156.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その2】
【๙】
* *
水でできた杖を左手に持ったスカティが、それを旗のように大きく振る。
すると、あたりに散っていた数字のピー十体がスカティのまわりを飛び始めた。
(とびきり大きなクジラの落とし物現象を頼む)
杖を介してスカティはウィマーンと心で会話することができる。
ウィマーンの思いも彼に伝わる。
『お任せください、旦那さま』
今は婚約の段階であり、まだ結婚しているわけではないがスカティはウィマーンから旦那さまと呼ばれることを気に入っている。
ついでウィマーンの使役する青い微少な精霊が空間全体に拡散する。
濃い霧となり、空気中だけでなく水の壁や天井、床下にも深くしみ込んだ。
人体に無害ではあるものの、その場にいる者たちの視界を奪うには充分すぎた。
目を閉じてもスカティには文字保有者たちのおおよその位置が分かる。
かつ、呼び寄せた数字のピーたちが文字のエネルギーに反応してくれるので索敵は万全だ。
ウィマーンに敵が接近した場合も、青い霧のピーがそれを知らせてくれる。
水の島「ゴ・ナーム」……いや透明な繭「ランマイ・プローン」に文字保有者たちが接近したときも、ギンガー海域に広がっていたピーたちはウィマーンにそのことを報告していたわけだ。
だからウィマーンは数字のピーが文字のエネルギーを吸って棺桶の鍵になるまで、ひたすら待った。
本当は文字保有者たちを殺したくてたまらなかったが、不用意に動けばスカティを棺桶から出すことができなくなるのでウィマーンは我慢したのだ。
青い霧のピーは、ジェオとマリの存在もウィマーンに報告している。
ただし二人が敵か味方かは判然としない。
それでも人間であるというだけで、ウィマーンは二人を警戒している。
ウィマーンがいまだに慎重を期してその全身を隠しているのは、ジェオとマリへのけん制でもあるわけだ。
先ほどチャーイハートに一対の手を落とされたとはいえ、マンゴーンであるウィマーンにはまだ手がいくつも存在する。
文字保有者の視界をふさいだところでしっぽを持ち上げる。
しっぽは二本ある。青いしっぽと緑のしっぽだ。
それらを床下から水の地面に突き上げ、振り回す。
そうして文字保有者たちを動揺させている隙に、スカティが霧のなかを動きまわって一人一人始末する――これがスカティとウィマーンの作戦だった。
棺桶のピーはナーグルアを封印した一体だけだが、文字保有者を殺したいなら文字をはぎ取ればいいのだとスカティは知っている。
水の地面を走るスカティ。
その音は、ウィマーンの荒ぶるしっぽによって打ち消されている。
先ほどはチャーイハートを真っ先に始末するかのようなセリフをはいたが、それは虚言だ。
チャーイハートをねらっていると見せかければ、そのぶんほかの者を油断させて仕留めやすくなる。
確かにスカティがチャーイハートに注目しているのは事実だが、今は数的に不利な状況をくつがえすことがなにより大事なのだ。
スカティは自身を卑怯だとは思わない。
それを言い始めたら、そもそも多人数で戦っている文字保有者もまた卑怯と言える。そんな屁理屈の応酬に意味などない。
(ピーであるクマリーはねらわない。できればノーヌー(น)を持つ金髪を一番に処理したいが、こいつは耳がいい。ウィマーンがそのかわいいしっぽでバシャバシャ言わせている状況でも接近して殺すのは難しいな。では菜の花色の髪を持つ娘をねらうか。……いや、クマリーがそばについたな。このままだとクマリーまで傷つけてしまう)
『消えた四人もいまだに姿を現していないようです』
(ならば……標的はおのずと絞られる。頭部しか持たないンゴーングー(ง)の男は脅威じゃない。消去法だが、まずは彼を持つ女を殺し、念のためンゴーングーの男の頭蓋も砕く。スイカ割りのようにな)
スカティはニウフアメーに定着させられたヨーイン(ญ)のピーの気配を感じ取った。
文字のエネルギーに反応する数字のピーのガイドと合わせて、霧中における標的の位置を正確に割り出す。
左肩の輪郭に右手を伸ばし、つかむ。
そこに刻まれたヨーインを皮ごと取るのだ。
(よし、ひとまず一人を始末――って、なにッ!)
