122.【ธ】旗のトー・ファ【その5】
空を隠す旗が燃える。
瑠璃の旗色に浮かんだ赤黒いトートン(ธ)が、炎に照らされ乱舞する。
「ドゥークレーン」
両手に持った旗と共にファが浮く。
高速で上昇し、空のかなたに消えようとする。
俺はクマリーの手を引いて走った。
「ファを追う。ここに来る際に世話になった旗がまだ機能するかもしれない」
その旗は、まだフップカオ・ダーオの底に残されていた。
旗の棒を握ると、俺とクマリーも天上めがけて上昇した。
行きのときと同じく、高度を上げても体に異変はない。
地上が丸く小さくなる。
やがて瑠璃色の星空の真ん中に俺たちは浮いた。
ファも巨大な旗を掲げたまま正面の宙を漂っている。
すでに旗の全体が燃えており、周囲を煌々と照らしていた。
「通常の宇宙ではありえない光景でありますが……とっくにこの宙域は自分が制圧しましたのでね。自分の旗が立った場所は、すべてトートン(ธ)の支配圏内です」
「だから空気がなくても話せているわけか」
「のんびりおしゃべりしている場合ではありませんよ」
左手だけで自分の旗をつかみ、弧をえがくようにそれを振る。
「自分はこれからこの大きな旗を丸い地上に撃ち込みます。そうすれば地上はバラバラに砕けておしまいです」
「ここは世界の裏面のはずだ。人間も精霊も俺たち以外にいないようだし、そんなことをする意味があるのか」
「裏面の地上が壊れれば表面の地上も同様に崩壊して誰も生きられなくなるであります。その瞬間を見計らってあなたとクマリーを表に戻せば殺害も容易というわけです」
「だったら旗を破壊する」
「それは無理でありますよ。もはやナーグルアやディアオのレベルでも直接壊すことはできません。トートンの保有者である自分を殺さない限り勢いはとまらないのですから」
「どうしてわざわざ俺たちに有利な情報を渡す」
つかんでいた旗から手を離し、俺は左手の平のトータハーン(ท)をファに向けた。
「説明は抜きにして、さっさと撃ち込んだほうがいいんじゃないか。のんびりおしゃべりをしている場合でもないだろう」
「心配せずとも今から投げます」
俺たちの頭上に移動し、ファが自分の旗を回転させて下に向けた。
巨大な旗の布が燃えながら、俺とクマリーと丸い地上を指し示す。
右ひじ内側のトートン(ธ)も赤く輝き、瑠璃を紫にも見せる。
「では永遠にチョークディーであります」
透明感に満ちた彼女の言葉と共に、逆さの旗が放たれた。
「さあ、どうするでありますアーティット!」
「破壊不可なら軌道をずらす」
「一緒にとめましょう、お兄さんっ!」
俺はクマリーと共に燃える旗へと向かう。
シャチ姿の海の兵隊の背中に乗って宙を泳いだ。
歯噛みするファの声が落ちてくる。
「この期に及んで自分に攻撃しない気ですか!」
言葉には応じず、俺は降下する旗の棒に取りついた。
旗の巨大化に伴い、棒も極太になっている。
いくら攻撃しても旗の軌道は変わりそうにない。
「仕方ない。旗の軌道をずらすのは諦めるしかないな」
「ついに悟りましたか。ちなみに落下を受けとめるのも不可能――って、なにを考えているんであります!」
ファが話しているあいだに俺はイノシシ姿のタハーン・ボックを呼び、ルアと共に棒の先端へと下りる。
燃え散る炎はルアに引き裂いてもらい、その後ろをボックと俺とクマリーが進む。
そうして、鋭くとがった先端部に到着した。
先端部から踏み切り、ボックの背中で俺は唱える。
「ルークタハーン・カンベット」
トータハーン(ท)を淡く光らせ、釣り竿を引き抜いた。
「ユート、ユート、ユート……」
詠唱を重ね続け、釣り糸をどこまでも伸ばす。
加えてクマリーにアーティット(อาทิตย์)という名前をくり返し書いてもらった。
青く、まばゆい光が俺から生じる。
力が外から静かに貼りつき、俺を限りない集中状態に落とす。
ただしファの用意した裏面から力を取り入れているためか、光は瑠璃色に近い。
(今なら伸ばした釣り糸の線がくっきり見える。糸の先の釣り針さえ鮮明だ)
小さい地上すら拡大しているように捉えられた。
