64.歯のフォー(ฟ)【後編】
決戦前の夜、人面ムカデに滅ぼされた村を訪ねた俺とレックとセンセーは乳白色の髪と瞳を持つ若い男――ヨムと遭遇した。
笑顔を貼りつけたヨムは、黒い前開きの上着を揺らして裸の胸の一部と割れた腹筋をさらしていた。
対する俺たちは左から俺、レック、センセーの順に立ち、ヨムと向き合う。
小鳥の姿をした炎の兵隊と淡い月光が周囲を照らしている。
当のヨムは右手の空きビンを軽く振りながら、少々高めの声を村の広場に響かせる。
「トータハーン(ท)、トーパタック(ฏ)……そしてフォーファン(ฟ)」
構えられた俺の弓矢にもレックの突き棒にも動じず、五メート離れた位置から軽い口調で言葉を続ける。
「そもそもあなたたちは、なぜこのタイミングでこの村が凶暴な精霊たちの襲撃を受けたのか理解していますかねー」
広場を囲む竪穴式住居を見回しつつ、ヨムが含み笑いをする。
「答えは、ンゴーングー(ง)が死んだからですよ」
「……リアンゲか」
図書館塔で会った彼のことを俺は思い出す。
リアンゲは、緑がかった長髪とは虫類のような目を持った壮年男性。
彼こそがンゴーングー(ง)の文字保有者だった。
だがリアンゲはスーンを殺した罪をホーノックフーク(ฮ)に見抜かれたのち、ノーヌー・キアによって殺された。
(カヤンは言っていた。壊滅した村が発見されたのは俺たちがホーノックフークに招集されて図書館塔につどった日の午後だったと……。リアンゲが死んだのはちょうど正午過ぎ……タイミングが重なっている。このリアンゲの死がきっかけになって人面ムカデが解き放たれたと仮定することは可能)
しかしそんなことは、ヨムに聞かされる前から考えていたことだ。
そもそも俺がこの村を訪れたのは、ンゴーングー・リアンゲの痕跡を確認するためだ。
(シアムの漏らしていた「蛇みたいな縄」……ここからリアンゲを連想するのは自然だった。リアンゲはンゴーングー(ง)……すなわち「蛇のンゴー」の保有者。加えて、色あせた縄を蛇のように使っていた)
おそらくリアンゲは自身の縄をこの村の近くに放し、その化け物じみた力によって白いもやのなかにいる人面ムカデの精霊を封じ込めていたのだろう。
(これをホーノックフークは知らなかったようだな。とすればリアンゲは意識的に村を縄で守護していたわけじゃない。ンゴーングーの力を宿した蛇のような縄が自律的に動き、勝手に村を守っていたと考えるのが妥当。ただし遠隔からンゴーングーの恩恵は受けていたんだろう。だからリアンゲが死んだことに連動して、その縄が朽ちてしまったわけだ)
リアンゲがなぜそのような縄を放っていたかは分からない。
(いや……以前ディアオはリアンゲについて人間の持つすべての価値観を許容する大きな度量を持っていると評していた。そこを突かれてスーンにそそのかされたわけだが……リアンゲがすべてを許容しようとするなら、罪のない村人も危険なピーも両方守ろうとするのかもしれない。両者にいざこざが起こらないよう凶暴なピーをひとところにとどめて封じ込めるその縄こそが、リアンゲの思いをあらわしているんじゃないだろうか)
そして人面ムカデを封じていた縄がリアンゲの死によって朽ちたのならば、その縄はどこに行ったのだろう。
シアムに焼かれた可能性もある。
しかし俺は、縄は村に向かったのではないかと思う。
(その蛇のような縄がリアンゲから独立していたとすれば、ンゴーングー(ง)の恩恵が途切れたあともしばらくは自律して動けたはずだ。『縄』が弱ったことで白いもやから人面ムカデは村に侵入した……それを感じ取った縄は村人を守ろうと村そのものに行った……これが一番ありえる流れだ)
俺はこの朽ちた縄を探すために村を訪ねたわけだ。
もし縄が生きていれば協力できるかもしれないし、仮にもう動かない状態であってもシアムや人面ムカデを牽制する道具に転用することは可能だろう。
弓に矢をつがえてヨムを見据えたまま俺はそんなことを考えていた。
なお以上の考えはすでにカヤンを始めとするみんなとすでに共有している。
ここでヨムは俺のほうに首を動かし、薄くまばたきした。
「トータハーン(ท)……あなたはンゴーングー(ง)の死と村の壊滅に関する衝撃の事実を聞いてもあんまり驚いていないね。しかもその驚きはンゴーングーに向けられたものじゃない。どうして俺がそのことを知っているかという疑問を反映したものにすぎない」
「……ヨム」
やや左に移動し、俺は言う。
「おまえも、今までリアンゲの自律した縄に封じ込められていたクチだな」
「あらら、バレちゃったかー」
