152.ゼロの数字(๐)【前編】
あらためて確認してみると、ゴ・ナーム最下層に入った文字保有者十一人は一人をのぞいて全員水着の状態である。
もともと水着だったエーンから始まり、チャーイハート、キア、クマリー、ヒマ、プリアさん、サラサルアイ、俺、ニウフアメーが順に水着に着替えていった。
最下層に入る直前、ナーグルアもエーンから水着を借りて着替えている。
ほかのみんなが水着になってしまったから自分だけ着替えていないのは気まずい――という心境ではなく、作戦の最終局面だから自分も楽しみたいとのことだ。
ただし頭部だけのリアンゲは水着を装着できないので、一人だけ例外である。
でも例外と言うならば、俺もそうだ。
ほかの十人が低子音単独字の文字を持つのに対し、俺は低子音対応字であるトータハーン(ท)の文字保有者。
さらに、俺だけに数字の精霊がついていない。
ガーオ(๙)はロージュラー・エーンに。
ペート(๘)はヨーイン・ニウフアメーに。
ジェット(๗)はモーマー・サラサルアイに。
ホック(๖)はローリン・ヒマに。
ハー(๕)はンゴーングー・リアンゲに。
シー(๔)はヨーヤック・ナーグルアに。
サーム(๓)はノーヌー・キアに。
ソーン(๒)はウォーウェーン・クマリーに。
ヌン(๑)はノーネーン・チャーイハートに。
スーン(๐)はロールア・プリアに。
最深部に来る前、スーン(๐)のピーと遭遇したとき、俺はクマリーにその書き順を教えた。
ゼロに対応する字がスーン(๐)だ。
少しだけ横長の大きな丸を書いて終わりである。
俺は反時計回りで線を引っ張ったが、人によっては時計回りで書く人もいるかもしれない。
なんにせよ「数字のゼロ」すなわち「スーン(๐)」のかたちはこれまで学んだどの文字や数字よりも簡単だ。
クマリーは宙に丸を何回もしるしてつぶやいていた。
「なんか……すべての文字がここから始まるって感じですね……っ。スーン・ヌン・ソーン・サーム・シー・ハー・ホック・ジェット・ペート・ガーオ!」
一桁の数字を順に述べつつ、対応する数字(๐ ๑ ๒ ๓ ๔ ๕ ๖ ๗ ๘ ๙)を書いてみせる。
「あ、お兄さんお兄さんっ! クマリーは大発見しましたっ! どの数字も丸から始まっていますよっ。全部スーン(๐)ちゃんから書き出してるんです」
「……本当だな。それは世紀の大発見だ」
「えへへっ。……あ、もしかしたら」
なにかに気づいたのか、クマリーが今まで学んだ子音字四十二個をしるす。
宙ではなく水の地面に書いているので俺たちが強化されることはない。
「やっぱり。すごいことに気づいてしまいました……っ」
「どんなことだ」
「四十二個ある文字のうち、ディアオさんのゴーガイ(ก)とファちゃんのトートン(ธ)以外はすべて丸から始まるんですっ!」
「よく気づいたな」
事実、ゴーガイとトートンをのぞく四十字(ข ค ฆ ง จ ฉ ช ซ ฌ ญ ฎ ฏ ฐ ฑ ฒ ณ ด ต ถ ท น บ ป ผ ฝ พ ฟ ภ ม ย ร ล ว ศ ษ ส ห ฬ อ ฮ)を思い出してみると分かるが、いずれの字形もスーン(๐)を基礎として形成されている。
俺たち文字保有者の存在も同じ名前を持つあの男から始まった。
スーンはディアオの体を乗っ取っていたとき、地面を円形にえぐり取って言った。
(――この字のかたちは指輪のリングのそれに似ている。まさに「指輪のウォー(ว)」に選ばれたこの私……ウォーウェーン・スーンにふさわしい字形と言えよう)
あの男はゼロの数字(๐)を示す自分の名前に誇らしさを覚えていたのだろう。
丸は文字にも数字にも遍在する。
円とは一つの調和であり、限られた閉鎖空間でもある。
その封じられたかたちをタネとして、まるでそこから芽吹くように字は書き出される。
そうして形成される軌跡は、それぞれの字が放出するエネルギーのかたちそのものかもしれない。
そんな文字のエネルギーを吸ったと思われる数字のピーたちこそが、扉をあける鍵となる。
スカティの封印されている棺桶に近づこうとした俺たちだったが、その場で足をとめる。
水の地面から生えている竜の両手から青い霧が生じ、その霧が動いて宙に文字列を作ったからだ。
【หยุด(ユット)〔とまれ〕】
俺はクマリーの手を握ってその意味を伝えた。
青い霧には見覚えがある。
クジラの落とし物現象のようにギンガー海域に広がっていた微小なピーの集まりだ。
霧は俺たちの停止を確認したのち、また別の文字列を形成する。
【まずはスーン(๐)とヌン(๑)の数字を持つ者だけがこちらに来い】
