154.ゼロの数字(๐)【後編】
ウィマーンの両手が握り込まれる直前、チャーイハートは小声で唱えていた。
「……ペラップバープ」
詠唱により、岩石で形成された色つきの人形がプリアさんとチャーイハートのそばに出現した。
それぞれ本物そっくりである。
チャーイハートは即座に水の地面に沈み込み、プリアさんの真下に移動。
水中から本物のプリアさんの足を引っ張り、その場から離脱させた。
結果としてウィマーンはプリアさんとチャーイハートを模した岩石だけを握りつぶしたわけだ。
チャーイハートがニセモノを用意してプリアさんを救出するのにかかった時間は一秒にも満たない。
腰の円盤を回転させて水中を高速移動したチャーイハートが、プリアさんをかかえたまま俺の近くで浮上する。
「アーティット。しばらくプリアを頼む」
精神的に不安定になったせいかプリアさんの目はうつろであり、動けそうにない。
俺にプリアさんを預けたチャーイハートは水中にもぐってウィマーンとスカティめがけて突き進んだ。
ウィマーンが容赦なくプリアさんたちに攻撃した時点で、すでに戦端はひらかれている。
チャーイハートがプリアさんを救い出していたあいだにスカティも戦局を大いに動かしていた。
ニウフアメーが「フォンナーネン」と詠唱して水でできた拳を頭上からたたき込もうとした瞬間、スカティは後退しつつ棺桶のピーを蹴り上げた。
扉の鍵があいたため、棺桶を動かすことが可能になったようだ。
さらに棺桶は水のこぶしを受けて斜めに落下し、ナーグルアを襲う。
この場にいる俺たちのなかでもっとも強いのがナーグルアであるとスカティは見抜いているらしい。
だから棺桶のピーで封印しようとしているのだろう。
が、ナーグルアは棍棒を一振りし、いとも簡単に棺桶を吹き飛ばした。棺桶は舞い上がり、水の天井に突き刺さる。
「軽いですわね」
「……鬼のようだな」
スカティは距離をとりつつ、キアのサーベルを右手首に受ける。
しかし刀身がスカティの皮膚を裂くことはなかった。
ほかのみんなと情報共有する意味も込めてキアが大きな声で言う。
「硬いな貴様」
「お任せくださいましノーヌー(น)さま」
ナーグルアが水の地面を蹴って砲弾のようにスカティに肉迫。
現在、ヒマが赤い光を発しながら動きまわってウィマーンの両手を引きつけている。
クマリーがローリン(ล)を宙に書いてヒマを強化しているのだ。
よってナーグルアを邪魔する者はない。
どんなにスカティの体が硬質でもナーグルアの打撃に耐えられるわけがない。
スカティはさらに後退しようとしたものの背後に移動してきたキアによって退路を断たれる。
突起の付いた黒く太いナーグルアのそれがスカティの下腹部に直撃した。
「ぐがああッ!」
出血することはなかったものの、スカティの胴体がひしゃげ、悲鳴があたりにこだまする。
ただしナーグルアはスカティを殺さないよう手加減している。
ここでスカティを殺せばウィマーンとの和解の線は完全になくなるし、文字の精霊などに関する情報をこれ以上引き出せなくなる。
(死体を回収できればホーノックフーク(ฮ)がある程度の真実を閲覧してくれるだろうが、それも限界があるかもしれないからな)
もともと棺桶が立てられていたのは天井の高い大部屋の中央。
背後にいたキアもすぐ移動したので、スカティは後ろの水の壁まで長距離を飛ぶハメになった。
しかし吹き飛ばされながらスカティがつぶやく。
「――落ちろ」
すると大部屋の天井に刺さっていた棺桶が膨らみ、赤茶色の木材でできた巨大な板に変形した。
すかさず俺たちを圧殺しようと落下してくる。
ジャンプしたナーグルアがそれをコナゴナに破壊する。
赤茶色の破片はナーグルアのまわりで直方体のかたちをとった。
たちまち棺桶の形状に戻ってナーグルアをそのなかに封じ込める。
背の高い彼女に合わせたためか、棺桶はスカティを封印していたときよりも大きくなっているようだ。
一瞬のうちに、十段に分かれた扉が強固に閉まった。
横向きのまま着水し、なかのナーグルアと共に沈んでいく。