ヨムはあっさりとみとめ、左手で自分の頭を軽くたたいた。
「まあ俺がトープータオ(ฒ)と接触したのはンゴーングー(ง)が死んだあと。とはいえあなたたち目線だと『じゃあ今までこいつはなにをしていたんだ』って話になる。そこを考え合わせれば、自然と答えにもたどり着くってわけだねえ」
右手のビンを振り上げ、宙で回転させる。
「ついでに言うと俺が封じられていた場所はこの村の近くじゃない。そして俺は蛇のような縄が弱った瞬間、ンゴーングーの死を確信すると共に縄をビンですりつぶした。さらにその縄の『味』を追い、世界各地に散らばった縄たちを完全に戦闘不能にしてやったんだよ」
ビンの細い部分を逆手でつかみなおし、ヨムが口の端を上げる。
「本当はンゴーングーが死んだあとも、この近くを守っていた縄はかろうじて人面ムカデたちを封じ込めていた。でも俺がその縄にとどめを刺した。万一息を吹き返せば再び俺を封じるかもしれないと思ってね」
「スンヤーガート」
瞬間、レックが唱えた。
右手に持った突き棒の柄を動かし、臼のかたちをした穂先を勢いよく引き戻す。
すると正面のヨムがレックに吸い寄せられた。
肩を組むように、レックが左腕を相手の首に回す。
「ヨム……さっきの言葉が本当ならオレチャンも君を許さない」
「怖いなあ、トーパタック(ฏ)……さすがは処刑と暗殺を請け負う『突き人』の一族だ」
言いつつ、ヨムのほうも右腕を持ち上げてレックと肩を組んだ。
「でもあなた、一族からすでに抜けたんでしょ? だったらもう正義だなんだとこだわる必要はないはず。どうかな、俺と一緒にホーノックフーク(ฮ)を殺さない?」
「殺さない」
レックは即答した。
ヨムは口をとがらせる。
「ちえー」
「のこのこ現れたのが運の尽きだ」
弓を構えた俺は音なくヨムの後ろに回り込み、その後頭部に矢尻を当てた。
「ペラペラ話したのも……リアンゲの縄から解放されたピーがほかにもいると明かすことで俺たちを混乱させようとしているからだな」
「く……っ、そこまで見抜くとはまずいね。……こうなったらもう俺は逃げられ――」
ヨムが、声に焦りをにじませる。
直後、薄赤い舌を出す。
その舌には赤黒いコークアット(ฃ)の文字が刻まれていた。
「――る!」
同時に、レックが押さえているヨムの姿がビンのように割れた。
ビンの破片が空中に溶ける。
そして七メート先の右前方にガラスに似たヒビが走った。
ヒビが割れると共に、ヨムがそこに出現する。
まるで書き割りの背景を砕いてその後ろから現れたかのようだ。
「甘かったねえ。ウォーウェーン(ว)に文字を刻まれたわけじゃない俺を……文字保有者と確定していいかあなたたちは迷っているんだよ。だから殺すこともできなかった。いったん拘束してホーノックフークに突き出すつもりだったねー」
俺たちと目を合わせたまま、ヨムが後退する。
「じゃ、ここは退散っと」
またヨムの姿が割れ、今度は竪穴式住居の屋根の上に現れた。
ここで沈んだ低音の声が差し挟まれる。
「ファンプ……」
センセーがすす色の瞳をよどませながら詠唱したのだ。
するとヨムが両手で左右のほおと口の前面を押さえ、屋根から転がり落ちた。持っていたビンも落下し、砕けた。
「い……いたっ! 痛いッ!」
「すまないな……ヨの字……君がそうやって逃げることはすでにカヤの字から聞いていたのだ……」
地に落ちたヨムの前に移動し、センセーがしゃがむ。
「君の歯をすべて虫歯にさせてもらった……なに、いつでも治せるから安心するように……とはいえこのままだと絶命してしまうな……ちょっと緩めるか……」
センセーは上着の内ポケットから縄を出してヨムを縛ったあと、右手でその口元をさっとなでた。
ヨムは目に涙をにじませながら、荒らげた息を落ち着ける。
「フォーファン(ฟ)……これから俺をどうするつもりですか」
「ジョの字のジャンク船でラーの字のもとまで運びたいところだが……まだ君をジャンク船に乗せるわけにはいかない。君とコークアット(ฃ)の力が未知数である以上……ジョの字を殺すことも可能かもしれないからな……」
自身の眼鏡に左手をふれさせ、センセーが言葉を継ぐ。
「よって、しばらくはこの村でじっとしてもらう……ヤーサロップ」
「な……なにを……う」
センセーの新たな詠唱を聞いたヨムは、その場で目を閉じて動かなくなった。
立ち上がり、センセーが深く息をつく。
「本当はカヤの字に見てもらうのが確実だが……決戦前のタイミングでこの男をわれわれの近くに置いておくのは危険だからな……だが仲間がいるかもしれんから……人面ムカデとの戦いが終わるまでヨの字のことはルの字のミツバチに監視してもらうのがいいだろう……化け物係の連中には荷が重いしな……」
