119.【ธ】旗のトー・ファ【その2】
瑠璃色の空気で満たされたフップカオ・ダーオの底で、俺とクマリーはファへとつま先を向けた。
ファのまわりにも半透明の瑠璃色が漂う。
その顔色は判然としない。
鼻梁や肩に引っかかった髪が風に震える。
白いトップスも手袋も、紺色の外套もキュロットも靴も、瑠璃色をにじませているようだ。
左手に持った旗の白い棒も黒い布も実際の色を失っているように見えた。
その布は人のシルエットと同じかたちをしている。
俺たちをここに連れてきてくれた瑠璃色の旗から手を離し、俺はファに話しかける。
「やっとまた会えたな」
「アーティット」
クマリーをちらりと見てから俺に視線を戻し、ファは前髪をかき上げた。
「イーガーたちをしりぞけ、見事自分のもとまで来てくれたでありますな」
「今の君の目から見て、俺はまだ腑抜けているだろうか」
「……かつての戦闘兵器みたいなあなたに戻ったかどうか――現状は判断できませんね」
「俺はイーガーの再教育カリキュラムを履修した。文字保有者たちとの戦いを経て、前よりも強くなった自覚がある」
「みなには感謝しているであります」
やわらかく言い、大きくまばたきする。
「では今度こそ自分と同じ戦場に立って敵のしかばねの山をもう一度築いてくれるでありますか。『ただ自分が生きるためだけの兵隊はやめた』という発言も撤回してくれますか」
「そこは変わらない。君のその言葉を今の俺が受けることはない」
俺は少しだけファに近づき、足をとめる。
「でも戦友の君に相談もなく一方的に俺が戦場を去ったのは事実だ。本当に悪かった」
「自分がほしいのは謝罪ではありません」
ファは旗をギュッと握った。
「ただ……フフやイーガーには相手の話をもっと聞くよう言われたのでうかがいましょう。なぜアーティットは逃げたのです」
「悪夢だよ」
対価を求めず協力してくれる精霊の兵隊たちを恐れたせいで悪夢にさいなまれ、おかげで左手の平のトータハーン(ท)すら手放したくなったと俺は告白した。
「だから戦場から遠ざかっていた」
「サラサには伝えていたのですか」
「いいや、言えなかった」
「自分に伝えてくれたら、力になったでありますよ」
「ありがとう。だけどそのときの俺は視野が狭くなっていたんだと思う。誰にも相談できなかった」
「つらかったんですね。自分こそ気づけなくて悪かったであります」
いったん深呼吸を挟み、ファが言葉を継ぐ。
「……今は平気なんでしょうか」
「ああ、もう悪夢は見ない。トータハーン(ท)を手放す必要もなくなった」
「であれば、もはや戦場から遠ざかる理由はないのでは」
「もちろん必要なら戦場にも立つ。ただし、いたずらに死者を出す戦争はしない。今まではタハーンとしてなんとなく生きるためだけに戦っていたが、これからはトータハーンとして誰かの世界を守り、誰かの世界を少しだけ広げるために戦うと決めた。いずれは兵隊という言葉も、トータハーン(ท)という文字のなかだけに見られる古語になればいいと思っている」
「なにを言うのです。兵隊のいない世界など考えられないでありましょうが!」
地面に刺した旗を持ち上げ、それを勢いよく刺しなおす。
「わたしの……! 自分のいた町には兵隊がいなかったんです! だから簡単に敵兵の侵入を許しました。警察だけではどうにもならず自分の家も両親も一瞬にして壊されました。だから世界にはあなたのような兵隊が必要なんです! すべてを踏みにじる悪い兵隊たちはずっと産まれ続けます。ならばそいつらをぶち殺す正義の兵隊たちが永遠に求められるのも道理でしょう! 自分はその正しい兵隊のための旗持ちでいたいんです!」
「俺は正しい兵隊じゃない」
「その言葉だけは正しくないよ!」
ついで瑠璃色の瞳でクマリーのほうをにらみつける。
「やはりあなたが元凶でありますか、クマリー。悪夢を解決したのも、アーティットの考えを変えたのも……」
「違います、ファさん」
クマリーは真剣な表情でファを見返す。
