198.【ฉ】チンのチョー・パイロ【その2】
チーネにはパイロの願いが見えているようだが、そもそもチョーチン・パイロの願いはアーティットと結婚すること――。
――だった。
四年前、ただの村人だった自分と村の子どもたちが盗賊に殺されそうになっているときに、まだ文字保有者にもなっていない傭兵のアーティットが現れて盗賊たちをこともなげに始末した。
結婚したいと思うほどにその姿に魅せられた。
パイロが自認グラハンとなったのは、精霊グラハンと同様に空を飛び、アーティットのもとまで会いに行きたいと望んだからだ。
しかしファと協力してアーティットと戦った際、君の気持ちには応えられないという返事を受けた。パイロが男性であるのが問題なのではない。アーティット自身がそういうことをよく分からない男であるのが問題なのだ。
それでもなおパイロの胸にはアーティットへの思いがくすぶり続けている。
もちろん結婚をことわられているので、これ以上しつこく迫ることはない。
パイロの胸にはアーティットへの恋慕以外の感情も当然ある。
彼――パイロは人々が素朴に生活する「風景」を愛している。「空気感」と言ってもいい。
グレープ国と比べるべくもないほど小規模だが、パイロの出身地である村も細々と稲作を営んでいた。
田植えから収穫までの一連の作業も好きだったが、一番好きなのは脱穀だ。
彼の村では竪杵で稲をたたき、ザルにかけて穀物をより分ける。
脱穀とは自然の恵みを人間が受け取る作業でもあると村人パイロは理解している。だからその風景が、自然と人間とをつなぎ合わせているとさえ思うのだ。
そんなパイロが、金色の穂波をたたえるグレープ国になにも思わないわけがない。
かつ、自然と人とのつながりはグレープ国だけでなく現在敵対しているジャッグラワットにも及ぶだろうと信じている。
なぜなら収穫して脱穀した穀物は、人に運ばれ遥か遠くの人の飢えをも満たす。
竪杵にまたがり、ザルを両手に持つグラハンというピーがこの世には存在するが、そのグラハンこそパイロの精神性そのもの。
自然と人間との橋渡しを務める存在としてグラハンは、それを象徴する脱穀作業の道具を持つ。飛行することでただの人間の枠には収まらないのだと証明する。
グラハンは自然と人間との境界にまたがる空気に乗って飛んでいる。
進む先がグレープ王国だろうが帝国だろうが、ほかの大国だろうが関係なく国境を越えて飛ぶだろう。
ザルの代わりに楽器のチンを持つのだとしても、パイロとはそういう自認グラハンだ。
いずれの人間も自然のなかで生きている尊い存在。
だからこそ同じ尊い存在同士で争ってほしくないし、そのいのちが危機にさらされているなら守りたい――これがパイロの根本に潜む思いである。
今、もっともパイロのかなえたい願いとは、血を流さずに戦争を終結させること。
アーナージャック・グレープに広がる金色の稲穂とそれを収穫・脱穀する人々の営みを守ること。
とくに盗賊に襲われた四年前を思い出すと、この穏やかな風景が蹂躙されることなど絶対にあってはならないと強く思う。
「――わたしもあなたと同じ村の出身ですから、金色の稲穂が揺れるグレープ国の美しい風景を守りたいと願っています。だから帝国軍のグラド総司令官に雇われ、グレープ国を全力で占領しようとしているんですよ」
パイロの竪杵にまたがったチーネが対面の彼にささやく。
だが不可解な発言だ。
グレープ国を守りたいと言うチーネが帝国の進軍に協力しているのはなぜなのか。
「よく考えてくださいパイロさん。ここでグレープ国が防衛を成功させたらどうでしょう。しばらくは平和が手に入ります。しかし時間がたてば、豊かなグレープ国の土をねらって他国がまた戦争を仕掛けるのは明白です。そのたびにグレープ国は戦火にさらされます。そうなるよりは、いっそのこと、ここで帝国に占領されたほうがいいでしょう。グレープ国が帝国領に吸収されれば、その軍事力を背景にしてこの地は恒常的に戦火をさけることができるようになりますよね」
「そう占ったのか、チーネさん」
「占い師とは、見る専門家。ここで負ければグレープ国は真の幸せを手にする――そんな未来が見えますよ。だからパイロさん、一緒にこの美しい土地を制圧しましょう」
「貴方の気持ちには応えられない」
くしくもパイロは、前にアーティットが口にした言葉と似たようなことをつぶやいた。
「私はアーティットと仲間たちを裏切れない」
「ずいぶんご執心ですね、とくにアーティットさんに対して」
「チーネさんこそ、しがないグラハンにすぎない私にこだわる意味はないだろう」
「いえ、あるに決まっているでしょう」
チーネは左人差し指をまなじりにふれさせて目を赤くした。
目の前の引き締まった上半身をなめまわすように見る。
「やはりパイロさんの背中の切り傷は大小合わせて十六ですか」
背中側を直接見たわけでもないのに、断言した。
「わたしたちをかばったときにできた、まさしく英雄の傷です」
「違う。貴方が称えるべきは盗賊を殺したアーティットだ。私の傷はなにもできなかったあかしだ」
「わたしはアーティットさんよりもパイロさんのほうがよほど素晴らしいと思います。だって最初から力があるなら人を助けることなんて誰にでもできるでしょう。本当に勇敢で尊いのは、自分が無力であるのを自覚しながら誰かを助けようと動く人間のほうですよ。あのときのこと、あらためてコープクンです」
