164.【ร】船のロー・プリア【その5】
【๑】
* *
竜の胃のなかにいた女は自分もウィマーンであると名乗ったあと、プリアの両足首をつかんだまま語る。
――かつてスーンは彼を追ってきたスカティに、しばらく追跡をやめるよう要求した。
その見返りとして数字の精霊を返却するだけでなく、瀕死のウィマーンを復活させることまでした。
もともとウィマーンは青い鱗を持つマンゴーンだった。
しかし当時のウィマーンの左半身は病気によって腐敗しきっていた。
体に連動して魂の半分も腐っている状態だ。
スカティはピーの依り代のラーンソンとして治癒の力を持つありとあらゆるピーをその身に降ろしたが、それでもウィマーンの腐敗をとめることはできなかった。
そこでスーンはウィマーンの腐敗した左半身を切り離し、代わりに別のマンゴーンの左半身をウィマーンの右半身にくっつけることを提案する。
さまざまなものを指輪のように着脱できるウォーウェーン(ว)の力を使えばそれを安全におこなうことが可能であるし、ほかに方法はないと言う。
スーンのことをスカティは信用していないがウィマーン自身がそうしてほしいと頼むので、スカティは最終的にその提案を受け入れることにした。
そうなれば新たに合体させる左半身が必要になる。
ウィマーンの体に適合するような体でなければならない。
体はすぐに見つかった。
いや、体のほうがウィマーンのもとにやって来たのだ。
ウィマーンはマンゴーンの姫である。
ちょうどウィマーンの体にそっくりな従者がいた。その従者がウィマーンの身を案じて「自分の体を捧げます」と申し出たのだ。
緑の鱗を持つマンゴーンだった。
ためらわずにウィマーンは、従者の申し出を受け入れた。
こうしてウィマーンの腐敗した左半身は切り落とされ、代わりに緑の左半身が元の右半身に接合されたわけだ。
スーンは寸分の狂いもなく、その施術をやってのけた。
青い右半身と緑の左半身を手に入れたウィマーンの体は健康そのものであり、問題なくマンゴーンの全身を動かすことができた。
スカティによれば、復活したウィマーンの魂には二つの色があるらしい。
青と緑だ。ただし青の成分のほうが多い。
二色は完全には混ざらずマーブル状に渦を巻いている。
ただ、スーンは二体のマンゴーンの体だけでなくウィンヤーン同士も接合させていた。腐った部分を取り除いて新しい部分を合体させる工程は体の場合と同一だ。
ウィマーンの自我を保つ必要があるので従者の自我は殺すことになる。
その条件を守りながらウィマーンと従者の魂の接合部をピタリと合わせるためには、どうしても削り取らなければならない箇所があった。
互いを思い合う人間的な心である。
従者が姫を思う心は従者の自我の肥大化につながるし、姫が従者を思う心はその自我の肥大化を許容してしまう。
スーンは二体の魂からその部分をそぎ落とした。
しかし、その魂の部分がなければウィマーンは完全な魂のかたちを取り戻すことができない。
よってスーンは落とした魂の破片を合体させた。
ウィマーンの肉から作り上げた体にそれを定着させ、「魂の飛び地」として成立させたのだ。
人間的な心に合わせて人に似た形状となっているが、魂の飛び地もマンゴーンと同一のピーであり、ウィマーンである。
マンゴーンの体も飛び地もウィマーンの一つの自我によって動かされ、周囲に五感を働かせている。
両方をつなぐ不可視の神経系が空気中に存在していると考えれば分かりやすいかもしれない。
胃に潜んでいた女も先ほどまで文字保有者と戦っていたマンゴーンも、どちらもウィマーンの本体なのである。
「ふ、二つの体があって混乱しないんですか……」
ハスの葉に尻餅をついたままプリアが後ずさろうとする。
黒に近い青緑の髪を持つ女――ウィマーンはプリアの足首をつかんだ右手に力を込め、左手の中指と人差し指を立てた。
「人間のパオインチュップでたとえると右手でグーを、左手でチョキを出す感覚と変わらない。同時に違う動きをしても、とくに負担はない」
ウィマーンの両手がプリアの脚部を上り、ひざに達する。
「さて……おまえは疑問に思っているな。なぜ今になって私がおまえをこの体と対面させておのれの素性を語りだしたのか」
無言でうなずくプリアにウィマーンが続ける。
「すべては、あらためて敵対の意思をおまえたち文字保有者に表明するためだ」
