118.【ธ】旗のトー・ファ【その1】
イーガーとの戦いが終わったあと俺は再び台座に上がった。
コップに入ったマレットの水牛乳を飲みながら、クマリーの様子を観察する。
クマリーはイーガーから名前の書き方を教わるところだった。
ピンイ(–ิ)とフォントーン(')をオーアーン(อ)に載せ、さらにゴーガイ(ก)にラークカーン(า)をくっつけて「イーガー(อีกา)」という名前を書いた。
「おおっ、イーガーさんのお名前はクマリーの『クマリー・トーン(กุมารีทอง)』に含まれる子音字と母音記号で完成させることができるんですねー」
「あなたのほうが大きいということさ、クマリー」
「いいえ、クマリーはまだまだです。むしろクマリーがイーガーさんたちみたいに大きくなるんですっ」
ふにゃふにゃ声で元気よく宣言した。
ついで俺はレモン色の袋を上着から取り出し、なかに入っている鐘のイヤリングをバンダーとニウフアメーに手渡す。
だがトラニーは深い睡眠状態にあるようで寝言すら発さない。
そこでトラニーのぶんは彼女を支えているイーガーに預け、あとで渡してもらうことにした。
「よし、これでチュアモーンから預かった鐘もすべて配り終えた」
袋をひっくり返しても、なにも出てこない。
「……イーガー。ファはこのフップカオ・ダーオにいるんだよな」
「いると言えばいるね。ただしトートン(ธ)はトータハーン(ท)だけに会いたいようだ」
ウエストポーチからイーガーが小さな瑠璃色の旗を引っ張り出した。
「そして本人が希望するならウォーウェーン・クマリーの同行をみとめるとさ。もちろんわたしを始めとするほかの文字保有者はここに残るけど」
イーガーが旗を振ると、棒と旗の布そのものが大きくなった。
それを台座に立てる。
「ファのもとに行きたいならこの旗をつかみなよ」
「ああ、俺は今から彼女と向き合う」
負け戦に見舞われた町で出会った瑠璃色の髪と瞳を持つ女の子――彼女こそがファ。
両親を敵兵に殺された彼女はトートン(ธ)の文字を持つ旗持ちになり、俺と共に数々の戦争に参加してきた。
(だが俺が戦場から遠のいてしまったために、ファは傷ついた。俺は彼女の気持ちをずっとないがしろにしていたんだ)
瑠璃色の旗の前に立った俺のそばにクマリーが飛んでくる。
「当然クマリーも行きます。クマリーはファさんに自分の気持ちを伝えるんです。ファさん自身の気持ちも受けとめるんです!」
「じゃあ一緒にファのところに向かおう」
港町でファはクマリーに対して俺を腑抜けさせた元凶と評した。
俺が戦場から離れたことにはクマリーも関係している――そうファは考えている。
旗の棒をつかむ前に俺はファの友達に視線を向けた。
「フルンフリン。君も来るか」
「……あたしは行かねえよ、トータハーン(ท)」
薄緑のポニーテールを右手で払い、フルンフリンがあぐらをかく。
「確かにファとあたしは『プアンターイ(死ん友)』だが、ダチだからってどんなときでもそばにいようとするのは違ェだろ。ファはてめえと話したいんだ。あたしは、いつでもファが帰ってこれるようにここで待つだけだぜ」
「君は船で言ってくれた。『ทำดีได้ดีทำชั่วได้ชั่ว(タムディー・ダイディー・タムチュア・ダイチュア)〔種をまいたからにはそれをしっかり刈り取れよ〕』と。俺はそのスパーシットを心に刻んでファに会う」
「それだけじゃねえ。『หว่านพืชหวังผล(ワーン・プート・ワン・ポン)〔まいた作物が実をつけるのを期待する〕』と言ったのも忘れんなよ」
小さく笑い、俺の隣に視線を移す。
「クマリー。てめえもファに遠慮すんじゃねえぞ」
「うんっ、フフちゃん! クマリー、ファさんにぶつかってくるっ!」
「ファさんねえ……実際あたしのほうがファよりも年上なんだけどなあ」
ひとりごとのようにフルンフリンはつぶやいた。
* *
続いて文字保有者たちが見守るなか、俺とクマリーは同時に瑠璃色の旗の棒をつかむ。
すると旗が上昇し、あっという間に眼下の台座が小さくなった。
それからどんどん旗は高度を上げていき、フップカオ・ダーオを突き抜ける。
地上が縮小し、あたりは瑠璃色の星空で満たされる。
「お、お兄さん……っ、あれはどういうことですっ!」
目を丸くしてクマリーが真下を指差す。
「陸地や海がまとまって丸くなっています……っ。みなさんだいじょうぶでしょうか……っ?」
「心配要らないよ。世界は最初から丸いんだ。普段地面や海原がまっすぐな平面のようにも感じられるのは、俺たちの体に比べてあまりにも大きな球体の表面に陸や海が広がっているからだ」
「あ、クマリーが小さくなってお兄さんのおへそに入るときにおへそのカドッコが大きな壁みたいに見えるのと同じ感じですねっ」
「どういうことだ……?」
旗の棒を右手でつかんだまま、俺は首をひねる。
(俺たちは世界の外側に出たようだけど、空の上には空気なんてないと聞いたことがあるんだが。なんで生きていられるんだ)
瑠璃色の旗が幻想を見せているのだろうか。
そう疑った瞬間に高度の上昇が終わった。
今度は下降していく。球体をなした眼下の世界が再び大きくなっていく。
しかし再度目にした世界にはまったく緑がなかった。むしろ瑠璃色で満ちている。
自然の沈降によってできた盆地フップカオ・ダーオが視界に戻ってきたものの、そのなかに入ってもあたりには瑠璃色の空気が漂っている。
俺たちは旗と共にふわりと底に着地した。
周囲には台座も文字保有者もない。
「ここは本当にフップカオ・ダーオなのか」
「その裏面でありますよ」
透明感のある声と共に、左手に旗を持った少女が右後ろに現れる。
瑠璃色の髪と瞳があたりの空気に溶け込んでいる。
「旗には表と裏があります。旗の表が味方を鼓舞するものならば」
自身の旗を地面に突き刺し、ファが瞳をむいて立つ。
「旗の裏は、敵を威圧するためのものでありましょう。そんな表裏の裏側を、あなたは見ているだけですよ」
瑠璃色の空気が震えて風を生む。
旗がバサリとはためいて、豪雨を飲む川面のようにうねり始める。
次回「119.【ธ】旗のトー・ファ【その2】」に続く!




