160.【ร】船のロー・プリア【その1】
【๕】
* *
――ロールア・プリアは思い出す。
かつて自分はホーノックフークの図書館塔に入りびたっていた。
そこに収蔵されている白紙の本は利用者の心理に応じた文章や挿絵、表紙を映し出す。
プリアはなにを読んでいたのか。
なにも読んではいなかった。
白紙の本に宿った精霊は、プリアに文字のない真っ白な光景ばかりを提供し続けた。
ページをめくってもめくっても、純白の世界が広がっている。
そんな世界をプリアは一枚一枚丁寧に見つめながら進んでいった。
いや、もぐる・沈む・泳ぐと表現したほうが適切かもしれない。
最後のページに達したときは、まるで海底に足をつけたときのような達成感があった。
(本当に海底に着地したことなんてないけど)
当時司書の仕事をしていたジュットジョップにどんな本を読んでいるのか聞かれたときは「冒険小説」と適当に答えておいた。
あながち間違いでもない。
なんの文字もないページをめくることは、プリアにとって一つの旅でもあったのだから。
プリアはもとから人と関わるのが好きではない。
他人を見下しているのではなく、無価値な自分が人と接触すればみんなを不愉快にさせるだけだと考えている。
図書館塔でしばしば会うガムランと比較的親しくなれたのは、彼もまた自分と同じ距離感を心のなかに隠していると分かったからだ。
しかしたまにジョットマーイのような人物に出会うこともある。
心引かれるほどにまぶしいからこそ、自分がちっぽけなモクズみたいに感じられる。
ジョットマーイの船が沈んでしまったと聞いたときプリアは喜びを覚えている自分を意識し、ショックを受けた。
(アーティットさんはジョットマーイさんが生きていたからワタシが喜んだんじゃないかと推測していたけれど……ワタシ自身は自分の心がそこまできれいなものじゃないって分かってる)
とある港町でジョットマーイと再会したとき、彼女は立ちなおっていた。
大半が見せかけであると見抜いたプリアだったが、心のなかでは「もっと沈んでいればよかったのに」とも思っていた。
そんな思いを自覚して自己嫌悪におちいり、はきそうになった。
路地でうずくまっているときに、灰色の髪と瞳を持つ老年の男に声をかけられた。
男はスーンと名乗った。
文字がほしくないかと言われた。
文字を刻めば、いろいろできるようになって生きやすくなるらしい。
抽象的すぎると指摘したプリアに、スーンが笑って付言する。
――ホーノックフークは知っているかね。そう、かの有名な図書館塔の館長・ラートリーだ。対面した人間の真実を読み取る力があると言われている。彼女が「ホーノックフーク(ฮ)」という文字の名前で呼ばれているのは私がラートリーにその字を刻んだからだ。ホーノックフーク・ラートリーの不思議な力は文字に由来しているんだよ。
続いてスーンは、ジョットマーイにもふれた。
ジョットマーイが立ちなおれたのは自分がポーサムパオ(ภ)を与えたからだと言う。
それを聞いた瞬間、プリアは不快感を覚えた。
こんな誰かも分からない人間にジョットマーイが救われたのだと思うとなんとも言えない気分になる。
文字なんてなくていいですとプリアはハッキリとことわり、スーンと別れた。
(その数日後スーンが再び現れて、ワタシの左手の平に無理やりロールア(ร)を刻んだ。あのときのことは思い出したくもない……)
ほかの文字保有者とは異なり、望んで文字を刻んでいるのではない。
しかし結局プリアの逃げた場所は、ロールアによって出現する潜水艦だった。
せめてロールア(ร)を自分のものにしようとしたのか。
ルアダムナームのなかで、プリアは自分と向き合っていた。
図書館塔でめくり続けた白紙のページを思い出しながら心の底に沈んでいく。
スーンが死んだあとプリアは自分以外の文字保有者たちと接触する機会を多く得たが……彼ら彼女らと交流しても、やっぱり自分の心は誰にも分からないだろうなという思いが深まるばかりだった。
プリア自身も、人の思いの浅い部分までしか理解できない。
出会いによって人は成長するという考えをプリアは信じていない。もし出会いによって自分の人格が作り替えられたら、それは自分が死んだことと同じではないかとさえ思う。
(だからアーティットさんが言ってくれたことはうれしかった。「誰かとの特別な出会いがなくても、人は変わっていいし、成長してもいいんだ」って……)
当然ながらその言葉を鵜呑みにするつもりはない。
それを受け入れたら、アーティットによって自分が無理やり作り替えられたことになってしまう。
よってプリアは彼の存在を希釈するために、ほかの文字保有者が口にした言葉も思い出す。
――確かにあたしは元気に振る舞ってはいるけれど、プリアちゃんほど自分の心と正直に向き合う強さを持っていないよ。だから本当に人のことを考えて、人のために動けるのは――あたしよりもプリアちゃんのほうだと思うな。
――わたしは元ウォーウェーン(ว)を許せる立場にすらないよ。無論、君は許さなくていいだろうがね。
――私が自分を愛する私を愛するように、あなたも自分をなかなか愛することができないあなたを愛すればよいのですわ。
――強くないよ、ヒマは。そういうフリをしようとしてるだけ。みんなの役に立つためかな。……いや、本当は自分のさみしさをまぎらわせるため。
――よろしくプリちゃん!
