121.【ธ】旗のトー・ファ【その4】
左手にトートン(ธ)の旗を持ったファは右袖を噛み、上腕のなかばまでまくり上げた。
ひじの内側に刻まれたトートンの赤い文字がギラギラと光る。
その文字に唇を当て、なかから小さな旗を引っ張り出した。
旗は小さく、赤い。
俺の肩に刺さっていたものと同じサイズである。
くわえた旗を右手でつまみ、ファは暗器のようにそれを投げた。
空中に待機していたアーガートを旗の先端がつらぬく。
先端は針のように鋭い。
アーガートのコウモリの姿はたちまち爆散した。
それに伴って俺の頭に痛みが走るものの、グアムムーを唱えられた以上反撃もできない。
ファが息をつき、つぶやく。
「ตัวที่หนึ่ง(トゥア・ティー・ヌン)〔一匹目〕」
さらに俺とクマリーに走り寄る。
なおフップカオ・ダーオの裏面ももとの盆地と同じく水をことごとく吸収する地面を有しているらしく、先ほど俺が張った水は早くもほとんど消失していた。
泥っぽくなった地を蹴りながら、ファが右ひじの内側から新たな赤い旗を抜く。
旗は俺たちの後方に控えるグラジョームに当たった。
あっさりとワニの姿が破裂する。
「ตัวที่สอง(トゥア・ティー・ソーン)〔二匹目〕」
ファはグアムムーで俺たちを反撃不能に置いたうえで兵隊たちを始末するつもりのようだ。
俺は即座にプルーンとユアックに指示をする。
「すぐ消え――」
「遅いであります」
追加の旗が二つ、すでにファから飛んでいた。
プルーンの炎もユアックの雪も旗の先端を受けてチリになる。
「ตัวที่สาม(トゥア・ティー・サーム)〔三匹目〕ตัวที่สี่(トゥア・ティー・シー)〔四匹目〕」
続いて別の赤旗を持ち、鋭い先端をクマリーに向かって振り下ろす。
「ตัวที่ห้า(トゥア・ティー・ハー)〔五匹目〕」
「クマリーを……!」
槍を捨て、俺はクマリーをかかえて転がった。
今のクマリーはやや小さめになっているので、なんとかファの攻撃から守ることができた。
体を丸めてうずくまる俺の背に、ファの大きな旗が突き立てられる。
「クマリーを離すであります。でないとあなたごとつらぬきますよ」
鋭い旗が槍の穂先のように背中に食い込む。
この瞬間クマリーが体のサイズをもとに戻し、俺の腕のなかから這い出た。
冷たい語調でファが言う。
「どうしたんですかクマリー。アーティットをいじめる自分に怒りでも覚えましたか」
「いいえっ!」
クマリーが激しくかぶりを振った。
「この戦いはお兄さんが望んだ戦いです。だから、なにが起こってもクマリーはそれを受け入れます! ファさんのことを嫌いになったりもしませんっ」
「あああっ! なにさまなの! 本当にあなたがうっとうしい!」
ファは瑠璃色の旗をひるがえし、布の部分をクマリーに当てて遠くに吹き飛ばした。
ついで足を使って俺をうつ伏せからあお向けにひっくり返し、太ももに馬乗りになった。
俺の胴衣をめくり、呼吸を激しくする。
白く分厚い右の手袋を口でくわえて吐き捨てた。
そしてむき出しになった右手の親指を――。
「アーティット。抵抗したら死にますからね」
――露出させた俺のへそに突っ込んだ。
完全に予想外の行為に面食らい、俺は思わず声を上げた。
「ファ……っ! なにを……あ!」
「図書館塔の大部屋では見せつけてくれましたね」
なにかをほじくり出すように親指がへその内部で細かく動く。
「このおへそに! アーティットのふかふかのおへそのなかに! クマリーを入れてあげたんでしょう! 本当にうらやましいでありますなあ。わたしはこうして指を突っ込むだけが限界だっていうのに! ……あー、初めてさわっちゃった……っ。こうなればとことん味わおっと」
親指が右に左に回転し、爪があちこちに引っかかった。
腹部をかき乱された俺は嘔吐しそうになった。同時に全身が跳ねる。
「が……っ。ぐう……」