「……アーティットさんが言ったとおり、ワタシたちが敵同士というのはアナタがチャーイハートさんとワタシをつぶそうとした時点で確定していますよね」
「そうだ。しかしこちらからも正式に宣言しておかないと、おまえたちはいつまでも和解の道を探ろうとするだろう。ハッキリ言って人間に情けをかけられたようで腹が立つ。よってそのような道は最初からありはしないと旦那さま――スカティさまの口からだけでなく私からも通達する必要があると判断した。そして純粋なマンゴーンの体では人語をしゃべれないからラチがあかない。部下に文字列を作ってもらうのにも限界があるしな」
口を動かしつつ、下半身を胃液から引き上げる。
「そこで私はこの体で話すことにした。本来ならこの体を文字保有者にさらす気はなかったが……さっき菜の花色の髪の少女に胃腸を通り抜けられたとき目撃されたかもしれないからな。隠す意味も薄れた」
実際ヒマは先ほどマンゴーンの胃を通過したとき女の姿を見ていない。
ウィマーンも分かっている。ちょうど自分はヒマの死角にいた。
「私の素性を話したのは、私に理性があるという証明のためだ。理性とは、自分を正確に語る能力でもあるだろう? 私に対して『このピーは自分たちのやろうとしていることを理解していないのでは。そのことを分からせれば説得できるのでは』と期待する必要はない。すべて分かったうえで私も旦那さまも人類を滅ぼす。おまえたちを殺す。おまえたちに定着させられた文字のピーも解放する。しかしランマイ・プローン……いや水の島のなかでおまえの仲間が私の口内にからあげを出現させたとき、私はハッキリと敵意がない旨のメッセージを受け取ったがそれを無視したのがそもそも悪手だったかもしれない。バーのフリをしても、おまえたちには有効ではない」
「からあげですか。それ以前に人類を滅ぼすとかおっしゃっているウィマーンさんは人の料理自体が嫌いなんですよね」
「いやあのからあげはうまかった」
「……エーンさんが聞いたら喜ぶことでしょう」
「エーン。ロージュラー(ฬ)を刻んだ女か。あの女にも私と似たものを感じるが……まあそれは今はいい」
ウィマーンはつま先までを胃液から引き上げ、プリアのひざから両手を離した。
前のめりになり、プリアの左右の手首を両手で押さえる。
「小娘。敵対の意思を表明するに際して、なぜおまえを選んだか分かるか」
胃液のしずくがプリアの体のあちこちに落ちてすべる。
「私も敵全員の前にこの姿をさらすほどバーではない。となれば、おまえたちのなかから一人だけを選んで会話する運びとなろう。そしてあのメンツのなかではおまえが一番まともに話を聞いてくれると直感した。有り体に言えば、勘だがな。といっても文字列で『腹のなかに来い』と伝えても、私に握りつぶされかけたおまえは簡単には来てくれないだろう。だから強制的に連行させてもらった」
「それなら……アーティットさんとかのほうがよかったんじゃないですか……っ」
「あのトータハーン(ท)を持つ赤目赤髪の男だな。あれはダメだ。先ほどの説得の際もまともなフリをしていたが、私が見たところスーンや棍棒女の次に狂っている。一見まともな思考や言動をしているからタチが悪い」
「アナタの基準が分かりませんね……」
「おまえが私の手につかまったときも、あの男はまったく動こうとしなかった。反応できたにもかかわらずな。今も私はマンゴーンの目でアーティットとやらを見ているが、彼は仲間に動くなと命じ続けている。ようは私を信用する姿勢を見せるために、おまえを利用しているんだ。おまえが無事に帰ってくれば相手に歩み寄ってよかったという話になるし、仮におまえが殺されてもそれを口実にして私と旦那さまを心置きなく殺せるようになる。『こっちは信用する姿勢を見せたのに、なんてヤツだ』と仲間に思わせることによってな」
「いや……あの人、兵隊ですしみんなのいのちを預かっていますし、普通の考え方だと思いますけど。それを言うならワタシのほうこそが自分の安心のためにみんなに引っかかろうとしてる、利用してる。むしろワタシの性格の悪さに比べればアーティットさんなんてまだまだですよ……!」
だいぶ虚勢を含んでいたものの、あお向けのまま真上のウィマーンに言い返した。
さらにプリアはウィマーンが左手の平のロールア(ร)を見つめていることに気づく。
