111.台座のトー(ฐ)【中編】
まどろみに飲まれたあと、俺は静かにまぶたをあけた。
晴れた空の下で兵隊たちがにらみ合っている。
場所は、あたりに人家のない荒野だ。
(フップカオ・ダーオとは別の場所……トラニーの見せている夢の世界か)
その光景を、俺は空中から見下ろしている。
左隣に浮いたクマリーは目をぱちくりさせている。
「お、お兄さん……飛べるようになったんですか……っ?」
「俯瞰した状態で夢を閲覧してるだけだよ……むにゃ」
俺の右隣にはまぶたを閉じたトラニーが横向きで浮いていた。
どうやら夢のなかで寝言を発しているらしい。
「わたしたちは夢の世界に干渉できないし、夢の住民たちもわたしたちを認識することができない……すぴー」
「そうか。だが今の俺たちが見ているのは――」
にらみ合っていた兵隊たちが互いに前進を始める。
「過去の戦場だな」
陣形を組んだ兵隊はそれぞれの役割に応じて盾を構え、矢を放ち、銃から弾を発射する。
槍を突き出し、剣を振るう。
馬を走らせ、敵の側面や後背を攻める。
上がった土煙に血しぶきが噴く。
死ぬ者は死ぬし、ケガする者はケガをする。
一方で無傷で駆ける者もいる。
「あ、あそこ! お兄さんじゃないですかっ」
クマリーが指差すと、俺たちの視界がゆがんで対象の人物が拡大された。
そこには赤目赤髪の傭兵がいた。
左手に槍を、右手に剣を持ち、敵兵を次から次へと地に沈めていく。
と思った瞬間、兵隊たちの動きと太陽の運行が加速した。
一気に夜になった。
敵兵の屍山と血河に背を向ける俺に、旗持ちの少女が駆け寄ってくる。
瑠璃色の髪と瞳を持つ彼女が、透明感のある声で傭兵に言う。
「一人でこんなに敵を倒せるだなんて、本当に憧れます」
「味方が押していたから勝てたんだ」
今でも覚えている。
このとき俺は確かに彼女のことを覚えていた。
「ところで君は」
「ファです、アーティットさん。わたしはあなたにいのちを救われたことがあります」
「慈善団体に預けたはずだが」
「いったん抜け出したんですよ。ただ、そこには友達がいるから定期的に戻りますけど」
ファが近寄り、自分のつま先を俺のつま先にふれさせる。
「わたし、旗持ちを始めたんです。とくにわたしがやっているのは味方が制圧した場所に旗を掲げて陣地を明確にする仕事です。アーティットさんに比べたら、大したことのない役割ですが」
「そんなことはないよ、ファ。自陣がどこまで広がったか明示されるだけでとても心強い。君という旗持ちの存在が士気に影響を与え、味方に勝利をもたらすんだ」
「アーティットさん……」
だがここで、倒れていた敵兵の一人が起き上がり、ファに後ろから組み付こうとした。
おおかたファを人質にとって俺から逃げようとしたのだろう。
俺は槍の刺突を放ち、敵兵を飛ばした。
直後、向かって左から回り込み、剣で敵の心臓を裂いた。
泣きながらファが俺の背中に抱きついてくる。
「やっぱりわたしはあなたについていきます。あなたの旗持ちとして、共に戦って共に――」
当時の俺は彼女の涙が、単なる恐怖によるものだと思っていた。
このタイミングで俺たちの見ている光景がいくつもの横線の束になって高速で動きだした。
「早送りだよー……むにゃむにゃ」
トラニーが過去の夢のなかで、次の場面を提示する。
また昼の戦場が映し出される。
待機中の俺に旗を持ったファが話しかけてきた。
いつにもまして顔色がすぐれない。
とはいえ声の透明感は少しも失われていなかった。
「アーティットさん、またあなたと共闘できるようで、自分はうれしいでありますっ」
「あ、ファか。……でもその話し方は」
「軍人らしい口調でありましょう?」
瑠璃色の瞳を細め、ほほえむ。
「自分、アーティットさんと一緒にいられるようにちゃんとした旗持ちになると決めたのであります。きょうのわた……じゃなくて自分の活躍をぜひ見ていてください!」
再び光景が早送りされ、両軍が激突する。
いつの間にかファは味方の旗を右手に持ったまま、二つの軍のあいだに立っていた。
「グアムムー」
なにかを唱え、旗付きの棒を地面に刺す。
すると味方の兵の動きがよくなり、敵兵の動きがにぶくなった。
それだけではない――。
ファを攻撃しようとした兵隊たちが、その攻撃前にことごとく倒れていく。