「あなたのそんな情けない声を聞いたのは初めてであります。アーティットはおへそが弱いんですか。クマリーもあなたがかわいくもだえる姿を見たことがないんでしょうけど……それを考えると気分が最高潮になりますねえ! しかも戦いのほてりで温かく、汗がたまっていて指にじっとり吸い付いてきて――いつまでも堪能していたいでありますよ」
右親指の次は人差し指、中指、薬指、小指が順に俺のへそに入ってきて激しく回転し上下した。
それが終わったあとは大きな旗を右手に持ち替え、今度は左の手袋を口で外してそちらの指を突き入れようとする。
「クセにさせてあげましょう。あなたがクマリーではなく自分の指を求めるようになるまで」
「そこまでですっ!」
遠くに飛ばされていたクマリーが戻ってきた。
ファは隠し持っていた小さな赤旗を左手に持ち、クマリーに刺そうとした。
「忘れているのですか。それとも聞いてすらいませんでしたか。自分はクマリーを殺す気で戦うと――戦闘前に宣言したはずですよ」
「分かっています。その殺意も、クマリーはまるごと受けとめるんです!」
赤旗をかわし、クマリーがファの懐に飛び込む。
ファは不敵に笑い声を返した。
「あなたはなにもできません。自分に攻撃しようとすれば死ぬのですから。アーティットを強化しても無駄。みじめにお尻を向けて逃げたら?」
「お尻は向けません! ウォーウェーン(ว)の力を使わなくてもクマリーにはクマリーだけの切り札があるんだからっ!」
「ハッタリにもなっていませ――んっ!」
刹那、上体をのけぞらせファの総身が震えた。
クマリーがなにかをしたのだ。しかし攻撃しようとすればグアムムーの効果で絶命するはずなのに、まだクマリーはファの懐に取りついている。
赤旗がファの左手から落ちる。
「な、なぜあなたは無事なんです……あ、うう、やめ……っ」
「こちょこちょ、こちょこちょ~っと」
当のクマリーはファの両わきに左右の指を突っ込んで、ひたすら丁寧にくすぐっていた。
本当に戦場なのか疑わしい光景ではあるものの、このくすぐりこそが有効のようだ。
(そういえばクマリーは人面ムカデと戦うに際してカヤンの試験を受けたとき、害意に反応するトープータオ(ฒ)を害意のないくすぐりで攻略していた。正直、俺はカヤンがクマリーに甘い採点をして合格を与えたと思っていたが……それは見当違いだった。ときとしてその平和的な方法が単なる攻撃を凌駕することもあるとカヤンは見抜いていたんだな)
ファのグアムムーにしても、敵の害意に反応してその対象を殺す。
しかし逆に言えばクマリー自身に害意がなければ死ぬことはありえない。
笑いをこらえて身もだえしたファはあお向けに倒れ、俺の太ももから脚部を離した。
もちろんこれは反射的に笑っているのであって、心から笑っているのではない。
苦々しげな声を交ぜつつ、ファはクマリーを引きはがそうとする。
「く~ッ! クマリー、あなたにここまでやられるなんて……っ。離れてよ!」
「離れません! ファさんの気持ち、聞かせてください。クマリーの気持ちも聞かせます」
「……おへそぉっ!」
「はいっ!」
「あなただけズルい、アーティットのおへそに……おなかのなかに入れるだなんて……! わたしもアーティットの特別になりたいのに!」
「ではファさんも一緒に入りましょう」
「自分は無理なんです! ピーじゃないから!」
「じゃあクマリーと友達になってください! そして一緒にお兄さんの相棒になるんです!」
「センセー・カ!(うるさいです!)……だいたいクマリー、本当になにさまなの! 遠慮なくわたしとアーティットのあいだに入り込まないでよ!」
「フフちゃんに言われたもん! 遠慮すんじゃねえぞって! それに――」
馬乗りになった状態で、クマリーがファの両わきに十本の指をすべらせた。
「遠慮しないでいいって先に言ったのはファちゃんじゃないっ!」
「く、う……自分が……?」
港町でクマリーに言ったセリフをファは思い出したようだった。