「そんなことより、はがして殺さないんですか……?」
「……おどおどしているようでいて、度胸のある娘だな」
覆いかぶさるようにしていたウィマーンが右に転がる。
先ほどまで下にいたプリアが上に、上にいたウィマーンが下に位置を変える。
両手首をつかんだままウィマーンが言葉を継ぐ。
「足場を作れるうえ、私のしっぽにもしつこく爆発物を当てていたおまえは最優先に殺すべき相手だ。今もそう認識している。……だが、いったん無事に返す。この体ではおまえに勝てないからだ」
プリアの手を、その体ごと引き寄せる。
「言葉を返してやる。おまえこそ私を殺すことができる。無論、この体を葬ったところでマンゴーンの体に痛痒はないがな」
「殺しませんよ……恨まれたくないですし。アナタの体を壊したところで戦局が有利になるわけでもないでしょう……っ」
「ふん」
ウィマーンはプリアから完全に手を離した。
「あらためて仲間に伝えろ。スカティさまと私はおまえたちの敵だ。文字保有者を含む人類も滅ぼす。その理由も話さない。和解の道はない。嫌なら私たちを遠慮なく殺しにかかればいい。こちらも殺される気はないが」
「……伝えます」
プリアは腕を広げて上体を起こした。
「でも、この質問には答えてくれますか。アナタの人間嫌いはスーンが原因なんでしょうか」
「スーンは唾棄すべき男だが、私は彼と会う前から人類を憎んでいた」
「じゃあアナタがかかったという病気がその感情の原因……?」
「いや、その病気も人間を憎悪するきっかけではない。これ以上は話さない」
ウィマーンが身をよじり、背を向ける。
人間のような背中をプリアは見つめる。
その視線に気づいたウィマーンが、ハスの葉のふちをつかみながら言う。
「人を憎む私が、人に似た姿に甘んじているのがおかしいか?」
「そんなことは……」
「姿形は種を定義する決定的な要素ではない。人に似ている部分があろうとも私は精霊だ。おまえの仲間のクマリーと同じように」
「今の自分は部外者に押し付けられた姿だと思ったりしませんか……?」
「思わないな。私の体を動かしているのは私だ。もはやスーンは関係ない」
いったん立ち上がり、プリアを見下ろす。
「それに……人に似た体を手に入れて、よかったこともある。人語を口から話せるし、なにより――」
その身が後ろにかたむいた。
「旦那さまとの子をなせる」
胃液にザブリと落ちるウィマーン。
腹側の半身だけが水面から出ている。黒に近い青緑の長い髪が水面下で揺れている。
プリアは両手を合わせて礼をした。
レモンのかたちをした風船を出現させ、胃に生やしていた灯台を消す。
潜望鏡に風船をくくりつけて、その根もとのハスごと宙に上がる。
食道を上昇していると、下から麗しすぎる声がかすかに響いた。
「おまえが口から出て百秒後に私は再攻撃を仕掛ける」
* *
プリアはマンゴーンの体から脱出したあとすぐにウィマーンの伝言を話した。
スカティとウィマーンには確固とした敵対の意思があるのだとアーティットたちに伝える。
暫定的にリーダーとなっているアーティットは首肯し、プリアに礼を言った。
そして予告どおりウィマーンが動く。
しっぽが海中から文字保有者たちに迫りくる。
プリアたちはあたりに散らばるハスの葉の上を跳び、海面に出て来たしっぽをよけた。
青と緑の鱗を持つ巨大なしっぽがさらに持ち上がる。
そのときクマリーが宙に「๑๐(シップ/十)」と書いた。
プリアの記憶によると、アーティットはクマリーに一桁の数字までしか教えていないはずだ。
おそらく先ほどプリアが胃のなかのウィマーンと話している最中にクマリーはアーティットから๑๐(シップ)の書き方を教えてもらったのだろう。
いわゆる位取り記数法を使えばいいので十種類の数字すべてを覚えていれば、二桁以上の数は順に数字を当てはめるだけでしるすことができる。
一をあらわす「๑(ヌン)」とゼロをあらわす「๐(スーン)」を左から順に並べれば、十を示す「๑๐(シップ)」となる。言うまでもなく十の塊が一つ、一の塊がゼロという意味だ。ヌンとスーンが並んでいるからといってヌンスーンなどと発音したりはしない。
(でもなんでアーティットさんはこのタイミングでクマリーにシップを……)
続いてクマリーが「๙(ガーオ/九)」と書く。さらに「๘(ペート/八)」としるす。
(カウントダウン……?)
