138.第五の数字(๕)【前編】
誰かと顔を合わせたとき、俺たちは状況に応じて相手とあいさつを交わす。
そのあいさつのなかで、とくに多く使われるのが「サワッディー」だ。
時間帯にかかわらず有効なので、かなり便利なあいさつと言える。
サワッディーとは「おはよう」でもあり「こんにちは」でもあり「こんばんは」でもあるのだ。
さて話し言葉としてのサワッディーはクマリーも知っているわけだが、今回彼女は書き言葉として「サワッディー」を学びたいようだ。
コープクン(ขอบคุณ)と同じで、声調記号はない。
よって書き言葉としての難度は低い。
そもそも「サ・シ・ス・セ・ソ」の音を示す文字は低子音対応字のソーソー(ซ)と高子音のソーサーラー(ศ)、ソールーシー(ษ)、ソースーア(ส)の合計四つ。
このなかのソースーア(ส)をまずは使う。
続く「ワ」の音を示すのはウォーウェーン(ว)で確定なので、ソースーアとウォーウェーンを並べたもの(สว)を書けばいい。
二重子音ではないものの、「サワ」でひとセットの子音のようになっているため「サ」に母音記号は不要。
そして「ワ」のほうに、つまりウォーウェーン(ว)のほうに「ア」という母音をあらわす記号をつけることになる。
音の塊の最後ではないのでウィサンチャニー(ะ)ではなくマーイハンアーガート(–ั)で短い「ア」を表現する。
促音に近くなるため「サワッ」という音に聞こえる。
クマリーが以上の説明を聞きながら、俺の右手に人差し指をすべらせていく。
「サワッディーの『サワッ』までは書けましたから……次は『ディー』ですねっ」
「いや、もう一つ子音があいだに入る」
注意深く「サワッディー」というあいさつに耳をかたむけると、実際は「サワットディー」と言っているのが分かる。「ト」の部分は「ディー」と重なってほとんど聞き取れないものの、書き言葉としてしるす場合はこの「ト」も忘れてはいけない。
「で、サワッディー(サワットディー)の『ト』をあらわすのに使われる字はソースーア(ส)だ」
「ひとつのあいさつのなかで二回も使用するとはびっくりですっ! でもソースーアは『サ・シ・ス・セ・ソ』みたいな音を示すのでは……? 末子音で特殊な発音になるにしても、ドーデック(ด)で『ト』をあらわしそうなものですがっ」
「マレットから習ったことをちゃんと覚えていて偉いな。でもソースーア(ส)も音の塊の最後に位置したとき発音が『ト』に変化するんだ」
「なっ! ……意外すぎてクマリー、おったまげましたっ!」
「混乱するよな。もしくは音の最後の『ト』をあらわすとき、いろいろな字を使わず全部ドーデック(ด)で統一したほうがいいと思うか」
「いいえっ!」
ふにゃふにゃ声を引き締め、クマリーが俺を見上げる。
「……『音だけでは表現できない言葉があるから、同じ音を違うかたちであらわすこともある』というプラトゥ師匠の言葉をクマリーは忘れていません! 同じ音を表現するにしてもその書き言葉にふさわしい文字を選んで表現する――このアツアツのこだわりに、クマリーは人類の魂を見るんです。こだわってなにかを伝えようとするからこそ、人の文字も書き言葉も素晴らしくおもしろいんだと思いますっ!」
「本当にクマリーは真剣に楽しみながら文字や書き言葉を学んでいるんだな」
一方の俺はクマリーほどの熱意をもって文字を学んだ記憶がない。
(俺を傭兵として育てた組織の内部には独自の学校があったけど、当時の俺は機械的に知識を詰め込むだけだったしな)
それでもモーマー(ม)とノーヌー(น)が似ていると気づいたときなどは、自分が天才なんじゃないかと思ったりもしたわけだ。
顔の知らない俺の両親も文字を学んだ際に同じことを考えていたとすれば、書き言葉の伝承というのは単なる知識の受け渡しではなく複数の世代間における感情のリプレイでもあるのかもしれない。
物理的に刻む文字だからこそ、そこに宿る感情はより強烈になるのだろうか。
朝・昼・夜を問わず数えきれないほどくり返されてきた「サワッディー」というあいさつもまた、例外ではなさそうだ。
やはりクマリーはその文字列を熱意と共に吸収しようとする。
最後は「ディー」を書くことになる。
この場合ルディ(ฤดี)のディ(ดี)と同様にドーデック(ด)にピンイ(–ิ)とフォントーン(')を載せて長い「イー」をあらわせばいい。
なお「ダ・ディ・ドゥ・デ・ド」を示す文字としてはドーチャダー(ฎ)も存在するが、使用頻度は圧倒的にドーデック(ด)のほうが上なので迷ったときはドーデックのほうを優先的に思い出すのがいいだろう。
ともあれ、こうしてクマリーはコープクン(ขอบคุณ)に続いて「サワッディー(สวัสดี)」という書き言葉を学んだ。
朝に使えば、「おはよう」だ。
クマリーは俺の手にあらためてコープクン(ขอบคุณ)と書いたあと、サワッディー(สวัสดี)とも付け足した。
あえて言葉を使わず、静かにほほえんでいる。