スカティが驚いたのも無理はない。
彼がつかめたのは、水着の破片のような布だけだったからだ。
直後、左ほおを真横から殴られる。
「パオインチュップ・コーン」
「があッ!」
『旦那さま!』
殴打されたスカティは杖を手放さなかったものの、次の瞬間、冥色の髪にキャッチされた。
スカティと同じくなにもまとっていない女の長髪がギラギラと輝き、螺旋状の髪で囲まれた空間にスカティを閉じ込めている。
「【ญ】ヨーイン・ニウフアメー、つかさどる字は女のヨー」
耳にビリッとくる声がスカティの鼓膜に響いた。
「ウィマーンも聞こえてるよね。悪いようにはしないから降伏してくれない? 君たちからはいろいろ聞きたいしさ」
* *
ニウフアメーが青い霧のなかでスカティの接近を予知し、反撃を食らわせることができたのには三つの理由がある。
まず消去法で自分がねらわれるとニウフアメー自身が気づいていたから。
次に魔力で自分の似姿を作成してそれをおとりにしたから。
彼女は文字のエネルギーを織り込んだ水着をバラバラにして、自分の輪郭を再構築したのだ。これはニウフアメーが数字のピーをおびき寄せるときに使用した撒き餌の応用である。
視界が悪いことを逆に利用し、文字を手がかりに相手の位置を探っているスカティがそのおとりに吸い寄せられるようエネルギー濃度を調整した。
本来ヨーイン(ญ)のある左肩にエネルギーをもっとも収束させたのは言うまでもない。
そしてニウフアメーが事前に数字のピーを自分の支配下に置いていたから。
いくら似姿を用意しても数字のピーが十体もいれば、そのうちの一体くらいはニウフアメーの輪郭がニセモノだと看破していたはずだ。
そんな反応が見られなかったからこそスカティも奇襲が成功したと考えた。
だが数字のピーは文字のエネルギーに吸い寄せられる以前にニウフアメーにコントロールされていた。
当然ながら露骨な動きはしていない。ニウフアメーとしてはギリギリまで真実を隠して最後に数字のピーを動かし、スカティを自分の似姿に誘導できればよかった。
支配下に置いたのは、ゴ・ナーム上層で撒き餌を放ったあと。
あのときニウフアメーは水しぶきを起こしてそれを数字のピー一体一体に当てていたが、実際はそのしぶきに魔力を溶かしていた。これによりピーたちを一種の洗脳状態に落としたのである。
そのあと接触したガーオ(๙)、ヌン(๑)、スーン(๐)の数字に対しても同じことをやっている。
ニウフアメーは数字のピーとスカティたちとのあいだには接点があると確信していた。
だからいざというとき利用するためにピーたちを洗脳したわけだ。
うまい具合に数字のピーたちはコントロールされ、結果としてスカティの攻撃を空振りさせた。
ただし付着していた魔力が消費されたため、数字のピーたちは現在ニウフアメーの支配下から解放されている。
それでもスカティはニウフアメーの髪によって捕らわれてしまった。
降伏を勧めるニウフアメー。
スカティがそれに応じることはない。
ウィマーンは切り落とされていない右手を伸ばし、下からニウフアメーの髪を突き破った。
そこにガラガラした声が差し挟まれる。
「ปลาไหลก้าม(プラーライ・ガーム)〔ハサミウナギ!〕」
ニウフアメーのかかえるリアンゲの頭部から黒いウナギ型のピーが出現した。
以前エーンのもとに向かっていたジャンク船を襲ったピーだ。
サソリに似た一対のハサミが側面から生えているものの、前よりもサイズは縮んでおり、今の全長は三メート程度。
そのハサミウナギはもともとリアンゲのピーであり、アーティットとエーンのタコに撃退されたあと長距離を泳いでリアンゲの頭のなかに宿りなおしていた。
頭部だけとなったリアンゲが鐘のイヤリングを使えることにアーティットは疑問を覚えていたわけだが、そのときリアンゲがほのめかした「手」というのが、このハサミウナギのピーである。
今まさにリアンゲのハサミウナギがウィマーンの手にからみつき、サソリのようなハサミを指に食い込ませた。
「人類を滅ぼす、か。いやあ~、わたしは君たちの願いを尊重するよ」
半透明の箱に入ったままリアンゲがは虫類のような目を細める。
