158.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その4】
【๗】
* *
チャーイハートの詠唱を聞いた瞬間、プリアは灰色の地面に立っていることを自覚した。
(あれ……? ワタシ、サラサルアイさんの背中にいたはずなのに。それにチャーイハートさんはどこ?)
あたりは静寂で満ちている。
少なくとも、ここは水の島ゴ・ナームのなかではなさそうだ。
灰色の地面のまわりは樺色で囲われているものの、そこに走った縦線が微妙に鉛直下向きに動いているため壁というよりは滝に見えた。
空間中央に灰色の円盤が車輪のように立っている。
直径はおよそ百五十センティメートであり、円形の側面を真横に向けているので少し左右に揺れている。
その円形の壁からチャーイハートの声がする。
「ノーネーン(ณ)の力を使って体感時間を限りなく引き延ばした。キサマは拙の心象風景を見ているわけだが実際はサラサルアイの背中にまたがったままであるし、先ほど拙が詠唱したあと現実の時間は一秒も経過しておらん」
「はあ、そうですか……って」
円形の側面の中心からはチャーイハートの下半身だけが生えていた。
(これ完全におしりが話してるみたいじゃん)
よって円盤の向こう側に回り込んだプリアだったが、そちらの壁からも同じ下半身が突き出ているのが分かった。
(ひいい……っ! おしりが二つある)
「怖がらせてしまってすまん」
円盤の臀部が上下する。
「今はハートの下半身しか心象風景に映せていないのだ。チャーイの上半身が先ほど背中を負傷して不安定になったせいでな」
「……チャーイハートさん」
プリアが柔らかく手を合わせる。
「さっきはかばってくださり、ありがとうございました」
「マイペンライであるぞ」
「でもアナタはワタシのこと嫌いでしょう。アナタの尊敬するスーンをワタシは死ぬほど嫌悪していますし」
「プリアの気持ちももっともであるゆえ、嫌う理由にならん」
「じゃあリーダーの意見を聞かせてください」
胸の前でこぶしを作り、プリアが一気に声を出す。
これまであまり話していなかった相手だからこそ、逆に話しやすいとも思える。
「今回の作戦に参加した低子音単独字のみんなのなかでワタシを嫌っているのは誰だと思います」
「拙が見たところ誰もキサマを嫌っていないな。そもそも人の『好き』と『嫌い』の境界はあいまいだ」
「好きは好きで、嫌いは嫌いです。ハッキリしてるじゃないですか」
「そういった好きや嫌いもあろう。しかし実際は好きと嫌いをまぜこぜにした感情が大半であるような気がする。それを嫌悪のうちに入れるならそれまでだが、そんなのは言葉遊びでしかない」
「ワタシはそういう器用な感情は持てませんよ。自分のことだって心底嫌いですもん……」
下半身に対して言葉を続けるプリア。
相手の顔が見えないことも、話しやすい要因かもしれない。
「あの、チャーイハートさん。スカティの言ってたことって本当ですよね。ワタシたち文字保有者は文字のピーを体に埋め込んでいたんですよね……っ」
「だろうな。そう考えるといろいろつじつまが合う」
「めっちゃ痛い思いをして無理に文字を刻まれて……しかもその文字がピーだったなんて、なんか……バーみたいです。外からいろいろ一方的に押し付けられるばかりで、ワタシはどこにもいない」
ちらりとプリアはチャーイハートの様子をうかがう。
プリアは文字保有者たちから嫌われたいとも思っている。
嫌われたことを免罪符にして堂々と逃げたいとも思っている。
(相手の都合を無視して自分だけで語り続ければ簡単に嫌われることができるはずなんだ……)
だが目の前の臀部から顔色をうかがい知ることはできなかった。
「ワタシは自分に刻まれたロールア(ร)の文字が大嫌いです。嫌な過去を思い出すから」
左手の平をバッとひらく。
「それでもロールアの力を使っていたのは、ワタシ自身の意思でルアダムナームなどを出したりしていると思っていたからです。それが大嫌いな文字へのせめてもの反抗だったわけですね。けれどロールアの文字すらワタシじゃない別のものだったわけでしょ。なんかそれを思うと……もう、どうでもいいかな~って気がしてきましたよ」
「すごくショックだったのだな」
「というか無気力になりました……。もう出せないかもしれません、潜水艦。ゴ・ナームが崩壊したらワタシたちは危険――そんなことは分かっています。ここでワタシがアナタにかばわれたことをきっかけにして奮起できる人間だったら話は別でしたが、そんな心の変化さえ起こせそうにありません。ワタシだって死ぬのは嫌ですし、これまでは流されるようにロールアの力を使ってきましたけれど、なんか……もう無理なんです。このあと生き延びることができたところでワタシの人生の中心にワタシなんていないんですから……」
「それがプリアの泣き言と弱音か」
チャーイハートが両足を持ち上げて宙であぐらをかく。
「確かに無気力になると、なんのやる気も出ないなー」