遠くから狙撃しようとしても近距離から仕掛けようとしても兵隊たちが静止し、バタリバタリと地に転がって動かなくなる。
一つの傷もファは負わない。
確認したところ、動かなくなった兵たちはすべて例外なく死んでいた。
俺は旗を持ったままたたずむ彼女を見て「もしや」と感じた。
味方側が大勝したあと、みんなからさけられるファに俺は声をかける。
「さっきの詠唱と不思議な現象……まさか『文字』を持ったのか」
小声だったが、現在この光景を俯瞰している俺の耳にもハッキリと聞き取れた。
この時点で、すでに俺もトータハーン(ท)を左手の平に刻んでいた。
ファも小さな声で俺の耳にささやく。
「そうであります」
右袖をまくり、ひじの内側の字を見せた。
「トートン(ธ)の文字を刻みました」
「旗のトーか。旗持ちの君にピッタリの字だ」
「うれしいであります。……そしてアーティットさんの左手にもトータハーン(ท)の文字があることに自分はすでに気づいていますよ」
「君もスーンさんに刻んでもらったのか?」
「はい。センセーにも詠唱のことを教わったでありますよ」
「じゃあ……ファと俺は同じ文字保有者の仲間ってことだな」
「お、恐れ多いですっ。アーティットさん」
「呼び捨てでいいよ。もう俺たちは対等だ」
「なら遠慮しません……」
顔を火照らせつつ、ファが俺の名を連呼する。
「アーティット、アーティット、アーティットアーティットアーティット……」
トートン(ธ)の力で出したと思われる深紅に染まった旗――その棒にファは抱きついていた。
以降は、場面が飛び飛びになる。
トータハーン(ท)によって手の平から武器を出し、精霊である兵隊たちを使役する俺と――。
トートン(ธ)によってさまざまなかたちや色の旗を出現させ、味方を強化しつつ敵兵をしかばねの山に変えていくファ。
寄り添って共闘し、大軍をしりぞけたこともあった。
モーマー(ม)の文字保有者・サラサルアイとも戦場でよく顔を合わせる。
戦いが終わったあとは、決まってファは俺のもとに来てうれしそうに瑠璃色の目を向けてくる。
「アーティット、あなたは今回の戦いでも大活躍でありましたね!」
「アーティット、自分は前よりもがんばれたと思うでありますか……?」
「アーティット、一緒に敵をぶっ倒すのは最高に楽しいでありますねっ」
「アーティット……」
しかし月日がたつごとに……自分のピーたちに反乱を起こされて首を取られる悪夢を何回も見始めた俺は、トータハーン(ท)をスーンに返そうとも考えるようになってきた。
戦場でファに会う回数も次第に減った。
そしてスーンの死体を俺が発見してから図書館塔の大部屋に文字保有者たちがつどった場面に移る。
俺はファにもあいさつしていたものの、スーンが死んだということで会話ははずまなかった。
続いてリアンゲの文字をなぞる前にクマリーが俺のへそから出てくる。
さらに体がズキズキすると言って小さくなり、俺の胴衣にもぐり込むクマリー。
そんな俺たちの様子を、ファがじっと見ている。
このときの俺は気づかなかったが、彼女は長い前髪に隠れた瞳を見ひらき、数十秒ごとに全身をけいれんさせていた。
瑠璃色の瞳から涙が漏れた瞬間、ファはそれをさっと小さな旗でぬぐった。
「ファさん……」
過去の出来事を黙って見守っていたクマリーが悲しそうに声を出した。
眠そうに、トラニーがそっと言う。
「ふわ……わたしからの最終試練はこれで終わり……二人とも、夢のなかでしっかり思い出を振り返ることができたかな……」
「ありがとう、トラニー」
「クマリーも感謝します……っ」
トラニーが見せてくれた夢は、単なる俺の記憶ではなかった。
それは俺の過去そのものだった。俺が気づかないふりをして通り過ぎていた、リアルに起こった出来事だった。
すーすーと寝息を立てた状態で、トラニーがうなずく。
「どうやらきちんと向き合えたみたいだね……あとはあなたたち次第……くこー」
「なぜ君は、ここまでしてくれたんだ」
閉じたまぶたに俺は視線をそそいだ。
くちなし色のおさげを揺らし、トラニーがほほえむ。
「いい思い出の上で寝て、素敵な夢を見てほしいから……」
次回「112.台座のトー(ฐ)【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
グアムムー(เงื้อมมือ)→支配