釣り針をフップカオ・ダーオの盆地のふちに引っかける。
ボックを消し、ルアの背中に再びまたがる。
その状態でルアを横に泳がせ、釣り糸を引く。
すると丸い地上の位置が少しずれた。
(旗の軌道を変えられないなら、地上の軌道を変えればいい)
大地を俺が釣っている。
本当に荒唐無稽な光景だ。ダーンナーの神話のように意味が分からない。
それでも、トートン・ファに世界を滅ぼす力があるというのなら――。
同じ文字保有者であるトータハーン・アーティットにもそれを打ち破る力くらいはあるはずだ。
(ナーグルアは言っていた。「同時に、例外なく私たち文字保有者は一人で世界のすべてを滅ぼしうるとも確信しておりますの」と。ここはトータハーン(ท)を持つ俺も例外じゃないと仮定しよう)
丸い大地が引っ張られ、緩く回転しつつ動きだす。
(公転軌道からは外さない。あくまで少し季節を早める感じで……地震にならない程度に……慣性も考慮して)
あと少しで、旗が直撃する前に大地をずらせる。
そう思ったとき、クマリーがさけんだ。
「お兄さん! ファちゃんが上から!」
見上げると、自身の背丈ほどの旗を持ったファが俺たちに接近していた。
俺に気づかれたことを自覚したファは金切り声を上げた。
「アーティットォォッ!」
両手で持った旗の先端を俺の頭頂部に突き立てようとする。
俺は大地を引っ張るのに集中している。クマリーも俺の強化に専念している。
宙を泳ぐルアをそのポジションから外すわけにもいかない。
この場を切り抜ける確実な方法はファを即座に殺すことだけ――まるで誰かがそう言い聞かせているような情景でもある。
だが最初から、そんな道などありはしない。
「タハーン・ボック……ムーパー・ピアック」
ファの持った旗は俺の頭上に出現したボックに当たった。
ボックは小さなイノシシの群れとなり、ファにまとわりついた。
しかしファはひるまず、全身を使って再び旗を振り下ろす。
「今さらこんな攻撃で、自分が沈むものですかッ!」
「攻撃? すでに言ったはずだ」
丸い大地を釣る作業に集中しつつ、俺は目だけでファを見た。
「俺は君を絶対に傷つけないと。――プリアントゥア」
瞬間、イノシシの群れすべてがホタルの光に似たタハーン・ラートと入れ替わった。
俺を介してクマリーの強化を受けていたラートはいつも以上の輝きで、ファの視界をまばゆく照らす。
反射的に目を閉じたファは旗を外し、勢い余って下へと落ちる。
ここで丸い大地を引っ張る作業が完了した。
燃える巨大な旗は、表面にトートン(ธ)を浮かべたまま大地をかすめて過ぎ去った。
ファが猛スピードでその旗に激突する。
みずからの旗の炎が燃え移り、焦げる。
すぐにファは旗から弾き出されたものの、回転しながら燃え続ける。
だが絶対に失われてはならない右ひじ内側のトートン(ธ)だけは燃えなかった。
トカゲの姿をした医者の兵隊がそこにくっついていたからだ。
さらに分裂してファを囲っていたラートの光が一斉に、白いトカゲのしっぽとなる。
それぞれのしっぽはファの全身の患部にふれ、白い光に溶けていった。
焦げから復活したファが光のなかで瑠璃色の瞳をあける。
焼けてボロボロになった服の背中に釣り針が引っかかり、クンと引っ張り上げられる。
* *
俺は長袖の赤い上着を脱ぎ、引っ張り上げたファに着せた。
「プリアントゥアでボックをラートに入れ替えたあと、そのラートをさらにペートにチェンジさせた。しっぽについては事前に用意し、グラジョームのなかの氷室で保管していた。以前、氷室のなかが黄色ばっかりじゃないかとクマリーを驚かせてしまったことがあるから、ヨムとの戦いの備えにもなると思って白いものもバナナとは別に入れておいたんだ。君にやられて間もないからグラジョーム自体は出せないけど、保管したラートのしっぽだけを出すのは可能だったし」
「アーティット……どうして」
上着の身頃を両手で引っ張り、ファが震える。
「なんでわたしをそこまでして助けてくれたの……? ずっと、ひどい態度とってたのに……」
「君の本当の目的が分かったからだよ。いや――」