だから俺も口を閉じたまま、サワッディー(สวัสดี)と彼女の手にしるした。
* *
しばらくして外の海上にいるチャーイハートとイヤリングで連絡をとると、すでに日が昇っていることが明らかになった。
ゴ・ナーム内部も少しだけ明るくなった気がする。
クマリーは寝袋から出たプリアさん・ヒマ・キア・ナーグルア一人一人の手にふれてサワッディー(สวัสดี)という言葉を書いていく。
あらためて、時間帯が分かりにくい状況でも堂々と使えるサワッディーというあいさつは本当に便利だなと俺は思った。
ヒマもナーグルアも書き言葉によるクマリーのあいさつを好意的に受け入れているようだ。
キアは相変わらず無表情だが不快そうな顔をしているわけではない。
プリアさんはクマリーにふれられてビクッとした。
表面上は笑顔を作ろうとしているものの、どこか焦りの混ざった表情にも見える。
* *
タハーン・アーガートの空気のクッションを解除し、俺たちは再び水のゆかに着地した。
ゴ・ナームの小部屋のなかで俺は全員がそろっていることを確認したうえで、体調等に問題があるなら遠慮せずいつでも言ってほしいと伝えた。
それから作戦目的と状況をあらためて共有する。
「現在俺たちが進めている作戦の最終目的はギンガー海域の制圧。海域で暴れてトカゲザメを外に追い出している精霊の正体を俺たちが突きとめ、場合によってはそれを鎮静化してこの目的を達成する必要がある」
早朝、チャーイハートと連絡をとった段階で、作戦目的に変更がないことを確認し合っている。
「言うまでもなく俺・クマリー・ヒマ・プリア・キア・ナーグルアの六名は水の島『ゴ・ナーム』内部を探索し、そのピーの手がかりを探している最中。一方、チャーイハート・リアンゲ・ニウフアメー・サラサルアイ・エーンの五名は島の外側を回って海域そのものの状況を明らかにしているところ。きょうも引き続き、それぞれの班で行動し……途中で合流を図る予定だ。ただしジェオは警戒しなければならない。ヨムの仲間である可能性はゼロじゃないからな。また、数字のかたちをしたピーは作戦目標のピーとも関係があるかもしれないから基本無視しない方針だけど、作戦において絶対に重要とも言いきれない。だから積極的に接触する必要はない」
「了解――」
ソーン(๒)、サーム(๓)、シー(๔)のピーを連れたクマリー、キア、ナーグルアの三人がうなずく。
ぱしゃぱしゃ跳ねながらヒマが手を挙げる。
「アーティット! 作戦も二日目に入ったし、ギンガー海域で暴れているヤバいピーの情報を分かる範囲でもう一度確認しておいたほうがいいと思いまーす」
「ヒマの言うとおりだな。いまだ対象のピーの全容を見た人間はいないがギンガー海域から逃げてきた漁師や化け物係の証言によると――」
きのうギンガー海域に向かう途中で、チャーイハートから情報は聞いている。
「巨大な蛇に見えたらしいな。漁師は鱗が緑だったと言い、化け物係によると鱗は青かった」
「もしかすれば相手は一体ではないのかもしれませんわね、トータハーン(ท)さま」
「ああ、たぶんナーグルアの予想は当たっていると思う。しかも、しっぽらしき部位を振り回すだけで魚群が粉砕されて文字どおり粉末状になったとか」
「破壊力ありすぎですよ……っ」
「そうだなプリアさ……プリア。水の島『ゴ・ナーム』を作ったのが同一のピーだとすれば、相手は破壊も創造もこなせるピーということになる」
「でも今は静かにしているっぽいですねっ」
「クマリーも気づいたか。暴れていたはずのピーが今はおとなしくしているのが不気味だ。チャーイハート班も、まだ対象のピーと遭遇していないようだしな。……もちろん会ったら見のがすはずはない。化け物係によると青い頭部からシカのツノとナマズのヒゲが生えていたらしいし、そんな特徴的な外見を持っていたら絶対に目立つ」
「シカのツノにナマズのヒゲって……なんか見たことありますね」
プリアさんが記憶の糸をたぐっている。
自分の目でそのかたちをハッキリ見たのは、プリアさんに加えて俺とキア。
いや、そのときスーンに取り込まれていたクマリーも目撃していたかもしれない。
スーン相手にスープパンが出していたあのかたちを。
その戦いに参加していなかったヒマとナーグルアに視線をやって俺は言う。
「くだんのピーはマンゴーン……『竜』の可能性がある」
クルムの言葉を思い出してみると、あのときのスープパンはリアンゲの縄をより合わせて竜を作成したらしいが……今回の竜は本物かもしれない。
竜といえば伝説の存在である。
とはいえ俺たちの仲間には同様に伝説の生き物であるシーフーハーターのミーがいるくらいだ。
今さらこの世界に竜がいても、別に変だとは思わない。
次回「139.第五の数字(๕)【中編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
サワッディー(สวัสดี)→おはよう・こんにちは・こんばんは




