157.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その3】
【๘】
* *
チャーイハートの脚部が首にからみつく。
薄れる意識のなか、スカティは水の杖を力強く握り締めていた。
ウィマーンが作成したその水の杖は、スカティと精霊との親和性を上げる役割を有している。
数字のピーたちもまた、杖の近くで舞っていた。
だがスカティの真髄は――ピーの依り代であること。
ラーンソンたる彼はピーを使役しない。
自分の体を媒介にしてピーを降ろす。
長らく封印状態にあったためスカティの腕はなまっていたが、媒介である自身の意識が薄れている今なら強力なピーの器にもなりやすい。
(กรุณาโผล่(ガルナー・プロー)〔姿をお見せください〕)
追い詰められたスカティは、自身が人質となってウィマーンに負担をかける未来を恐れた。
窮状を脱するために、とあるピーを呼ぶ。
(ビダージャグラ……!)
すると直径二メート程度の赤い半透明の膜がスカティを取り囲んだ。
とっさにウィマーンの手もチャーイハートの脚部もスカティから離れる。
ただならぬピーがそこにいるのだと感じ取ったからである。
赤い膜はガラス玉のように光りながら上昇。
隣の宙に同じ玉がもう一つ出現し、一対の目玉となる。
耳やヒゲを持つ黒い頭部がまるで鉛筆でえがかれるように出現したあと、胴体としっぽが形成される。
二メートの眼球を持つ大きな黒ネコがランマイ・プローンの最下層の空間に姿をさらした。
「おいおいスカティ、久しいな。だがよりによってワシを水の近くに呼んでんじゃねえよ。苦手なんだよ」
張りのある老爺のような声を響かせる。
スカティは左の眼球内部から謝った。
「申し訳ありません、ビダージャグラ(お父さんネコ)……敵が存外強かったもので」
「へえ、テメエとウィマーンを手こずらせるたあ、すげえじゃねえか」
大きな黒ネコ・ビダージャグラは宙に浮いている。
サイズを無視すれば、見た目は普通のネコである。
ただしビダージャグラのまわりには影がいっさいない。
おまけに近くの水がビダージャグラをよけている。背後の水の壁も、ちょうど黒ネコの輪郭に合わせてへこんでいた。
「つっても、やっぱテメエが眼窩に入ってると気持ちわりいな。ごめんけど、ワシのまわりを浮遊させるぞ」
「コープクン・クラップ(ありがとうございます)」
スカティを収めた赤い左目が眼窩から出て来て黒ネコの周囲を飛び始めた。
水の杖と数字のピーも彼と共に赤い球体のなかにある。
ここでスカティは杖を介してウィマーンに指示した。
(私はもう平気だ。ランマイ・プローンを崩して文字保有者たちを水没させてやれ)
『はい、旦那さま』
ウィマーンの返事と共に、すべてを水で構成している島が揺れる。
天井や壁から水が立て続けに落ち、水の地面も純然たる液体に戻り始める。
間もなく完全に崩壊するだろう。
(……ウィマーンは深く沈んだ。そしてビダージャグラはある種の呪術的な愛くるしさゆえに生物からのあらゆる攻撃を食らわない。よってプー・トゥー・アクソーン(文字を持つ者)どもはなにもできずに圧死あるいは溺死する。そのあとで文字のピーたちを私のそばに迎え入れる。だが……クマリーだけは助けなくてはな)
* *
サラサルアイに乗って水の島の通路を探索していたエーンは、島内の異変にいち早く気づいた。
後ろからエーンにしがみついているプリアにもそれを伝える。
「プリちゃん、サラサくん。島が崩壊を始めてる。引き返してみんなと合流しよっか」
ついで鐘のイヤリングを出してチャーイハートに連絡する。
プリアもうつろな目のままアーティットに連絡を入れていた。
「アーティットさん……ここ、壊れるみたいです。なんかヤバいけど今から上層に戻る時間はないのでいったん最下層に再集合してください……」
『分かった、プリア』
しかしサラサルアイが体を転回させたところで、後ろから薄茶色の触手三本が飛んできた。
エーンのそばに浮く五本足のタコがプリアの後ろに回り込み、触手すべてを受けとめる。
「……あんたがウワサのマリちゃんなん?」
タコが触手を引っ張り返す。
三本の触手の付け根の先には、貫頭衣を着た栗色の髪の少女がいた。
そのままタコが触手を引き寄せ、少女――マリの身をいだく。
相変わらずマリは自分で自分の両腕をロープで束縛していた。
とっさに振り返ったプリアはマリの青色の瞳と目が合った瞬間、全身をけいれんさせた。
だがエーンは動じずにマリへと言葉を重ねる。
「今からこの島が潰れるっぽいんよ。てなわけで一時休戦しよ。このままじゃウチらもマリちゃんもジェオくんも全滅だからさ」
「そういうことであれば仕方ないですね。みなさんを傷つけないよう束縛を強化しておきますか」
あっさりとマリはうなずいた。