「お兄さんが自分の問題をどうにかできたのは、お兄さん自身がピーのみなさんとしっかり向き合ったからだと思います。そしてお兄さんが新しい考えを持ったのだとしても、それはクマリーではなくお兄さん自身が決めたことのはずですっ!」
「あ、あ、あなたなんかが、ア、ア……アーティットをお兄さんと呼ぶなあ……っ!」
口調を崩し、ファが顔を赤くした。
「クマリーの言ったことは本当でありますか、アーティット」
「本当だ。確かにきっかけの一つがクマリーだったことは否定しない。だが最終的に俺を変えたのは俺自身だ。そもそもチャーイハートとの戦いでもあらためて認識したがクマリーは強いピーだ。そんなクマリーが俺を腑抜けさせるなんてありえない」
「ともあれアーティットは堕落しておらず、新たな自分になったのは自分の意思によるものであり、かつ死者を出すだけの戦争には参加しないようになった――ということで間違いないですね」
「間違いない。ただ、港町で君と話した時点では本当に腑抜けていたかもしれない。イーガーを始めとする文字保有者――トラニー、ニウフアメー、バンダー、ネーティ、ウィサーハ、ジウ、ワッタジャック、ダーンナー、チャーイハート、マレット、パイロ、フルンフリンに鍛えられたおかげで強くなれた」
「そうでありますか、刺客を差し向けたのも無駄ではなかったのですね」
俺に歩み寄り、ファがつま先立ちになる。
左首の付け根に斜め四十五度の角度で刺さった、ほとんど深紅の旗を抜く。
血はまったく出なかった。
さわって確かめたところ傷はない。肩にも首にも穴はあいていないようだ。
「よかったのか、そんなにあっさり抜いてしまって」
「ここで自分が抜かないと、あなたは絶命していたでありますよ。……痛くなかったですか」
「なにも感じるひまがなかった」
「なら、よかったです」
深紅の旗が棒ごと炭のように散り、瑠璃色の空気に溶ける。
「ただ、このフップカオ・ダーオの裏面ではやはり仲間と連絡をとれませんしジャンク船も呼べません」
ファは自分の持っていた旗のもとに戻り、激しくはためく布をつかんだ。
「そして……いかにあなたたちの真摯な言葉を聞いても自分は心から割り切れないのですよ。だから、同志たちとの戦いを通じて本当にアーティットが強くなったのか……本当に根性がたたき直された状態にあるのかを試さなければ納得しかねます」
人のかたちをした旗を引き裂き、黒い破片を風に飛ばす。
「チュムヌム」
破片は大きくなって瑠璃色となり、それぞれが変形した。
いずれの布も新たに人のかたちになり、揺れながら俺たちを取り囲んだ。
さらにフップカオ・ダーオの裏面に生えた木本や草本までもが人のかたちをした瑠璃色のシルエットに変化し、動きだす。
布を失った棒を地面から抜いたファはその棒を左右にゆっくり回す。
すると空気が棒にからみつき、長方形の無地の布が棒にくっつくかたちで形成された。
無数のシルエットを展開したのちに、ファが透明感のある声と共に旗を振る。
「旗というのは不思議なものでありますなあ。どんなに文明が違えど人々は旗を作り、結局そこにつどうのですから」
シルエットたちはバサバサと旗のような音を立て続けている。
「さて……自分はこれからあなたたちの力を見ます」
「クマリーの強さも確かめるのか」
「チャーイハートはクマリーの実力もみとめているようでしたが、本当にアーティットを腑抜けさせた元凶ではないのか……まことに勝手ながらじかに見定めさせてもらいます。ただしご理解いただきたい」
暴風が吹き荒れるなか、ファはまばたきせずに瑠璃色の目を見ひらく。
「自分はクマリーを殺す気で戦います。アーティット、あなたはこの戦場から逃げますか」
「逃げないさ。ゲーンタハーン・ダープホーク」
トータハーン(ท)を赤く光らせ、そこから抜いた剣を右手に持ったあと、左手から出した槍の柄をそのままつかむ。
「来い、ファ。俺からも行く」
次回「120.【ธ】旗のトー・ファ【その3】」に続く!(6月13日(土)19時から23時59分のあいだに更新)
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
チュムヌム(ชุมนุม)→集合する