――そりゃプリアちゃんはジョットマーイになれねえさ。おれだってジョットマーイとは違ってたくさんの人を一度に運べない。でもおれは四つ足だし、プリアちゃんには潜水艦のルアダムナームがある。ジョットマーイが操船技術に優れているんなら、プリアちゃんは操艦技術に長けてんだよ。
――さっきの潜水艦さばきもみごとでしたし、今後クマリーはプリアさんのことをプリア艦長と呼びたいです! よりいっそうの尊敬を込めてっ。
――少なくともわれも貴様への認識を変えた。ロールア(ร)、貴様は勇気があるのだな。物事に対して物怖じせずに向き合う強さを持っているということだ。
――誰かのためにがんばることも、自分のためにがんばることも、どっちも等しく尊いもの。プリアちゃんもわたしも、ほかのみんなも全員すごいってことかな。
――外から与えられたものも、自分の力と信じること。文字だけに限らん。仲間もまた、キサマの力だ。
プリアは別に感動しない。他人の言葉を聞くだけで変われるほど自分は上等ではないと思っている。
このなかで一番言われてうれしかったのは、エーンの「よろしくプリちゃん!」という短い言葉だった。
それでもプリアは仲間の言葉を拾い集めていた。
今回の作戦では数字のピーたちを集める目標もあったわけだが、それよりもプリアは言葉を求めた。
本当は自分を拒絶する言葉を探していた。
ところが、またルアダムナームに沈む口実を誰も与えてくれない。
そのつながりが怖い。
船酔いしたときのように、はきそうになる。
――そんなにしっかり結びついてるわけじゃねえって。鎖の輪っかみたいなもんだわ。相手とガッチリつながる必要はねーんだよ。ボクもオマエもほかのみんなも、本来はなにも通さない輪っか同士を不器用に引っかけ合っているだけさ。そのつながりはオマエを縛りすぎないし、それでいて見捨てることもないんだ。
(ガムラン……アナタが言ったことが本当だとすれば、ワタシはちょっと引っかかっているだけでもいいのかな。チャーイハートさんによると、低子音単独字のみんなは箱のようなものに捕らわれやすいらしいけど、ワタシの捕らわれた箱はきっとボロボロの船みたいなものなんだろうね)
プリアはヒマやチャーイハートのようにスーンの死を悲しむことができない。
プリアはアーティットやサラサルアイのように過去を割り切ることもできない。
プリアはクマリーやナーグルアのように純粋に振る舞うことができない。
プリアはニウフアメーやリアンゲのように人生に対して超然と向き合うこともできない。
プリアはキアやエーンのように物事を冷静に捉えることすらできない。
それがロールア・プリアなのだ。
彼女にとっての文字保有者とは、そこまで深い意味の仲間ではない。
一方的に恩義を感じることはあっても、あいだには深いみぞが横たわっている。
(だからこそ安心できた。つくづくワタシは自己中だなあ……)
ただチャーイハートの言うように仲間も自分の力であるのなら、仲間である文字保有者のために動くのは自分のために動くことと同義かもしれない。
もしも自分の近くにいる文字保有者の誰かが死んだら、そのときは自分が死んだようにも感じられるだろう。
プリアは自分の文字ばかりに目を向けていた。
しかし世界に存在する文字はそれだけではない。
ロールア(ร)だけで言葉はできない。
自分を構成するものは、けっして自分だけではなかった。
ルアダムナームに文字保有者を乗せるのは、思ったよりも気持ちいい。
プリアは自分を白紙の本にたとえてみる。それは図書館に収められた一冊でしかない。
だが、どんな文字も載せることができる。
船のように、ひっそりと。
そして砂浜に書いた文字のように波に消されて白紙に戻る。
せめて自分はそういう「船」でいたいとプリアは思う。
(アーティットさんはワタシとじっくり話してよかったと思うときが必ず来ると言ってくれたけれど……ワタシはアナタの期待に応えるために生きているんじゃないです……)
自分のことを役立たずと思うのも思われるのも嫌で……ただ安心して生きていたい。
(ワタシはそういう人間なんです。だけどみんなは)
ロールア(ร)をなぞる。
(そんなワタシをみとめてくれている。一方のワタシは、みんなのことをみとめているんだろうか……?)