スーン(๐)を持つプリアさんは後退しようとしたものの、ヌン(๑)を持つチャーイハートは脳に直接響いてくるような声で柔らかくささやいた。
「安心しろプリア。拙が守る」
チャーイハートが胸を張り、堂々と棺桶へと近づく。
プリアさんは俺たちのほうに目を泳がせたあと、ギュッと目をつむってからチャーイハートの後ろについた。
二人は直立した棺桶の扉の前でとまった。
マンゴーン――すなわちウィマーンの三メートを超す両手が、鋭い爪をプリアさんとチャーイハートに向けた。
ようするに、おかしなマネをしたら即座に殺すと言っている。
なおウィマーンの両手以外の部位は水に沈んでいるため、その全容は相変わらず把握できない。水の地面の下に大きなシルエットがあるのは確かだが。
ガタガタ震えるプリアさんをかばうようにチャーイハートが前に出る。
両手に向かって話しかける。
「ウィマーンどの。拙たちはこの島のなかで、両手両足を持つ巨大なサメと交戦した。今は封印しているが後日それはとける。このサメについてウィマーンどのに心当たりは?」
【答える義理はない】
「では感謝を述べさせてほしい。拙の仲間たちはウィマーンどのが誘導してくれたおかげで数字のピーを見つけられたそうだ」
【おまえたちのために、やったことではない】
青い霧のピーは数秒もかけずに新しい文字列に変化する。
一方、スーン(๐)とヌン(๑)のピーは扉の右側にあるくぼみにはまった。
自身と同形の彫り込みに収まったのち、赤い輝きを発する。
十段に分かれた扉の、上から一段目と二段目が手前にひらく。
そこには、豊かな白髪と力強い黒目を有する青年の顔があった。
あまりにも整いすぎた容姿である。
比べるものではないと思うが、神話級の器量を持つダーンナーの美貌ともまた違う。
棺桶から顔をさらした青年の美は、どこか近寄りがたい性質を宿している。
ふれたらその部位が凍死してしまいそうな、極めて冷たい氷のような危険な美しさとでも言えばいいのだろうか。
「あらためて名乗ろうか」
厳格そうな低い声は前に聞いたときと変わりないものの、顔の前面の扉がひらいているため、かなりハッキリ聞き取れる。
「私はラーンソンのスカティ。そして左右から出ている手は私の婚約者であるウィマーンのものだ」
「お初にお目にかかる、拙はチャーイハート」
チャーイハートが樺色の視線を返す。
「仲間から事情は聞いている。そしてスカティどのを棺桶より出すべく、数字のピーを十体集めて来た。すぐにあけよう」
これでスカティを棺桶から出すことができれば、ウィマーンも彼を守るためにギンガー海域を荒らす必要がなくなる。
だがスカティはかぶりを振った。
「しばらくこのまま話をさせろ」
あごを上げ、クマリーのほうを指し示す。
「あのピーの子はクマリーと言ったか」
首肯するチャーイハートに言葉を続ける。
「クマリーはウォーウェーン(ว)を刻んでいるな。スーンが譲ったのか。……スーンは知っているだろう、灰色の髪と瞳を持つ男だ。すでに九十を超えている」
どうやらスカティは文字に対する勘が働くだけでなくスーンの知り合いだったようだ。
チャーイハートが冷静に答える。
「無論、知っている。少し事情は複雑だが、スーンが死んだあとクマリーにウォーウェーンが渡ったのだ」
「なるほど、あの男はすでにこの世にいないと」
「友人であったのか」
「心の底から軽蔑していた」
スーンとスカティはただならぬ関係であったらしい。
ただしチャーイハートがその詳細を探ろうとしても、スカティは答えようとしなかった。
(できるならホーノックフークとスカティを対面させたいところだが……そこまで甘い相手じゃないな)
スカティはリアンゲの頭部にも視線をやった。
それはンゴーングー(ง)の縄によって捕らわれていたというあかしなのだろうか。
ついでチャーイハートに視線を戻す。
彼女の上半身と下半身のあいだにある灰色の円盤をじっと見る。
「おまえのその腰にある円形の板も、スーンの髪や瞳と同じ灰色のようだな」
「しかり。光栄なことにな」
「……チャーイハートとやら」
まばたきしたのちスカティは、左目で彼女の上半身を、右目で彼女の下半身を見た。
器用な視線のやり方だが……彼の美しさは少しも損なわれていない。
「おまえは何者だ。なぜ魂を二つ持っている」
次回「153.ゼロの数字(๐)【中編】」に続く!(8月1日(土)19時から23時59分のあいだに更新)
๐←これが「0」の数字。アラビア数字と比べてちょっと横長ですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
スーン(ศูนย์)→数字の0(๐)
ユット(หยุด)→とまる




