65.皿のジョー(จ)【前編】
ついに人面ムカデとの決戦の日が来た。
だが部屋のベッドで目を覚ました俺の腹に少女が一人乗っていた。
座ってすらいない。両の足裏を俺の腹部に置いているのだ。
ただし、重さはほとんど感じない。
赤茶色のニーソックスで小さな足とひざをつつんでいる。
短い灰色のプリーツスカートの下には同色のホットパンツが見える。それらは別々のボトムスではなく、最初からホットパンツのまわりにスカートを縫いつけてあるようだ。
長袖のトップスはボトムスよりも少し濃いめの灰色。
左右の袖口が親指の付け根にまで達している。
手は後ろに回しており、しかも全身が後方にかたむいている。
五度ほどひらいた両脚の隙間から指が見える。
大部分がスカートに隠れているため、中指の腹がちらりとのぞく程度だ。
顔は小さく、角張ったところがない。
菜の花色の瞳をきらめかせ、俺を見下ろしている。
同じく菜の花色の髪を左右の側頭部の上方でおだんご状にまとめ、その毛先を肩に向かって垂らしている。
そんな少女が足の指を俺の腹部で小刻みに動かす。
ウキウキしているような高い声で再び言う。
「バナナー、バナナー!」
「分かったから……ヒマ、下りてくれ」
俺は菜の花色の髪を持つ少女――ヒマにベッド横に移動してもらってから、天幕の兵隊をベッドの上に呼んだ。
うっすらとした輪郭が宙に浮かんだあと、色が塗られるように全体が一瞬でかたどられる。
灰色のワニの姿をした精霊が現れる。
しかし室内で呼び出すにあたって、ちょっと小さくなってもらった。
今のグラジョームは全長一メートほどである。
ヒマが跳ねながら手をたたく。
「抱き枕みたいでかわいいっ! このワニさんのおなかのなかにバナナの入った氷室があるんだよね~。よこせー!」
右手を伸ばし、グラジョームの口に突っ込む。
だがグラジョームの上下のあごが合わさり、ヒマの右腕をがっちり捕らえた。
「わああ抜けない突っ込めない!」
「いきなり腹をまさぐられてびっくりしたんだよ」
ゆかにひざをついてジタバタするヒマを見ながら俺は伝えた。
ヒマは菜の花色の瞳を丸くして悪びれる。
「そうだったの! ごめんなさい!」
「……グラジョーム」
俺が命じると、ワニのかたちの口がそっとひらいた。
今のグラジョームは通常よりも小型であり、歯も鋭くないのでヒマにケガはない。
代わりに俺が右手を入れる。
なかから冷たいバナナを二本取り出し、片方をヒマに渡す。
皮を三つに裂き、俺は俺のバナナをくわえた。
一方、ヒマは皮をむかず皮ごと中身を噛みちぎった。
「ありがとね、アーティット!」
黄色い皮を平然とそしゃくしながらヒマがベッドに腰を下ろす。
「やっぱりアーティットの持っているバナナは太くて濃厚でとろけるようで……クセになるっ! 皮もぷりぷりでアロイ!」
足を振り、俺に右目を近づける。
「ねえねえ、お礼としてヒマがなにかしてあげよっか?」
「気持ちだけでいいよ」
俺は俺のバナナを味わいつつ答えた。
「同じバナナ信者として、バナナを分け合うのは当然のことだ」
「信者の鑑じゃん!」
白い中身のないバナナの細い部分まで食べたあと、ヒマは立ち上がった。
「よっし、おかげでヒマも元気になった! 今なら任務もコーングルアイグルアイ(朝飯前)だっ! じゃあまたあとでね、アーティット!」
ウキウキした声と共に右腕を上げ、ヒマが俺の個室から出ていく。
彼女は扉を静かにあけてすぐ閉めた。
その後、へそから這い出てきたクマリーにも俺はバナナを渡した。
しかしクマリーはベッドに腰かける俺のひざに乗ったあと、バナナの皮をむきながら鼻をひくつかせる。
「むむ……っ! なんか別のあまい残り香がします……っ」
「さっきヒマが来て、バナナを要求されたからな」
俺は隠さず答えた。
「人面ムカデとの決戦を控えたきょうになって駆けつけてくれたらしい。ヒマはローリン(ล)……『猿のロー』の文字保有者。彼女はバナナが好きなんだ」
「それは仲よくなれそうですね~」
クマリーは垂れ目を細め、バナナをゆっくり口に含んだ。
* *
そしてクマリーがバナナを全部飲み込んだタイミングで俺はグラジョームを消した。
灰色がすうっとかすれ、ベッドに同化するようにワニの姿が見えなくなる。
ここで俺たちのいる個室の扉がノックされる。
俺が「入っていいよ」と返すと、扉があいた。
ヒマが戻ってきたのではない。
現れたのは、くろがね色の髪と瞳を持つ人物である。
十代後半から二十代前半の顔つきの男性だ。
髪は左右に広がっており、肩の先にも毛先が揺れる。
目は三白眼で、くろがね色の瞳自体は小さい。
首に巻いた白いマフラーにあごが隠れている。
マフラーの余った部分を胸の前面から腹部に向かって垂らしている。
細身の体をつつむのは、黒い長袖の上着に薄青い胴衣。
上着の背面は二つに分かれ、臀部に届く。
ズボンも上着と同じ黒。銀色の太いベルトを腰に巻いている。
室内なので今は靴をはいていない。白い靴下がつま先から足首までをおおっている状態だ。
彼は後ろ手に扉を閉めた。
ベッドから立ち上がろうとする俺を制止し、手を合わせてねっとりとした声を出す。
「【จ】ジョージャーン・テーラ、つかさどる字は皿のジョー。こうしてまともに会話するのは初めてだったねえ~、トータハーン・アーティット……ウォーウェーン・クマリー」
「こ、これはどうも。テーラさん」
