68.猿のロー(ล)【後編】
高さ十メートを超す赤茶の岩壁に両手両足を引っかけたヒマが、左右のおだんごから垂れる菜の花色の毛先を揺らしながらスイスイと上昇する。
とはいえ敵地にあるので単独行動は控えるべきだ。
ヒマもそれを分かっているので、崖をのぼりつつ下の俺に目配せする。
俺はミー、レック、テーラさんに声をかけた。
「ヒマになにか考えがあるらしいから俺もいったん崖をのぼる。彼女の用が終わったら再度合流する」
「分かったよ、アーティットくん!」
ほわほわした声で、真っ先にミーが返答した。
「このあたりの人面ムカデはもうほとんど全滅したからワタシたちのことは心配しないでっ!」
「ああ。……じゃ、クマリー。一緒にヒマについていこう」
イノシシの姿をした陸の兵隊の群れを消し、俺は右横に浮くクマリーに視線をやった。
クマリーは力強くうなずく。
岩壁のヒマに向かって体をさらに浮かし、高度を上げる。
一方俺は小鳥の炎の兵隊を頭上に出したまま、紫のコウモリの姿をした空の兵隊を呼び出す。
アーガートは二対の羽を持つ。
斧を持った俺の体を一対の羽でかかえ、もう一対の羽ではばたく。
そうして俺も崖のそばを飛び、ヒマとクマリーに追いついた。
俺たち三人は黙って白いもやを抜け、赤茶の岩の頂上に静かに立つ。
ヒマがしゃがみ、岩壁の向こう側の通路を見下ろす。
「アーティット、クマリー。見て」
そんな彼女の小声を受けて俺はヒマの右横に、クマリーはヒマの左横に移動して眼下をのぞいた。
幅十二メート強の通路にはやはり白いもやが広がる。
人面ムカデも確認できる。三メートのムカデたちが通路いっぱいに押し込められているだけでなく、互いに重なり合い分厚いバリケードを構築している。
もやがあるので判然とはしないが、胴体を接地させた人面ムカデ一体につき四体から五体のムカデが重なっているようだ。それぞれの顔の方向は一定ではない。
人面ムカデの体勢は鎌首をもたげた蛇のそれに近いので、胴体同士を積んでできたバリケードの高さは六メート程度。
(シアムとコピー元の精霊が新たにコピーを生み出し、通路をふさいだのか)
もちろん岩壁の上を進めば無視は可能だが、シアムたちと交戦する前になるだけ敵の数を減らしておきたい。
(コピーも無限にできるわけがないからな)
ここで一番上に重なった人面ムカデの一体が俺たちに気づき、頭を前後左右に振った。
紫色の液体を歯列から飛び散らせる。
液体をかけられた個体たちが次々と俺たちに顔を向ける。大口を開閉し、歯をガチガチさせながら赤茶の岩壁にすがりつく。
対する俺はプルーンと共に攻撃をかけようとした。
だがヒマの右腕が上がり、俺の動きを制止する。
「アーティット」
今のヒマの声音からはウキウキした感じが抜けている。
「敵さんのねらいは足止めじゃなくてヒマたち文字保有者の力を消耗させることにあると思うよ」
菜の花色の瞳で流し目を送る。
「だからヒマに任せて」
ついでヒマは岩壁をのぼってくる人面ムカデを見渡した。
頭部の左右のだんごをほどき、唱える。
「ドゥームティー」
髪をほどいたことで、その毛先がふわりと彼女の背中や胸に垂れかかる。
ヒマは髪と同じ色のヒモでだんごを作っていた。
外した輪っか状のそれら二つを両手ではじき、人面ムカデの群れに飛ばす。
輪っかは伸びるように巨大化し、直径十二メート以上の大きさになって眼下の人面ムカデすべてを取り囲んだ。
白いもやのなかでも菜の花色の円周がはっきり見える。
一つの輪っかは崖の上から、もう一つの輪っかは崖の下からムカデたちを囲む。
輪っかによって形成された円柱の空間が菜の花色に光る。
その光に人面ムカデたちがかき消されていく。
……いや、消えたのではない。
光に溶けるように赤黒いムカデの胴体がしぼんでいく。
一気に細くなり、多脚までもが失われる。
ただし人面のほうに影響はない。
胴体の形状だけが変化する。細くなった胴体がさらに縮み、人の内臓の姿をかたどり始める。
首の下に食道と気管ができる。中間の部位がやや膨らみ、肺と胃と心臓のかたちになる。先端に近い部分は折れてまとまり、小腸と大腸のような形状に収束した。
バリケードを作っていた人面ムカデすべてが、その姿へと変形する。
