204.【ข】たまごのコー・バンダー【その3】
燃える巨大イノシシが帝国首都の上空を離れた。
その焼きイノシシはアーティットの使役する兵隊の複合体である。
トータハーン・アーティットはグレープ国から魂を介して陸の兵隊と炎の兵隊に移動を命じた。
ただし離れた場所からの命令なので完璧に伝達することはできない。
だから帝国首都に残ったスープパンに移動を支援してもらったのだ。
スープパンの詠唱を受けて膜をまとった巨大イノシシは、彼女の意思によっても宙をすべった。
燃えるイノシシが去ったあと、首都に青空が返ってくる。
しかし、首都を制圧して帝国軍を撤退させるという策をアーティットたちが投げ出したのではない。
先週の火曜日から今週の月曜日までの一週間弱、巨大な焼きイノシシは首都民の頭上を領し続けていた。
夜空や青空が奪われたこと以外に首都民の生活に支障はなかった。
巨大イノシシを落とす気はアーティットにもない。が、その炎が落ちてきて首都を焼く可能性もゼロではない以上、心の底で住民は恐怖していたはずだ。
すでに恐怖は植えつけた。したがって頭上から炎を取りのぞいても、帝国首都へのおどしは無効にならない。もう一度アーティットが同じことをしてもいい。わざわざマフマー宰相や記者たちの見ているなかで首都上空を炎で覆ったのも、簡単にそれができると彼らに印象づけるためだった。
また、明らかに交渉材料として打ち上げられていた巨大な炎が取りのぞかれれば、首都民は「帝国が譲歩の姿勢を見せたから首都上空が開放されたんだ」と思うだろう。
今後の条約交渉においてグレープ国が有利になる空気が自然にできあがる。
これを有効な戦略と判断したからこそ、バンダーは巨大イノシシの炎を動かしてぶつけることを認可したわけだ。
標的は、北東からグレープ国に向かっているガルーダ(クルット)の赤いベッタレット。
炎の砲弾となった巨大イノシシが、帝国上空を猛スピードで飛行する。
進行方向にいた鳥たちは柔らかい膜と風圧に優しく押され、無傷でその場を離脱することができた。鳥一羽どころか虫一匹さえも犠牲になっていない。
一方、首都の政庁前に残ったままのスープパンは手もとに半透明の箱を出していた。
立方体の六面はそれぞれ巨大イノシシの炎を別角度から捉え、映し出している。
そのなかの一つが、イノシシの主観視点を映像にしていた。
首のない赤い鳥が真正面に映る。真下の人家が豆粒――いや、ごま粒に見える。
鐘のイヤリングにささやくスープパン。
「首なしガルーダに接敵。人家が近くにあるけどなにがあっても被害は出さない。あとはアーティットさんが指示して」
『コープクン。……パオソップ』
遠隔からの詠唱に反応し、イノシシがガルーダの前に回り込む。
イノシシの体は帝国首都に滞空していたときより燃え上がっている。が、スープパンの出した膜で覆われているため、あたりに飛び火することはない。
ガルーダの進行方向に立ちふさがり、前進をとどめる。
万一激突してもスープパンの膜が変形してガルーダをも包み込み、被害を防ぐことになっている。
とはいえ、ガルーダの体を構成するベッタレット内部にも人がいるかもしれないので派手な攻撃はできない。
日が落ちたあとも、燃える巨大イノシシは宙を走り、首なしガルーダの進行を邪魔し続けた。
* *
【ข】
グレープ国の王城付近からも、北東が赤くなっているのが見えた。
そして予備のランプをつけたバンダーは、ガルーダの羽根によって壊された小屋に近づく。
ボロボロになった大きな赤い羽根をむしり、なかを確認した。
それもベッタレットの一部のはずだが、ほかのベッタレットとは違って帝国兵は内部のどこにもいない。
(そもそもチーネが巨大ベッタレットに人を入れていたのは、絵の具のように凝固した「いのちの色」の体積を少なくするためだったと考えられる。代わりに本命のガルーダのなかにいのちの色を詰め込みたかったんだろう。そうすれば、おそらくベッタレットの性能が上がるから)
バンダーはアーティットのもとに飛んだパイロとクマリーを見上げつつ、鐘のイヤリングで連絡する。
ソールーシー(ษ)、トーターン(ฐ)、ソーサーラー(ศ)、ソースーア(ส)、ポープン(ผ)、フォーファー(ฝ)、トートゥン(ถ)の七文字を順に書いた。
だが指示はすべて同じだ。
「王城に来い」
大穴があいて崩壊しているものの、分かりやすいのでそう言った。
薄桃色のかすみがまだ王国全体を取り巻いているので、守りはひとまず問題ない。
さらにジウは、グレープ国兵がかすみを自由に出入りできるようにしてくれた。
バンダーは自分のもとに駆け付けてくれた自国の兵たちにも命令する。国境線の外に倒れたままの帝国兵がいたら、回収して手厚く保護してくださいと。
ベッタレットに捕らわれていた帝国兵はすべて助けて捕虜にするよう指示していた。
クルムにしても、正気に戻した帝国兵を全員漏れなく捕らえなおしている。
が、もしかしたらまだ放置されている兵もいるかもしれない。