俺も手を合わせ、反射的にあいさつを返す。
「わたしは【ท】トータハーン・アーティットと申します」
「クマリーはクマリー……いえ、【ว】ウォーウェーン・クマリーですっ」
クマリーも俺と同じように、くろがね色の髪の男性……テーラさんにあいさつした。
テーラさんは軽く笑いながらゆかに座ってあぐらをかいた。
「先に名前を呼んだぼくに対し、なんとも丁寧なことだねえ~」
現在、テーラさんはベッドに腰かける俺……そしてそのひざに乗ったクマリーと向かい合っている。
「ぼくも今さらになってトープータオ・カヤンの作戦に参加させてもらうんだあ。十万バーツがほしいからねえ~。ちゃんと働けば今からでももらえるって話だしい」
テーラさんは垂らしたマフラーを右手でいじりながら続ける。
「で、ぼくはさっきローリン・ヒマと共に来たってわけでえ、一人一人にあいさつして回ってるんだよお。そして朝ごはんも提供してるんだあ~。……ポ~チャナ~」
ねっとりとした詠唱が室内に響く。
テーラさんは右手と左手を真横に出し、それを天井に向けた。
するとそれぞれの手の上に丸い白線が淡く浮かび上がった。
右手の円が時計回りに、左手の円が反時計回りに回転する。
円はすぐに白い色を持ち、皿のかたちになった。直径は十五センティほどだ。
じきに回転がとまり、テーラさんの両手に扁平な皿が落ちる。
テーラさんはうなずき、右手の皿をクマリーに、左手の皿を俺に差し出した。
「どうぞお、召し上がれえ」
「ありがとうございます。いただきます」
俺はもらったものを両手に持ち、じっと見つめた。
「……これ、皿ですよね」
「見てのとおりねえ~。美しいでしょお」
「はい。でも皿は食べられないのでは?」
「ぼくの皿は食べられるんだよお~。ウォーウェーン・クマリーを見習いたまえよう」
ねっとり返答し、テーラさんがあごをクマリーに向ける。
見ると、クマリーがはしっこをかじってもぐもぐ皿を食べている。
「お兄さんっ! テーラさんのお皿、とってもおいしいですよっ!」
「え、そうなのか……?」
おそるおそる俺は皿に歯を立てた。
その途端、なぜかコメをそしゃくしている気分になった。噛めば噛むほどうま味が出る。
「な……なんだ、この皿」
さらに食べ進めると、なぜか塩漬けの肉を食べているイメージが頭のなかに去来した。
「信じられない……」
さらにさらに皿をかじって飲み込むと、みずみずしいトマトやキュウリを食べている感覚におちいった。
最後には固形物を噛んでいるはずなのにスープを飲んでいるかのような錯覚が生じた。
「テーラさん……おいしかったです」
俺もクマリーも皿をすべて平らげて満足してしまった。
派手に噛んだような気もするが、皿のくずはどこにも落ちていない。手もよごれていない。
テーラさんは三白眼の下にあるまぶたを愉快そうに持ち上げる。
「ありがとお~。ジョージャーン(จ)の『皿』は相手の望む食べ物をその胃に送り込むのさあ。安全だし栄養もたっぷりだから安心したまえよう。そしてウォーウェーン・クマリ~」
あぐらをかいたまま、テーラさんがクマリーに接近して左手を差し出す。
「ウォーウェーン・クマリーが覚醒するには文字をなぞることが有効かもしれないらしいねえ。というわけで、ぼくのジョージャーン(จ)も食べなよお~」
その手の平には赤くจの文字が浮かび上がっている。
ただし俺のトータハーン(ท)とは向きが逆である。手を立てたとき、字が逆さまになるような刻み方だ。
とはいえ真正面のクマリーに対して手の平を水平に差し出した場合、当のクマリーからはちょうど逆ではない向きの文字が見えるわけだ。
クマリーは右人差し指でテーラさんの左手の平にふれる。
「では一気にいきます……っ」
まず真ん中あたりで時計回りの丸を書く。
次に丸の右横から右斜め下へと線を引っ張る。
右下に来たら線を持ち上げる。
全体の上側に達したところで上に張り出す弧をえがきつつ、左に寄る。
全体の左上よりも少し低い位置に着いたらそこで線をとめる。
これでジョージャーン(จ)の文字は完成だ。
「決戦前に……ありがとうございます! テーラさんっ」
クマリーがジョージャーン(จ)を宙の水平面に何回も書く。
「真ん中の丸を起点にしていったん右下に行き、そこで今度は大きく左上へと向かうところが……壮大です! とってもロマンのある字ですっ!」
「いい反応だねえ、ウォ~ウェ~ン・クマリ~」
さらに声をねっとりさせて、テーラさんが上体を揺する。
「同じものを吸収するにしても、受け取る本人次第でそれはおいしくもまずくもなる。ウォーウェーン・クマリーは文字という情報を自分のなかにきれいに盛りつけたみたいだねえ~」
そしてテーラさんが右ひざを立て、右手の平をその上に載せる。
「じゃ、二人ともそろそろ行こうかあ。十万バーツをもらいにさあ~」
次回「66.皿のジョー(จ)【後編】」に続く!
จ←これが「ジョージャーン」の文字。意味は「皿のジョー」……トータオ(ต)やソーサーラー(ศ)とは異なり、丸を書いたあとは左下ではなく右下へと線を引っ張るのがポイントですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
テーラ(แต่ละ)→それぞれの
ジャーン(จาน)→皿
コーングルアイグルアイ(ของกล้วยๆ)→たやすい
ポーチャナー(โภชนา)→食べ物