しっぽを見据えながらクマリーは「๗(ジェット/七)」と「๖(ホック/六)」の軌跡も指で再現した。
今回の作戦でクマリーは、数字を覚えながらウォーウェーン(ว)の力を成長させていた。
もともとスーンと共にあったウォーウェーンの文字は数字のピーとも交流があったわけなので、あらためてその数字にふれることがウォーウェーンの力の一端を取り戻すきっかけにもなったのだ。
現在クマリーは、みずからのウォーウェーン(ว)に数字のことを思い出させている。
そうやってウォーウェーン覚醒を促すと共に、この宙への筆記行為を一つの詠唱としても確立しようとしている。
まず๑๐(シップ/十)を書いたのは、十種類の数字を覚えるだけでなく使いこなすという意思表示のため。
これで数字への理解度が格段に上がり、ウォーウェーンはますます刺激されることになる。
さらにこの瞬間、先ほどまで文字保有者たちを捕らえていた大きな氷の球体にアーティットが立った。
同時に、限界まで持ち上がったウィマーンのしっぽが天を向いた瞬間に振り下ろされる。
もし海面に直撃すれば波濤だけで文字保有者たちがコナゴナになるほどの威力であった。
「ルークタハーン・ローンターオ」
アーティットが右足を赤く光らせて球体を蹴り上げた。
球体が飛び、しっぽの真下に来る。
ここでその氷が崩れる。
固体の性質を多く持つ、もとの水の玉となる。
時間経過で凍結が解除され、かたちも戻ることはゴ・ナームを探索した時点で分かっていたことだ。
クマリーは素早く「๕(ハー/五)」「๔(シー/四)」「๓(サーム/三)」「๒(ソーン/二)」「๑(ヌン/一)」を空中に続けて書く。
大きな水の玉に、クマリーが両手をズブリと入れた。
そのまま声を張り上げ、玉を持ち上げる。
通常であればクマリーの体格で持ち上げられるような代物ではない。
どうやら水の玉にクマリーの手が吸着し、両者は一体となっているらしい。
水の島ゴ・ナームの一部を水の靴にしてニウフアメーにはかせたときの応用である。ウォーウェーンが着実に覚醒に向かっているからこそできた芸当と言えよう。
「【ว】ウォーウェーン・クマリー、つかさどる字は指輪のウォー」
少し引き締まった、ふにゃふにゃ声で名乗りを上げた。
ウィマーンのしっぽをウィマーン自身の出したランマイ・プローンで受けとめる。
「もっと……クマリーにもぶつけてきてください……っ!」
しっぽの勢いはだいぶ殺されたものの、水の玉がクマリーを押し返そうとする。
プリアは新たなハスの葉を何枚も周囲の海面に投げながら思った。
(クマリー……アナタはスーンに利用された。もともと、そのウォーウェーン(ว)も望んで手に入れたものじゃない。でも今のアナタはクマリー・トーンとして動いている。みんなや……アナタの慕うアーティットさんのために。そこに、もうあの男は関係ないんだね)
プリアはウィマーンにも心のなかで語りかけた。
――ワタシの体を動かしているのはワタシですよねと。
(アナタには負けない)
一方、クマリーは鼻を動かして円の軌跡をえがいた。
ゼロの数字を書いたことでウォーウェーンによる定着が完全になり、しっぽを受けた水の玉の勢いが弱まっていく。
「シップ・ガーオ・ペート・ジェット・ホック・ハー・シー・サーム・ソーン・ヌン」
最後の攻防を開始するにあたって、プリアはその数字の名前を口にした。
それは、人の名前と切り離されたカウントダウンのゼロでしかない。
「……スーン」
次回「165.【ร】船のロー・プリア【その6】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ローンターオ(รองเท้า)→靴