俺は息をのんで声を漏らした。
「これは、グラスー……!」
人面ムカデが、内臓をぶら下げて飛ぶ精霊……「グラスー」に変わっていく。
(まさか人面ムカデの正体はンゴットガームと同じグラスーだったのか)
目を丸くする俺にヒマが説明する。
「ヒマの『ドゥームティー』は範囲内の対象の『もともとの姿』を暴くものだからね。どうやら本当に人面ムカデはグラスーだったみたい」
「その口ぶりからして」
真面目な調子のヒマに、俺はそっと聞く。
「もしかして事前にやつらの正体に見当をつけていたのか」
「けさ、ンゴットとフアロがヒマに言ってくれたの。人面ムカデはグラスーの変異種かもって」
眼下の人面ムカデ……いやグラスーたちを見ながらヒマは続ける。
「首の下から長いものをぶら下げているところが似てるから、そう思ったってさ」
どうやらンゴットガームはヒマに自分がグラスーであると打ち明けたわけではないらしい。
「もし正体がグラスーだったらローリン(ล)の力でもともとの姿を暴けるってことでヒマに話したんだって。確証はないからみんなを混乱させないようそのことは黙ってたんだけどねー」
ここで、ピーたちをつつんでいた光が弱まる。
グラスーの姿をさらした彼女らは、もはや俺たちを襲おうとしなかった。
大口を閉じる。
乱れた黒髪はそのままだが赤い目は次第に黒を帯び、目の前の宙に焦点を定める。
そして垂らした内臓と共に人面ごと白いもやに溶けていく。
* *
結果、崖下の大量の人面ムカデがすべて消えた。
菜の花色の輪っか二つが通常のサイズに戻り、ヒマの左手と右手に飛んでくる。
ヒマは輪っかのヒモで、再び頭部の左右をおだんご状にまとめた。
ウキウキした声で俺とクマリーを交互に見る。
「ヒマ、役に立ったよねっ」
「ああ。すごかった」
俺は心の底からそう言うことしかできなかった。
クマリーも音なく拍手する。
「もとの姿も明らかにしてしまうなんて……感動しましたっ、ヒマさんっ!」
「敬語は要らないしヒマのことは『ちゃん』でいいよ、クマリー」
* *
ともあれ俺たちはきびすを返し、ミー、レック、テーラさんのいる崖下のほうに戻る。
再度合流して人面ムカデの正体がグラスーであることを鐘のイヤリングでほかの仲間とも共有したのち、ルディのミツバチの案内を頼りに岩場の迷路を進む。
先ほど人面ムカデたちがバリケードを作っていた場所も通過する。
以降はほとんど会敵せずに進軍できた。
ただし鐘のイヤリングでセンセーやカヤンと連絡をとると、「援軍が必要なほどではないが、こちらはまだまだ敵の数が多い」という言葉が返ってきた。
そして俺たちは周囲に敵影がないことを確認し、いったん休憩する。
(動きっぱなしだと、かえって効率が落ちる。ロップの「蓋」とナーグルアが控えている以上、ここの中心にいるシアムと五メートの人面ムカデが岩場から逃げようとしても無駄だしな)
俺は手持ちの斧を左手の平にしまい、アーガートも消した。
一応、ホタルの光の姿をした斥候の兵隊を周辺に飛ばしておく。
このタイミングでクマリーがヒマに近寄り、ふにゃふにゃ声でいつものお願いをする。
「ヒマちゃんっ、休憩がてら文字をなぞらせて~」
敬語でないクマリーは、どこか新鮮である。
ヒマはウキウキしているような高い声と共にうなずく。
「当然大歓迎だっ。なぞってね~」
立ったまま両手を使い、右脚をおおう赤茶色のニーソックスを足首まで引き下ろす。
「クマリーっ、ヒマのローリン(ล)は右ひざの裏側……ひかがみにあるよー」
「な、なんと……っ!」
驚きつつクマリーがヒマの背後に回り、両ひざを立てて地面に座る。
右ひざの裏側のくぼんだ部分すなわち「ひかがみ」に赤いลの文字が浮かび上がっている。
「じゃあヒマちゃん、いくよ~」
砕けた言葉を発し、クマリーが右人差し指をローリン(ล)に当てる。
まず左下に時計回りで小さな丸を書く。
次に丸の左側から線を少し持ち上げ、右に寄りつつ上に張り出す弧をえがく。
弧が右下に達したら今度は線をさらに持ち上げる。
すでに書いた弧よりも上に来たタイミングで、左に寄せながらその上に弧を引く。
そのあと左上のやや下の位置でとめる。