「……なに共感してんですか。こんなふうにウダウダ言っている深海モクズ女には説教すればいいじゃないですか」
「そういう気になれん。自分の人生のなかに自分がいないような感覚は……拙にも分かるし」
「チャーイハートさんを見ていても、そんなふうには見えませんが……」
「もともと拙は双子の姉妹だったゆえ無理もない。ともあれ拙の前身であるチャーイとハートは親に売られたあと奴隷として転売されまくっていたから、それはそれは無気力だった。双子がいつも一緒だったのも互いに互いを必要としたからではなく、双子をセットにして売ったほうが高い値段がつくからだ」
「……え?」
ノーネーン(ณ)を刻まれる前の自身の素性を軽く流すように話し始めたチャーイハートにプリアは戸惑いを覚えていた。
なおチャーイとハートを売った組織等はすでにレックによってすべて壊滅させられているものの、プリアはレックのことをよく知らないだろうと考えたチャーイハートはその点にはふれなかった。
「スーンさまに二人の体を接合してもらったのは崖から落ちてケガをしたからであるが、落下したのは……まあ人生がどうでもよくなったからだ。だが不思議なことに、死にかけたことでようやく拙たちにも『生きたい』という気持ちが芽生えてきた。普通だったら手遅れであるけれど、そこにスーンさまが現れて拙たちの願いをかなえてくれたのだ」
「どうせあの男のことだから、以前から双子に目をつけてチャンスを待っていたんだと思いますよ……」
「だろうな、タイミングがよすぎたのは事実だ。それでもスーンさまのおかげでチャーイとハートはチャーイハートとして生きることが可能になった。自分がチャーイなのかハートなのか分からないその揺らぎこそがチャーイハートの人格であると知ることができた」
「だから自分の人生には自分がいるという感覚もあるんですね」
「いや……実はまだ拙は自分というものを明確に定義できてない。波打ち際を流されるかのごとく、絶えず境界を行ったり来たりしている感覚か」
あぐらをほどき、両足を軽く振る。
「そういう意味ではプリアと同じかもしれん」
「ではなにが違うんでしょう」
「外から与えられたものも、自分の力と信じること。拙の円盤も上半身も下半身も、もともと拙が持っていたものではないという感覚を有している。であればノーネーン(ณ)の文字も例外ではなかろう。最終的にそれを動かす者が自分であれば、それは自分のものである」
「ワタシの……力」
自身のロールア(ร)を顔面の前に掲げるプリア。
対する臀部は肩をすくめる。
「文字だけに限らん。仲間もまた、キサマの力だ」
「仲間とは、アナタもですか」
「しかり。ほかのみんなやアーティットも」
「だけどワタシがワタシを好きになれないのは変わりませんよ」
「自身の行動を肯定する際に、自分を全肯定する必要はないよ、プリア。たった一パーセントでも自分を肯定できたなら、それだけでいいんだ」
「ほんの……少し、なんですね」
プリアは再びチャーイハートへと手を合わせて礼をした。
「ワタシはアナタの言葉に感化されたわけではありません。けれどチャーイハートさんと話せたおかげで、自分を肯定するフリくらいはできるかもしれません。コープクン・カ」
「頼りにしているロールア・プリア」
臀部が小さくうなずいた。
* *
崩壊し始めたゴ・ナームのなかで、プリアはサラサルアイにまたがってチャーイハートをだきかかえていた。
(このチャーイハートさんには上半身がある。さっきの心象風景からワタシは戻ってきたんだ……)
相変わらず大きな黒ネコ・ビダージャグラは文字保有者たちを蹴って攻撃しており、スカティは赤い球体のなかでビダージャグラのまわりを飛んでいる。
ウィマーンは水の床下の底に潜伏しているらしく、うっすらとシルエットを捉えることができる。
ここでアーティットを横抱きにしたジェオが最下層に姿を見せる。
「おっ、マリちゃん。元気そうでよかったのだ!」
「ジェオさんこそ」
エーンのタコにかかえられたマリが笑い返す。
プリアはジェオの出現に恐怖を覚えていたものの、そのジェオから離れたアーティットに声をかけられる。
「チャーイハートは負傷したのか」
「は、はいっ。ワタシのせいで……っ」
「そこは持ちつ持たれつでいいんだ。とにかくこれを患部に」
アーティットはタハーン・ペートの白いしっぽをプリアに渡した。
ペートのしっぽによって回復したチャーイハートがささやく。
「ありがとうプリア、アーティットも。そして全員そろったな」
棺桶に封印されたナーグルア以外の文字保有者たちを確認し、サラサルアイから下りる。
「プリア艦長、今である」
合図と共に、水の壁と地面と天井が今まで以上に大きく崩れた。
返事をする代わりにプリアは舌を垂らし、その先端から血を落とす。
「ルア・ルアット……!」
同時にチャーイハートやアーティットがほかの文字保有者のもとへと跳んだ。
次回「159.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その5】」に続く!