「並々ならぬ思いがあるんじゃないかね。ウィマーン……君が中途半端なところで文字保有者を襲ったのも巨大トカゲザメをけしかけたのも人間への憎しみをしっかり思い出しておきたかったからなんだろう?」
まばたきを不規則にくり返し、スカティさえも眩惑する。
「わたしの縄のなかではストレスがかからなかった。だから人類への憎しみも薄れてしまっていた。そのにぶった感覚のリハビリが必要だったわけだ。スカティ……君が棺桶にみずから籠もったのも、ストレスに常にさらされていたかったからだね。憎しみが癒やされることがないよう、縄の影響をなるべく遮断しておきたかった――違うかい? しかしそこまでして憎悪を育むということは、君たちは単純な心の満足を求めているのではなく一種の使命感に突き動かされているということかな」
「なに……?」
冥色の髪にからみつかれたスカティはもがきながらリアンゲをにらむ。
「おまえは、なんだ」
「【ง】ンゴーングー・リアンゲ、つかさどる字は蛇のンゴー」
あごを前後させ、不気味に笑う。
「わたしは君たちをけっして否定しない。理解を示すよ、仲間にならないかね? あ、わたしが仲間になってもいいんだが」
「奇妙な男だ……ッ!」
瞬間、スカティのまわりの髪が切れて青い霧がなかに入ってきた。
もともと霧は無害だが、超高密度で凝集した場合に限りその圧力で対象に攻撃をかけることができる。
勢いのまま、スカティはニウフアメーの髪で囲われた空間を脱出した。
しかし空気中の霧が晴れたため、即座にねらわれる。
振り上げられたキアのサーベルをかわしてジャンプする。
直後、頭がなにかに当たった。
頭上には膨らんだ灰色の円盤がある。
円盤の中央から女の下半身が生えている。
「ハートの下半身か……!」
「しかりしかり。レーンドゥンドゥート」
脳に直接響いてくる詠唱と共に、円盤から出た脚部がスカティを蹴った。
しかもスカティは吹っ飛ばされることなく、円盤に引き寄せられる。
まるで円盤に重力が働いているようだ。
何度も何度も引っ張られ、無数に蹴撃をもらう。スカティを踏み台にしてチャーイハートは小刻みに跳躍を連続させ、ほとんど同じ中空にとどまっていた。
ノーネーン(ณ)の力のためかチャーイハートとスカティ以外のすべての動きがスローになっているので、ウィマーンの救援もいまだに届かない。
「調子に……乗るなッ。もともと自身のものではなかった力をおのれの力と勘違いしている……バーがッ!」
「勘違いしているのはキサマだ。ちょっと説教してやろうか。小僧らしくな」
スカティの視点では下半身がしゃべっているように見えるものの、不思議と違和感はなかった。
「そも突き詰めていけば自分の体も自分の心も自我さえも、自分のものではないと言えるのだ。それらは自然や天から与えられたものである。そのなかで個人は、世界において自分の範囲と輪郭を探っていく。体とはなんだ。心とはなんだ。体が自分の手足だけだと誰が決めた。心が自分の内部にのみ存すると誰が言った。文字とはおのれから離れた心を示す。世界というリアルに生み落とした自己の肉体の分身でもある。ゆえにこの世に刻んだ文字はその文字を刻んだ者の一部であり、まぎれもなく本人の――」
最後に両の足裏がスカティの腹部に食い込んだ。
「力だ!」
真下へとスカティが飛ばされる。
そんな彼を、動きがスローではなくなったウィマーンの両手が受けとめた。
衝撃を吸収するように、受けとめる際に手を引いた。
スカティはウィマーンに礼を言ったあと、宙から落ちてくる円盤付きの下半身に反論する。
「……小憎らしい詭弁だ」
「ならばキサマの信念をつらぬけばいい」
チャーイハートの下半身は円盤を広げたままふわりとスカティの首に脚部を引っかけ、肩や頭部を固定する極め技の体勢に入った。
次回「157.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その3】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
プラーライ(ปลาไหล)→ウナギ
ガーム(ก้าม)→ハサミ
レーンドゥンドゥート(แรงดึงดูด)→重力