「……マイペンライ」
「ふふっ、まじめなグラハンさんですね」
さらに左右のチンを持ったパイロの手の甲に手をかぶせ、ゆっくりと揉む。
「あなたがわたしをかばってくれたこの手の感触は今でも忘れられません。水曜日の夜にパイロさんの手を揉んでしまったのも、わたしの手がむずむずして我慢できなかったからですよ」
「ならいくらでも揉めばいい」
パイロも無意味にチーネと話しているのではない。
現状、巨大ベッタレットを侵攻させてグレープ国を襲っているチーネはもっとも抑えなければならない相手だ。
話に付き合うことで彼女の行動を封じられるならば、グレープ国にとっても文字保有者にとっても都合がいい。
チーネは瞳を黒に戻し、パイロの両手を執拗にほぐす。
「パイロさんのいのちの色――黄色がお手々から、ぴゅぴゅーってどんどん出てきますね。昔よりもさらにきれいな色をしています」
「私の誕生曜日が月曜日だからだな」
パイロは横穴の先で臀部を見せる青色のモグラにも注意を払いつつ言葉を受ける。
「そういえばチーネさんの誕生曜日は何曜日なのだ」
「そうですねー」
わざとらしく品を作りながら、チーネがパイロへとさらに身を引き寄せた。
「わたしと嫁ぐというのなら、教えてあげてもいいですよ」
「ごめん、そういうのはちょっと……」
「迷いなく拒みましたね」
チーネはチーネで楽しんでいるようで、愉快そうに笑い声を漏らす。
相手の戦力をこの場に封じるために話を長引かせているのはチーネも同じだ。
ベッタレットたちとチョーチン・パイロの相性は悪いと判断したチーネは、当のパイロを地中にクギ付けにしているのだ。
最初からパイロが仲間を裏切るとは思っていない。
そしてグレープ国王子であるバンダーが追ってきたら確実に捕らえようと考えてもいたが、さすがにバンダーは自分の立場が分かっているようで深追いをしてこない。
「まあいいでしょう、パイロさん。こうなったらわたしの協力するジャッグラワット側を盗賊と思い込んでくださいな。その前提のもと、あなたたちはあのときのアーティットさんのように盗賊を始末すればいいんです。その赤い血の先で、平和を手にできるというのなら見せてください」
「それは約束しかねるな」
パイロが一対のチンで、チーネの上体をそっと挟む。
「血は流れない。流さない。この戦争の先にあるものは、穂波のような金色の風景だ」
「ではその穂波が、炎に揺らめくことのないよう祈りましょう」
チーネの返しと同時に、臀部を向けたまま巨大モグラのベッタレットが後退してきた。
しっぽを振り回しつつ、チーネとパイロに青い臀部を激突させた。
* *
【ฝ】
土曜日の夜が終わる。
日曜日の朝、ヤーンロップは東の国境線で目の前のかすみを見つめていた。
ヤーンロップの設置した壁のような透明の「蓋」の向こうにジウのかすみが展開されている。
そのかすみに、首なし虎のシルエットが映っている。
安全圏から分銅などを落とすヤーンロップだったが、虎のベッタレット内部に捕らえられている帝国兵を死傷させるわけにはいかないのでなかなか決定打を与えられないでいた。
そんなときだった。ヤーンロップから見て北西のほうから、にび色のなにかが飛来してきた。
グレープ国兵の望遠鏡をのぞいてみると、さらに緑の瞳が五つ見えた。
(ムアンルアン・グアンからの援軍……!)
にびいろの「彼女」はぐんぐん近づき、ヤーンロップの手前のかすみに飛び込んだ。
首なし虎のシルエットの横に、四つん這いのクマのようなシルエットが現れる。
無論、新しく登場したほうには首がある。
かつ、その輪郭から耳が四つあることが分かる。
サイズとしては虎のほうが大きいものの、ヤーンロップにとっては「彼女」のほうが頼もしい。
虎が飛びかかるのが見えた。
が、もう一体は虎のわき腹をすり抜け、右後ろ足の一部をたやすくえぐり取る。
彼女の手に帝国兵のシルエットが重なった。
意識が混濁したときのような、兵隊のうつろな声が聞こえる。
「こ、これは伝説の……?」
「【ส】ソースーア・ミー、つかさどる字は虎のソー。帝国兵さん、安心してね。ワタシがあなたたちを助けるから」
彼女……ミーのほわほわした声も、かすみの向こうから響いた。
「セーンファイ」
兵を地面に置いたあと、シーフーハーター状態のミーが虎に向き直る。
たちまち、ミーのシルエットが横線の重なりのようになり、首なし虎を通り過ぎた。
新たに二人の帝国兵を右手と口で救出している。
「あー・うーうーう・えーういーうーあーあー!」
なにか言ったようだが、人をくわえているため子音がハッキリ聞き取れない。
しかしヤーンロップの左耳は正確にミーの言葉を理解した。
(อย่าดูถูกแมงสี่หูห้าตา(ヤー・ドゥートゥーク・メーンシーフーハーター!〔シーフーハーター、なめないで!〕)
力んだためか金がごとりと後方に落ちた。
ヤーンロップはその落とし物を見なかったことにして、ミーに手を合わせて感謝した。
次回「199.【ฉ】チンのチョー・パイロ【その3】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ヤー(อย่า)→○○するな
ドゥートゥーク(ดูถูก)→見下す
メーンシーフーハーター(แมงสี่หูห้าตา)→シーフーハーター




