123.【ธ】旗のトー・ファ【その6】
「本当に救う気があるのなら……」
ファが俺の二の腕をつかむ。
「今すぐ殺してくださいよ。自分は自分を確実に殺せるアーティットを段階的に育て上げるために十三人の文字保有者と協力したのです。殺されるのを望んでいないと、どうして断言できるんですか」
「君に協力した文字保有者たちは俺を殺戮人形にしようとはしなかったよ。それに、ただ殺してほしいのなら露骨な誘導を俺に何回もおこなうのは不合理だ。そんなことをされたら君の真意に俺も気づくに決まっているからな。あえてへそをいじくって俺を逆上させようとしたのもその一環」
「いえ、あれだけは純粋な欲望にもとづく行為です」
「え?」
「戦いのなかで興奮しちゃって、つい」
「そうか……ともあれ君が本当に死を望んでいたとしたら、君に協力している文字保有者――とくに君の死ん友のフルンフリンが必ずそれを見抜いて俺に伝えていたはずだ。だがフルンフリンは、そういうにおわせをまったくやらなかった。君が無事に帰ってくると信じていたからだ」
「フフですか。自分は……フフの死ん友でいられるほど価値のある人間ではありません」
「そんなことはないよ。君は優しい人だ。本当はクマリーを殺す気もなかったんだろう?」
震える両手を腕で受けとめ、俺は続ける。
「すでに君のまなざしはクマリーへの反発を軟化させているように見える。クマリーの文字学習も君は邪魔しようとしなかったし、そもそも彼女に旗を刺すこともなかった。君は無理をして過剰にクマリーへと冷たい態度を返していたんだ。俺の敵意を引き出せるか、引き出せたとしたら俺がどんな行動をとるか――そういったことを観察するために」
「……でもクマリーに消えてほしいと思ったのも事実でありますよ。自分があなたと戦場を共有できなくなった一方で、クマリーはおへそを共有できるんですから」
「すまないな。俺がトゥアムの育児嚢を持っていたら話は違ったんだが」
「アーティットをそのように作り替えるのはバンダーでも不可能でありましょうな」
手を俺から離したファは、現在まとっている俺の上着をギュッとつかんだ。
「だけどこのぬくもりはわたしとアーティットだけの……」
顔の下半分にも上着の一部を押し付ける。
「幸せ……このまま一緒に死にません?」
「それはできないな。精いっぱい死に抗ったうえで、君とは戦場で死ぬのがいい」
「もう戦場には、ほとんど来ないんでしょう?」
「誰かを死なすための戦争には参加しない。誰かを生かすための戦争には参加する」
「抽象的ですね。『そもそも誰かの世界を守り、誰かの世界を少しだけ広げるために戦う』というあなたの目的自体も自分にとっては分かりにくいんでありますよ。もっと具体的に説明していただきたい。たとえばクマリーを例に挙げると?」
「文字を学んで自分の世界を広げるクマリーが安心して幸せになれるよう、俺がクマリーの安全を守る。クマリーのまわりに広がる文字や言葉といった世界も壊させない」
「じゃ、じゃあ……わたしを例に挙げると?」
「かけがえのない戦友であるファが幸せに生きられるよう、そして幸せに死ねるよう、俺がファを救い続ける。ファの生死に関わる世界に、俺は存在し続ける。もしファを踏みにじる兵隊がいれば、俺はそいつを俺個人として許さない」
「その言葉が本当なら、自分もアーティットを救ってみたいでありますな」
「もちろん俺は君とずっと一緒にいられるわけじゃない。それはクマリーも同じだ」
「分かっているでありますよ。しかし自分は戦場からは離れられそうにありません」
瑠璃色の髪を、ファが俺の胴衣に当てた。
こちらの胸で顔を動かし、髪と同色の瞳で見上げる。
「平和な空間にずっといると、思い出されるんです……お父さんとお母さんが殺されたときのことが」
「ファ……」
「この穏やかな空気も次の瞬間に壊れるんじゃないかと思うと……耐えられなくて、苦しいの……」
「君が慈善団体から離れて戦場に向かったのは、その平和が悲しい記憶を呼び起こすからでもあったんだな」
「どうしたらいいんでしょう……今も怖いです」
「怖がる必要はないよ」
肩に手を添え、俺はファにささやく。
「なぜなら君の目の前にいるのは兵隊だからだ。安全で平和な場所に……兵隊がいるはずないだろう?」
「その……とおりです。両親との幸せは、敵兵の侵入と共に終わったのですから。それがなければ、あなたという兵隊ともめぐり会わなかったのですから……」
「だったら兵隊の俺がいる空間はとっくに壊れている。次の瞬間に壊れるかもしれないとおびえる必要はどこにもない。俺自身が、その証明だ」
「……だけどアーティットと一緒じゃないときはどうすればいい……?」