ついでセンセーは鐘のイヤリングでカヤンとルディに連絡を入れる。
その後、俺たちは村の探索を再開した。
が、リアンゲの縄を見つけることは結局できなかった。
(見つかったのは村人たちの血の跡だけ。無駄足だったんだろうか……だがヨムを捕らえることができたのは収穫か……)
そしてハチミツでできたミツバチが飛んできてヨムの頭頂部にとまったことを確認し、俺たちは村から白いもやのなかに戻った。
* *
カヤンたちのいる高床式住居に帰ったあと、センセーが玄関前で足をとめた。
レックを先に行かせたあと、すす色の瞳を俺に向ける。
「アーの字……クマの字を起こしてくれないか。きょうの仕事は終わったから……約束どおりオレの文字を学んでもらいたいのだ」
「分かった。クマリー……センセーが字をなぞらせてくれるらしい」
俺はクマリーに声をかけ、へその近くを軽く揉む。
すると俺のへそからクマリーが出てきてもとのサイズに戻った。
対するセンセーは上着とシャツのボタンを外し、分厚い胸板をあらわにした。
「【ฟ】フォーファン・センセー、つかさどる字は歯のフォー。クマの字……歯とは外の世界の一部を噛み砕き、おのれの内部に取り込むために必要なものだ……心のなかにも、そういう歯はある……」
センセーの胸には、赤いฟの文字が刻まれている。
クマリーはつばを飲み、右人差し指をフォーファン(ฟ)にすべらせる。
「はいっ、センセー……っ! では噛み締めます……っ」
フォーファン(ฟ)の書き順はプラトゥのポーパーン(พ)とほぼ同じである。
まず左上に時計回りで丸を書く。
ついで丸の右側から線を下ろす。
左下に来たら右斜め上に引っ張る。
すでに書いた丸と同じ高さに達したところで右斜め下に方向を変える。
全体の右下に届いたタイミングで線をまっすぐ上げる。
丸よりも高い位置に持ち上げてから線をとめる。
こうしてフォーファン(ฟ)の文字が完成する。
「ありがとうございましたっ、センセー!」
クマリーが空中にフォーファン(ฟ)の字を何回も書く。
いや……よく見るとかたちが似ているポーパーン(พ)、ポープン(ผ)、フォーファー(ฝ)、ロージュラー(ฬ)も宙に書いている。
「やはりプラトゥ師匠が言っていたとおり似た字も多いですけれど、クマリーは混乱しませんっ。センセーやプラトゥ師匠、ルディさん、ロップお姉さん、エーンお姉さんの顔を思い浮かべながら書くと……みなさんがそれぞれ違うようにそれぞれの文字も違う字であることが分かりますからねっ」
「字をそれ単体でなく人と関連させて覚えるとは……やるものだ、クマの字……」
眼鏡越しにクマリーを見つめ、センセーがほめた。
クマリーは照れつつ、恒例の質問をする。
「ところでセンセー。センセーのフォーファン(ฟ)とロップお姉さんのフォーファー(ฝ)は同じ音でしょうかっ」
「オレのフォーファン(ฟ)は低子音でヤーの字のフォーファー(ฝ)は高子音だ……プラの字のポーパーン(พ)が低子音でルの字のポープン(ผ)が高子音であるようにな……高子音と低子音では声調というものが異なる……」
センセーは目を細めて答えた。
「声調は……ややこいぞお……」
「みたいですねっ。スープパンさんからも聞いていますよ~」
「そうか、スープの字からな……」
スーの字と言った場合、スーンと区別がつかなくなるのでセンセーはスープパンのことをスープの字と呼ぶ。
* *
それから俺は建物の個室に入り、ベッドで眠った。
充分に体を休めたあと、俺は翌朝の未明に起こされた。
誰かが毛布越しに俺の腹に乗っている。
ウキウキしているような高い声を発し、その少女が言う。
「アーティット~っ! バナナよこせー!」
「ヒマなのか」
……どうやら決戦当日のきょうになって、また追加メンバーが来たらしい。
次回「65.皿のジョー(จ)【前編】」に続く!
ฟ←これが「フォーファン」の文字。意味は「歯のフォー」……似たような字も多いですが、ポープン(ผ)、フォーファー(ฝ)とは違って丸の向きが左側で、ポーパーン(พ)よりも最後の線が長くて、ロージュラー(ฬ)とは異なり丸が一つであることに注意したいですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ヒマ(หิมะ)→雪
ファン(ฟัน)→歯
スンヤーガート(สุญญากาศ)→真空
ファンプ(ฟันผุ)→虫歯
ヤーサロップ(ยาสลบ)→麻酔薬