その人が自力で起き上がれなかった場合、餓死する危険性がある。ベッタレット内部にいたときは呼吸も食事も必要なく生命を維持できていたようだが、解放されたあとはそうもいかない。
かつ、助けるのは人だけではない。
ジウの相手にした緑の牙付き象のベッタレット――その牙のなかには人のみならず軍馬もいた。ジウは馬も無傷で助けたわけだが、まだ国境付近に馬が残されているのなら飼料を与えなくてはならない。
ただしバンダーは、ピンピンしている帝国兵を見つけた場合はすぐに引き返すよう自軍の兵に命じてもいる。
交戦状態になれば血が流れるだろうし、元気な帝国兵が近くにいるなら倒れている人や馬も心配ないからである。
全体の統率はグレープ国の軍師に任せた。
バンダーはこの国の王子であると同時に文字保有者なので、仲間と共に別の脅威に立ち向かわなければならない。
* *
火曜日が訪れても、チーネは上空でアーティットの攻撃を休まずかわし続けていた。
クマリー・パイロに合流されたあとも、不眠不休のまま疲れを見せない。
みずからに蓄積したいのちの色を消費し、疲労を抑えているのだ。
アーティットが槍を抜き、チーネの下から柄を振り上げる。
直上に飛び出したチーネはあらためて北東に桃色の目を向けた。
「イノシシは神鳥に勝てませんよ」
チーネの視界では、ついにガルーダが燃えるイノシシを捕らえたところだった。
その両翼をイノシシに突き刺すと、炎の体は膨張したのち爆散した。
プルーンとボックを使役しているアーティットの頭を痛苦が襲う。
だがスープパンの張っていた膜も膨らみ、炎ごとガルーダを飲み込んだ。
おかげで地上の人家や木々に被害は出なかった。
そのあと膜は無理にガルーダを封じず、表面の一部に穴を作ってなかから逃がした。
膜は収縮して小さな箱の形状をとり、帝国首都のスープパンのほうへと飛んでいく。
首なしガルーダは一直線にグレープ国を目指す。
あっという間に北東の国境線に到達した。
刹那、グレープ国の中央から薄桃色のかすみが広がり、領土全体を雲のように覆った。
ガルーダはジウの展開したその上を越えようとする。
前方に首の断面を向けると、かすみのなかから大きな岩がせり上がってきた。
トラニーが地面を上昇させて一本の塔を作ったのだ。
塔の頂上には桃色のあずまやが建っている。大きさは、ガルーダとほぼ同じである。
クルムの出現させたそれは、人間のみならずただの物体さえも引き寄せることが可能だ。
ガルーダが赤い翼を羽ばたかせ、突っ込んでくる。ダーンナーの言葉を借りるならば、「神速」と表現してもいいかもしれない。あずまやが崩れる。
突進してきたガルーダの首の断面を、シーフーハーター状態のミーが頭突きで受けとめた。
圧倒的にガルーダのほうが巨大だが、それでもミーは神鳥の勢いを極限まで抑えた。
塔の頂上の地面にガルーダが腹部をつけたところで、オレンジ色のミツバチたちが襲来する。
ルディのミツバチがねばりけのあるハチミツに変じ、ガルーダの赤いベッタレットの羽毛を地面に付着させる。
「【ฝ】フォーファー・ヤーンロップ、つかさどる字は蓋のフォー。プラタップ・トラー」
続いてヤーンロップが唱えると、直径四メートほどの印鑑がガルーダめがけて降ってきた。
ガルーダに比べれば豆粒以下の大きさだ。
しかしフォーファー(ฝ)の刻まれた面が食い込むと、ガルーダの動きが急激ににぶくなった。
さらにトゥアムの出現させた巨大な袋が大口をあけて首なしガルーダを丸飲みにした。
袋の口のある方向から別の袋が現れ、さらに丸飲みにする。
暴れようとしても二重の袋に封じられ、すぐには脱出できない。
ここで竪杵にまたがったパイロが真上に浮く。
クマリーのサポートを受けているため、赤と青に体を光らせている。
パイロがチンを何回も打ち鳴らし、その反響によって首なしガルーダのベッタレット内部を把握する。
相手が動いていると精度が落ちるので、文字保有者たちにガルーダの動きをとめてもらったうえで調査しているのだ。
プルーンとボックがガルーダを足止めしていなければ、ここまでのスムーズな連携は不可能だっただろう。すべては無血での勝利を目指すうえで、絶対に必要なことであった。
調査結果をパイロが言葉にする。
「……なかに人は確認できない。代わりに大きめの精霊たちがまばらに捕らわれている。ほかのベッタレットと異なり、ガルーダの核だけはひときわ頑丈に作られているようだ」
「素晴らしい情報だ」
バンダーがうなずき、塔の頂上に集結した文字保有者たちに声を張り上げる。
「まずはピーを助けよう!」
「ラップサープ」
その場にいるチーネ以外の全員が声を重ねた。ちなみにスープパンも遠くで同じ言葉を口にしている。
トゥアムの二重の袋を破り、首なしガルーダが大きく飛翔した。
燃えるような赤い翼も雄々しいその体躯も、間近で見るとより神々しい。
次回「205.【ข】たまごのコー・バンダー【その4】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
パオソップ(เผาศพ)→火葬する