(自分はしがない旗持ちでありますれば、どうぞ今後はご遠慮なきよう)
――引きはがそうとするその手がとまる。
合わせてクマリーもくすぐりを停止させた。
ファが左手で自分の目元を隠す。
「やめてよお……っ! もうあなたなんかと話したくない……」
唇を噛み締め、右手の旗を握り締める。
「あんなに優しかったお父さんとお母さんがなんで死ななきゃならなかったの……わたしもずっといい子でいたのに……敵兵たちは一瞬でお父さんもお母さんもなにもかもを奪って……そのなかでアーティットだけがわたしを助けてくれた……旗持ちとして彼と一緒に戦うと安心できた。敵兵を爽快にぶち殺してくれるアーティットを見るとお父さんもお母さんもわたしも救われた気がした。同じ文字保有者にもなって同じ戦場を共有した。幸せだった。彼と一緒に死ぬことが自分のただ一つの希望だった。なのにもうアーティットは戻ってこない。代わりに別の女の子をそばに置いてた――」
「ファちゃん……」
「これ以上奪わないでよ! わたしから居場所を、未来を、アーティットを取らないで! 消えて、消えてよクマリー!」
クマリーに再び旗の布を食らわせ、懐からひっぺがした。
すかさず旗の先端でクマリーに刺突を入れようとしたが、俺はそれを右手でつかんだ。
「ファ。君はまさか……」
「アーティット、あなたはいいんです! 危ないですって!」
槍のように振り回される旗を、俺は徒手でさばいていった。
「どうして死なないでいられるんです。グアムムーはまだ有効ですよ」
「大丈夫だ、ファ。俺は君を絶対に傷つけない」
「だからグアムムーが反応しないということですか。でもすでにあなたは自分を傷つけています」
「ああ、何度謝っても足りない」
「逆恨みですよ! 自分の!」
「違う。君の気持ちに悪いところは一つもない」
話しながらも、互いの足もとの泥がはねる。
「なぜなら戦場で間違いを犯すのは、いつだって兵隊のほうだからだ」
「それがあなたの考えですか……仕方ありませんね、グアムムーを解除します」
「助かるな」
俺は両手を引っ込めた。
左右の手で旗の棒を水平につかみ、ファが怒鳴る。
「逆でありましょうが! 今こそ自分をたたきのめすチャンスですよ!」
「そこまでする必要性を感じない。そもそも君が裏面のフップカオ・ダーオで戦闘を仕掛けた目的は俺たちの力を見ることだったはずだ」
彼女の瑠璃色の瞳から目を離さずに俺は言う。
「それとも……本当の目的がほかにあるのか」
「ありません。ありませんでありますよ、そんなもの。クラーチーウィット!」
ファが旗を両手で垂直に立てる。
その棒はどこまでも伸び、瑠璃色の長方形の布も限りなく大きくなってバサバサとはためいた。
旗が空のすべてを隠す。
直後、突如として赤い炎が生じて旗を斜め下から燃やし始めた。
「もういいであります。こうなったら自分はアーティット、あなたも殺します。腑抜けていないことは分かりましたが、もう自分と同じ戦場に立ってくれないのなら――これ以上つらい思い出になる前にあなたを焼却します。無論クマリーもまとめて。どうにかしたいのであれば道は一つです。分かっているんでしょうね……!」
それ以上聞かずとも、ファの言いたいことは理解できた。
すでに港町で俺に伝えたあの言葉をくり返しているのだ。
(さもなくば――自分を殺すでありますな)
加えて、もう一つの言葉が俺の脳裏によみがえった。
(ただし自分はあなたを殺したいわけではありません)
そのとき、ファの本当の目的が分かった。
次回「122.【ธ】旗のトー・ファ【その5】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
トゥア(ตัว)→○○匹
ティー(ที่)→○○番目
ヌン(หนึ่ง)→1
ソーン(สอง)→2
サーム(สาม)→3
シー(สี่)→4
ハー(ห้า)→5
クラーチーウィット(คร่าชีวิต)→命を奪う




