれている。今のうちになぞるがいいさ」
「大切なところなんですね……では優しく……っ」
トゥアムの育児嚢の内側にはへそも見えた。
そのへその真上に彼女のトートゥン(ถ)が赤く浮かぶ。
クマリーの右人差し指が育児嚢の内部をなぞる。
まず右下に時計回りで小さな丸を書く。
次に丸の左側と接するかたちで線を持ち上げる。
上昇する途中で少し右に寄り、すぐ左に戻る。
そして上に張り出す弧を引きつつ字の右側へと移る。
あとは線をまっすぐ下ろし、右下でとめる。
ちなみに最初の丸の右側が線と接している場合はトーパタック(ฏ)やポーサムパオ(ภ)になるので注意しなければならない。
ともあれ、こうしてトートゥン(ถ)は完成する。
「トゥアムさん、本当に深く感謝しますっ」
育児嚢から右手を引き抜き、クマリーがトートゥン(ถ)を宙に書き始める。
「ジョットお姉さんのポーサムパオ(ภ)に似ていますが、トゥアムさんのトートゥン(ถ)はまるでタマゴを内側にかかえているかのようですね」
「まさにわたしにふさわしいだろ?」
腹部の袋を引っ張るのをやめ、トゥアムが下げていたオーバーオールを引き上げる。
「なにか質問は?」
「はいっ!」
クマリーはトートゥン(ถ)を宙に書きながら話す。
「トートゥン(ถ)はトータハーン(ท)やトープータオ(ฒ)のように息を出す『トー』でしょうか。それともトーパタック(ฏ)とトータオ(ต)のように息を出さない『トー』でしょうかっ」
「息を出すほうの音だよ、クマリーくん」
オーバーオールをもとの状態に戻し、腹部を隠す。
「ただしトータハーンとトープータオは低子音だけど、わたしのトートゥンは高子音なのさ」
「なるほど、つまり声の出し方が異なるんですね~」
クマリーもこのパターンに少し慣れてきたようだ。
その直後、トゥアムの全身が淡く赤く光り始めた。
「思ったとおり。まだ芽吹きの段階だけど、クマリーくんは新しく十四文字を習得したことでウォーウェーン(ว)の力をついに開花させたようだね」
「え、ホントですかっ」
クマリーがバンザイして喜びの声を上げる。
同時にトゥアムの全身をつつんでいた光が消えた。
「……クマリーくん、もう一度トートゥン(ถ)を宙に書いてくれないか」
「任せてくださいっ!」
言われたとおりにクマリーが右人差し指でトートゥン(ถ)の軌跡をえがくと、またトゥアムの体が光りだした。
トゥアムはオーバーオールのなかに左手を突っ込みなおし、うなずいた。
「力がみなぎる。……ああ、そういうこと。今のクマリーくんは宙に文字を書くと、その保有者に力を与えることができるのだね」
彼女の桜色の瞳が光を帯び、こまめにまばたきする。
「そろそろ休憩も終わりだろうけど、最終決戦前にあとちょっとだけクマリーくんの力を試しておいたほうがいい」
さらに俺のほうをちらりと見た。
「クマリーくん、『アーティット(อาทิตย์)』って書けるかな?」
「書けます!」
元気よくクマリーが返事をする。
ただしその右手が勢いよく掲げられると共に、再びトゥアムの光が消失した。
次回「70.袋のトー(ถ)【後編】」に続く!
ถ←これが「トートゥン」の文字。意味は「袋のトー」……ポーサムパオ(ภ)の左下の丸が内側に引っ込んだ形になりますね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
トゥン(ถุง)→袋