(エーンによれば、鍵をあけない限り動かすことも壊すこともできないという絶対的な自然法則があの棺桶限定で働いているんだったな。となるとナーグルアでも内部から脱出するのは難しいか。ともあれ今の状況に合わせて動かないとな)
これでこちらの当面の戦力は十名。
ヒマとクマリーに加勢し、チャーイハートがウィマーンの両手に腰の円盤をたたきつける。
キアは絶えずスカティに刃を振るい続けており、リアンゲを左わきにかかえたニウフアメーも右の手刀を振って鋭い空気を飛ばしている。
俺も棒立ちだったわけではない。
ホタルの光に似た斥候の兵隊を分裂させて飛ばしつつ、周囲を警戒する必要があった。
そのうちの一つの光が黄緑色に点滅しながら戻ってくる。
「……一人、見つけたか」
ラートと共にこの場を離れる前に俺は声をかける。
「エーン。君はもう一人を探りながらプリアのそばにいてくれ」
「がってん」
五本足のタコを風船のように連れたエーンが、放心状態のプリアさんを片手でだきかかえる。
俺は走りながら戦友を呼ぶ。
「サラサ」
「乗りな、アーティ」
水の地面を走るサラサの背中に俺はまたがり、見えない手綱を握った。
サラサルアイはモーマー(ม)の力によって不可視の馬具を装備している。
あぶみも鞍もあるので、安定感は申し分ない。
点滅するラートを追跡しつつ、サラサが螺旋状の長い坂を駆け上がる。
途中で水の壁に進入し、なかを泳ぐ。
スカティとウィマーンのいる大部屋からは遠ざかる格好だ。
相手の視界に入らないよう大きく迂回しながら進み、間もなく水中から顔を出す。
俺は音もなくサラサから下馬し、たどり着いた小部屋のはしにしゃがんで金色の目を細めている大男の背後をとった。
黒い髪を見下ろし、話しかける。
「あいだに厚い水の壁があるのに、戦況はちゃんと見えるのか?」
「まあ、目をこらせばなんとかなるのだ」
男はこちらを振り返ろうともしない。
俺は男の臀部につま先を当て、言葉を重ねる。
「優雅にのぞきを決め込むとは、ずいぶん観光を楽しんでいるようだな……ジェオ」
「そうそう。今いいところなんだ、アーティット」
「あ、ヨム」
「えっ!」
大男――ジェオはさすがに立ち上がり、あたりを見回した。
だがヨムはいない。
「あ~、こりゃ、やられたのだ。だまされちゃった」
「その反応、やはりヨムを知っていたわけか。ゲーンタハーン・ホーク」
ジェオの目の下に浮かんだ一対のサーム(๓)の入れ墨を見ながら、俺は左手の平から槍を抜いた。
「純真なあなたのことだから、別のなにかに集中しているときにボロを出すと思ったよ。ヨムはスカティとウィマーンを仲間にするようあなたとマリに指示し、俺たちに数字のピーを集めさせ……そのあとは棺桶の扉がひらいてから介入したほうがいいともアドバイスしたんだろう? 人間を憎んでいる様子のスカティとウィマーンは簡単にはあなたたちについていかないはずだから、二人が弱ってから連れ帰るか……あるいは二人がピンチになったところで救いの手を差し伸べて信用を得るようにと言われているんじゃないのか。だからここで高みの見物をしているんだろう。だが俺たちも重要な局面で介入されたら困る。その前にこっちから来てやった」
「……やっぱりアーティットはおもしろい男の子なのだ」
俺の斜め後ろに控えるサラサのほうにも目をやってジェオが肩をすくめる。
「でもナーグルアが封印されちゃった状態で、仲間を置いてきてよかったのかな。ウィマーンとスカティはとっても強いみたいだぞ。おまえら、負けるかもな」
「ジェオもまだみんなのことがよく分かっていないみたいだな」
右手に槍をつかんだ俺は左手の平を開閉し、トータハーン(ท)の字をさらした。
「みんな頼りになるんだ。強いリーダーもいる。だから俺たち文字保有者が負ける確率は――」
つかみかかろうとするジェオをいなす。
彼の目の前で槍の穂先を回し、丸い軌跡をえがいてやった。
「ゼロだよ」
次回「155.【ณ】小僧のノー・チャーイハート【その1】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ペラップバープ(แพะรับบาป)→スケープゴート