「不安なときは鐘のイヤリングで連絡してほしい。いや……たとえそうしなくても、俺たちのいる丸い大地はどこも戦場のようなものだ。穏やかそうに見えてもすでに壊れていて、地続きの大地のどこかにそれを象徴する兵隊が詰めている。だからどんなに遠くにいても、俺はファの世界に存在し続けるんだ」
「アーティット……そうでありますか、わたしはどこにいても……もう怖がらなくてもいいんですね」
透きとおった涙声と共にファは、俺と――ずっと話を聞いていたクマリーを交互に見た。
「あなたを裏切り者のように言ったことや堕落したなどと侮辱したことも含め本当にすみませんでした、アーティット。そしてクマリー、あなたに冷淡な態度をとり、罵声を浴びせ、アーティットを腑抜けさせた元凶と決めつけていたことも謝罪いたします。その発言は撤回します。うらやましいですが、あなたはアーティットの相棒です。むしろあなたの存在が、アーティットをさらに強くしたのだと戦いを通じて確信しました」
「ファちゃん……っ」
クマリーが口をひらき、ファの前に着地した。
俺はいったんファから離れ、少し後ろに下がった。
ファが瑠璃色の視線をクマリーに向け、ほほえむ。
「ありがとう、クマリー。わたしがアーティットと話しているあいだ、気をつかって口を閉じてくれていたよね」
「うん、クマリーはファちゃんの思い、全部受けとめたよ」
自分の両手をファの右手にかぶせ、クマリーが優しく返す。
「そしてクマリーの伝えたい気持ちはやっぱり『お友達になろう』だよっ!」
「わた……自分はクマリーにさんざんひどいことを言ったであります。忘れていないでしょう」
「もちろん。でもそれって」
小さな手に力が込められる。
「ファちゃんもお兄さんのことが大好きだからなんだよね?」
「ま、まあそう言えなくもないかな……っ」
「クマリーはお兄さんが好き。だからお兄さんのことが好きなファちゃんも好きなんだっ。友達になりたいくらいにっ!」
「といってもわたしとしてはクマリーの『お兄さん』呼びに嫉妬しちゃうんだよ」
ファの砕けた言葉づかいに、少し生気が宿り始めた。
「昔、お父さんとお母さんに『お兄ちゃんがほしい』って言ったことを思い出すから……」
「じゃあファちゃんはお兄さんをお兄ちゃんと呼べばいいんじゃないかな。ンゴットさんも『アーティットおにい』って言ってるし」
「いやンゴットガームは……まあ、いいんだけど。そ、それなら……っ」
ファは頬をほんのり紅潮させながら俺に上目づかいを送った。
「お、お兄ちゃん……!」
直後、顔を深紅に染めた。
「ややや、やっぱり恥ずかしいでありますって……っ。アーティットも自分からこんな呼び方されたら嫌でありましょう……?」
「君の呼びたいように呼んでくれればそれが一番うれしいよ、ファ」
「お兄ちゃ……もといもといッ! アーティット……」
それからしばらくファは二つの呼び名を反復した。
顔色を落ち着けてから、再びクマリーと目を合わす。
「クマリー。わたし、なんか新しい家族ができたみたいで幸せだよ。あなたのおかげかな」
「ファちゃんがアーティットお兄さんのかけがえのない戦友だからだよ~」
「あなたのこと、ちょっと好きになった。だから……いじめたわたしが言うのも虫のいい話だけど、わたしと友達に……っ」
「わーいっ! これでファちゃんとクマリーは友達だねっ!」
どうやらクマリーはファのことを責めるつもりはないようだ。
ここでファが地面の泥に指をつける。
「わたしの名前の書き方、教えるよ。トートン(ธ)をなぞってもらってから『あとにしてもらえるでしょうか』って言って……ずっと教えずにいたから」
「ありがとう、ファちゃんっ」
「センセーのフォーファン(ฟ)に、フフ……フルンフリン(ฟรุ้งฟริ้ง)の名前にも使われている声調記号『マーイトー(◌้)』を載せるの。あとは分かる?」
「もちろん! 『アー』って伸ばす感じだからラークカーン(า)だねっ」
クマリーがフップカオダーオの裏面の地面に「ファ(ฟ้า)」という名前を書きしるした。
「なんかとっても澄んでる、お空みたいな名前。その空にはきっと、ポカポカのお日さまも浮いてるんだと思う!」
「……そうだね、そうかもしれないね」
微笑し、ファは立って俺に歩み寄る。
「もしもしアーティット。後悔してるでありますか? 自分を助けたこと」
「まったく後悔してないよ」
「そう……わたしを、救ってくれてありがとう。うれしかった」
身をかがめていた俺の後ろに回り、両腕を俺の肩から垂らした。
ついで俺の左手を同じ左手で取り、その腕を右に曲げる。
左手の平のトータハーン(ท)を右ひじ内側のトートン(ธ)にふれさせた。
「ファ(ฟ้า/空)が瑠璃の旗ならば、アーティット(อาทิตย์/太陽)は深紅の兵隊であります」
次回「124.文字を学んだその先へ(หลังจากเรียนรู้ตัวอักษร)【前編】」に続く!