釣り針を彼女から外し、フップカオダーオのふちに引っかけなおす。
「ファが俺の一番の戦友で旗持ちで、絶対に失いたくない人だからだ」
「ア、アーティット……アーティットっ」
脚を曲げ、ファが脚部を上着に収めた。
「アーティットの上着、あったかいね……っ」
「俺の一張羅だ。クマリーにも貸したことがない」
「もう、調子いいんですから……あ、ありますから」
ファが顔ごと目を背け、口調を整えようとする。
ここでクマリーが指を休め、ファにささやく。
「クマリーは自分の衣装とセットのピーだからねー。お兄さんのおへそを借りることはあっても上着を借りることはこれからもないんじゃないかなっ! そこはファちゃん、うらやましいっ!」
「え……そうなんだ」
クマリーの頭をなで、ファは目を細めた。
「だったらいつか、棒にこの上着をくくりつけて赤い旗にしたいなあ」
* *
ユートの効力が切れて短くなっていく釣り糸を伝い、ファと俺とクマリーはフップカオダーオの裏面に戻ってきた。
瑠璃色の空気はやや薄くなっている。
呼んでいた兵隊をすべて消したあと、ひざをついてファと向き合う。
ファは俺の上着をまとったまま割座でうつむいている。
「自分を罰するであります」
目を合わさず、淡々と続ける。
「アーティットを死の危険にさらし、クマリーも巻き込み、仲間たちを扇動し、ヨムとの戦いに備えなければならないタイミングで文字保有者間の混乱を招きました。極刑になっても文句は言えません」
「……なぜ自分を追い込むんだ、ファ。君の本当の目的のためか」
黙って見守るクマリーの視線を感じながら、俺は膝行で少し近づく。
「最初から妙に君は、自分を殺さないといけないかのように俺の心を誘導していた。まるでそうしてほしいかのように」
「だったら、なんでありますか」
「そして君は港町で俺に旗を刺したあと、イーガーたちと俺を戦わせた。でも少し回りくどいな。俺が本当に腑抜けているか確かめ、根性をたたき直すことだけが目的ならそもそも君だけでも成立するんだ。なぜならファ……君は強いから。事実クマリーがいなかったら、俺は君に勝てていたか分からない」
ひざを泥に食い込ませた状態で、俺はファの目の前でとまる。
「しかし君は俺にある目的を隠していた。ファ自身が俺の実力をチェックして鍛え上げる場合、その真意が露見するおそれがあった。それを恐れた君は文字保有者たちに声をかけ、自分の代わりに俺を鍛え上げるように要請した。まだクマリーが文字をなぞっていない文字保有者に限定して協力を仰いだのは、クマリーの保護者ともなっている俺がそのみんなに接触してくる可能性が高いからだ。そして君が隠していた目的とは――」
前髪の奥の瞳を見つめる。
「自分自身を俺に殺してもらうこと」
「……ついに見抜かれましたか」
顔を少し上げ、ファが口角を上げた。
せきを切ったように言葉を吐き出す。
「そう、今回の件は自分がアーティットに殺されるためにやったことです。自分はあなたではなく自分を殺したかったわけです。あなたが戦場に戻ってこないなら、もうこの世に生きていられません。だからせめてあなたにとどめを刺してほしかったのであり――」
「いかにも真実のように聞こえるがそれは違うな」
「ま……っ」
「早まらないでくれ。俺はまだ君の目的のすべてを言っていない」
その場で右ひざを立て、俺は目線の高さを合わせた。
「君の本当の目的は自分自身を俺に殺してもらうこと――と俺に見せかけたうえで、その見せかけの目的を俺に打ち砕いてもらうことだったんだ。あるいはもっと単純に、そう望んでいた。俺に期待していた。だから俺の道は最初から一つしかなかった」
とても傲慢で、自分勝手な思いを口にする。
タハーンとしての綺麗事とかトータハーンとしての建前とか、そういったものを除外して残る「アーティット」という人間として――。
「俺はもう一度、君を救いたかったんだ」
次回「123.【ธ】旗のトー・ファ【その6】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ドゥークレーン(ดูแคลน)→見下す