直後、ロープが触手のようにマリの全身に食い込んだ。
困惑の表情を見せるプリアにマリがまばたきを返す。
「うっかり暴力に及ばないようにしたんですよ。なにかを傷つけるのに理由なんて要りませんからね……っ。ただジェオさんは心配です」
「彼ならだいじょぶっしょ」
サラサルアイと共に宙を移動するタコとマリを見ながらエーンが答えた。
「ティットくんと一緒だからね」
* *
アーティットは小部屋のなかで震動を感じ取りながら、プリアとの通信を切った。
ジェオは戦いの手をとめ、キラキラした瞳でイヤリングを見つめた。
「おっ、アーティット。それはなんなのだっ! ……あ、消えた。不思議だな~」
「……ジェオ。戦いの続きはあとだ。まずはここから脱出しよう。崩壊するそうだ」
「へ……?」
「いいから」
そう言ってアーティットはジェオを横抱きにし、通路の坂を下り始める。
しかしいくらアーティットでも巨漢のジェオを悠々と運ぶことはできない。
おまけにゴ・ナームが崩壊を始めているため、水の地面を蹴っても力が伝わりにくくなっている。
なかなか速く走れないアーティットに気づいて、ジェオが声をかける。
「ここまでありがとう。ここからは、おれがアーティットを運ぶのだ」
「頼む」
「うんっ!」
今度はジェオがアーティットを横抱きにして通路を走る。
先ほどまで殺そうとしていた相手をも気づかう――それがジェオという男なのだ。
「でもアーティット。向かう先は最下層でいいのか?」
「そうだよ。なぜなら」
ジェオのあごを見上げながらアーティットが笑う。
「俺たちには頼れる『艦長』がいるからな」
* *
最下層に到着したプリアは、サラサルアイから下馬して目の前の光景を見た。
キアやニウフアメーといった文字保有者が、崩壊する空間のなかで大きな黒ネコのピーの攻撃を受けている。
黒ネコの攻撃自体は縦横無尽に空間を飛び、相手を蹴りつけるという単純なもの。
だがネコの見た目は愛らしく、暗殺者のキアさえ反撃できないでいる。
おそらく「その黒ネコのピーに対していかなる者も攻撃できない」という絶対的な法則が働いているのだろう。大きな黒ネコ・ビダージャグラはそういう意味で人知を超えている。
腰の円盤を縮ませたチャーイハートがプリアのほうに駆けてきた。
小声で耳打ちする。
「プリア。拙が合図したら潜水艦を――ルアダムナームを出してほしい。ただしギリギリまで出すのは控えろ。今すぐ出せばウィマーンかあのジャグラ(ネコのピー)に破壊されるゆえ」
「え、えっと……あっ!」
プリアがさけぶと同時に、彼女の真上からビダージャグラのネコ足が落ちてきた。
チャーイハートとひそかに話しているプリアを警戒し、即座に奇襲をかけたようだ。
鐘のイヤリングを使っていても、ビダージャグラは同じように動いただろう。
しかもビダージャグラへの反撃は誰であっても根本的に不可能なので、プリアがそのまま蹴りを食らう――。
――否。
誰かがプリアをかばった。
ビダージャグラの足が通り過ぎたあと、代わりにチャーイハートの背中から血が噴いた。
「チャーイハートさん、なんで……っ」
「キサマを頼りにしているからだ……」
「う……っ」
プリアとしては、チャーイハートが自分をかばってくれるとは微塵も思っていなかった。
確かにチャーイハートは今回のギンガー海域制圧作戦におけるリーダーではあるものの、事実としてプリアはチャーイハートとそこまで交流を深めていたわけではない。
なによりプリアはチャーイハートの尊敬するスーンを憎んでいる。
だからチャーイハートも自分を嫌っていると考えていた。
(なのに、分からないですってば……っ!)
よろめくチャーイハートをプリアがだきかかえる。
追加の攻撃が来る前にサラサルアイが二人を背中に乗せてその場を離れた。
プリアはボサボサの髪を揺らし、少し青っぽい瞳をよどませる。
「すみません、チャーイハートさん。こんなときに……なんですが」
「なんでも言うがいいぞ」
「泣き言と弱音をはいてもいいですか」
「当然だとも。そのための時間も用意しようか」
チャーイハートがプリアの胸のなかで唱える。
「トゥリッサディー・サムパット・パープ……」
次回「158.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その4】」に続く!(8月8日(土)19時から23時59分のあいだに更新)
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ガルナー(กรุณา)→○○してください
プロー(โผล่)→現れる
ビダー(บิดา)→父
ジャグラ(จะกละ)→ネコの精霊
トゥリッサディー・サムパット・パープ(ทฤษฎีสัมพัทธภาพ)→相対性理論