ここまでソースーア(ส)の書き順と同一ではあるものの、ローリン(ล)の場合それ以上の線は要らない。
ともかくローリン(ล)はこれで完成だ。
「ヒマちゃん、ありがと~」
ひかがみから手を離し、クマリーがヒマの正面に回って何度も宙にローリン(ล)を書く。
「ミーさんのソースーア(ส)のようにダイナミックで大胆な字だねっ!」
……このときレックのそばで休んでいたミーが袋をかかえたまま笑顔で振り向いた。
しかし今のミーの位置はクマリーの真後ろだったので、当のクマリーは気づいていない。
「それでいて、なんかかわいいかたちだよ~。クマリー、ヒマちゃんのローリン(ล)も大好きっ」
「ありがとね、クマリー!」
右のニーソックスを両手で引き上げ、ヒマが微笑する。
「……そういえばクマリーはエーンさんのロージュラー(ฬ)も知ってるんだよね。ロージュラーとヒマのローリン(ล)は同じ音だから間違えないでね~」
「うんっ」
浮き上がってヒマと目線の高さを合わせ、クマリーがうれしげにうなずいた。
「安心感のあるエーンお姉さんと天真爛漫なヒマちゃんだから、それぞれ違う字に選ばれたんだねっ」
「天真爛漫かあ? そう見えた?」
ヒマがちょっと気まずそうに返した。
「実は……本当のヒマはとっても自信がなくて引っ込み思案なんだ」
静かに、しっかりと言葉を継いでいく。
「正直なところこの作戦に参加したのも、さみしかったから。スーンさんとリアンゲさんがあんなことになっちゃって……平気でいられるわけないよ」
やや泣きそうな声になる。
「だからみんなのそばにいたかった。必要とされたかった。でも、いつまでもウジウジしていたくないじゃんっ? だからヒマは明るいフリしてるんだよー」
「ヒマちゃん……」
クマリーが前に出て、ヒマの両手に自分の両手を重ねる。
「聞かせてくれてありがとう……。今のを聞いて、クマリーはもっとヒマちゃんのことが好きになったし、ヒマちゃんのことをますます尊敬するっ」
「……『ウソつきだ』って言わないの?」
「自分の目指す自分になりたいと思うのは、絶対にウソじゃない。本当の気持ちだよっ」
「そっか……しみるなあ」
ヒマは歯を見せて笑い、クマリーの手を握り返した。
「ありがと、クマリーちゃん! ヒマと友達になろっ」
「もう友達だよ~、ヒマちゃんっ」
優しいふにゃふにゃ声でクマリーはヒマに応えた。
ついでヒマがハッと口をひらく。
「あ、忘れちゃってた! ヒマ、クマリーにちゃんとあいさつしてなかったよね? だから文字保有者としての名乗り名乗りっ」
右のひかがみを右手の平でたたきつつ言う。
「【ล】ローリン・ヒマ、つかさどる字は猿のロー。自己紹介が遅くなったけど、その前に仲よくなるのもアリだよね~」
「そうだねっ。だったらクマリーもあらためて……クマリーだよっ」
自分のことを紹介し合ったヒマとクマリーは、顔を赤らめながら互いにほほえみを返した。
そして――。
ここで俺たちのまわりに異変が起こる。
あたりに広がっていた白いもやが薄まり、晴れていったのだ。
灰色の地面も赤茶の岩壁もくっきり視界に映り始める。
上空の太陽も見えるようになり、空気の温度が少しずつ上がっていく。
(……なんでいきなり。なにが起こった?)
さらにミーがさけんだ。
「ほわわっ! 袋が!」
見るとミーの両腕にかかえられた薄茶色の大きな袋が収縮と膨張を反復させながら、白いヒモをつけた口から周囲のもやを吸い込んでいた。
(ミー自身の仕業じゃないな。待てよ……そういえばミーにこの袋を渡したプラトゥが言ってたな……「その袋は『袋ちゃん』の袋」だと)
その「袋ちゃん」とは「トートゥン(ถ)」の文字保有者のことである。
じきに薄茶の袋はもやを吸うのをやめ、その口のなかから吐息のような音を出した。
「ふへ~っ」
籠もったような少女の声が、ミーのかかえる袋から響いた。
次回「69.袋のトー(ถ)【前編】」に続く!
ล←これが「ローリン」の文字。意味は「猿」のロー……ソースーア(ส)とは異なり右上に斜めの線をつけないところがポイントですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
リン(ลิง)→猿
ドゥームティー(เดิมที)→もともと