愛も友情も使命感もプリアには分からない。
誰かとの出会いや他者の発した言葉によって変わりたいとも思わない。
だとしてもプリアにはプリアなりの思いがあった。
みんなのことを少しでも大切にできたら自分はその先でどんな場所に行き着くことができるのだろうと興味が湧いた。そこにはどんな達成感が待っているのだろう。
(……いや、それはワタシだけのものなのかな)
本当は、自分をみとめてくれる一人一人のたどり着く光景をも見たいのかもしれない。
一人一人にそれを見てほしいのかもしれない。
嫌な未来は嫌だ。それを自分は喜んで、自己嫌悪におちいるから。
仲間が自分の力なら、自分も仲間の力である。
誰かに守ってもらえるなんて思っていなかった。
誰かに頼ってもらえるなんて思っていなかった。
(ワタシも守りたい、頼られたい。守られたい、頼りたい。そういう意味で、力になりたい)
その先を見たいという自分と誰かの願い同士を、守り合い頼り合うことで結びつける。
共依存ですらない。
これはプリアの一方的な思いだ。
本当に独善的で薄っぺらな動機だなあとプリアは自嘲する。
純粋に仲間のためだとか愛する人のためだとか、大切ないのちを守るためだとか、みんなの幸せのためだとか、それどころか生活のためだとか、そんなことさえプリアは言えない。
ただ、プリアは自分をみとめてくれるみんなのためにロールアを使う。
どこまでいってもロールア・プリアは、ロールア・プリアのために生きている。
(別にいい……ワタシの心の奥底に沈んで、それに文句を言えるのはワタシだけの特権なんだ)
思いや言葉を希釈した結果、得られたのは悟りではなく一パーセントの誇りのみ。
その誇りさえぶん投げて、プリアは進むと決意する。
(จะตะลุยอย่างเรือ(ジャ・タルイ・ヤーン・ルア)〔突き進むんだ、船のように〕)
これが正解かなんてどうでもいい。
大切なのは、これが自分の出した答えということ――それだけだった。
* *
チャーイハートの上半身と下半身を回収したプリアは、潜望鏡をのぞきながら礼を言った。
「コープクン・カ、チャーイハートさん。あのジャグラがいなくなったことで突き進めます……っ」
さらに潜水艦のスピードをアップさせ、海面を目指す。
(とにかく水上に出ないとワタシたちに勝ち目はない……)
岩石に封じられたスカティを一対の手でだきしめたウィマーンも、潜水艦を沈めるべく高速で泳ぎ、距離差を縮めていく。
プリアは自分とチャーイハートを容赦なく握りつぶそうとしたウィマーンの両手を思い出した。このままでは追いつかれて確実に死傷者が出ると直感する。
(艦内の圧力は一定に保たれているけれど外にはまだ強い水圧がある……ゴ・ナーム内部の水中のようにアーティットさんやサラサルアイさんが自由に動けるわけじゃない)
「みなさん……いったんウィマーンに攻撃をかけます……っ。クマリー、ロールア(ร)をお願い……っ!」
「はいプリア艦長!」
「ありがとね……」
クマリーの支援により、プリアの体から赤い光と力がみなぎる。
プリアは操縦席のゆかを両足で強く蹴った。
「ジャルアット・ブア・ルアン」
すると潜水艦の両側面から後方のウィマーンに向けて、紡錘形の緑の物体が立て続けに発射された。
艦内のアーティットたちからは見えていないが、それらの物体はウィマーンに突進したのち放射状に裂開した。
食虫植物の形状になり、ウィマーンの体のあちこちに噛みつく。
その程度でマンゴーンのウィマーンを撃退することはできないものの、確実に隙を作ることはできた。
プリアはその戦法をくり返して上昇を続け、ついに海面に出た。
昼間の太陽があたりを照らしている。
しばらくルアダムナームはそこに浮いていたが、間もなくして真下の水中から緑の水柱が上がり、潜水艦を粉砕した。
海面が盛り上がり、ウィマーンが浮上してくる。
しかしそのまわりにハスの葉がいくつもひらいた。
ロールアの力によって出現したハスの上に文字保有者たちが乗っている。
(悪いけどウィマーン……さっきのルアダムナームは放棄したから……っ。アナタを釣り出すためにもね)
ハスに立って震えつつ、プリアが心で啖呵を切った。
次回「161.【ร】船のロー・プリア【その2】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ジャ(จะ)→○○するつもりだ
タルイ(ตะลุย)→突き進む
ヤーン(อย่าง)→○○のように
ルア(เรือ)→船




