110.台座のトー(ฐ)【前編】
ニウフアメーとの問答を終え、湿地を歩いて西へと進む。
クマリーは前方に背を向け、バックで飛行している。
「……お兄さん。湿地っぽいところにいると、なんか思い出しますね」
「ああ。君と初めて会ったのも湿地帯だったからな」
俺は彼女の髪と瞳を見つめる。
バナナの房が重なったような髪も少し垂れた瞳も、オレンジの混ざった茶色だ。
「といってもスーンの隠れ家のあった湿地帯と違ってこのフップカオ・ダーオの地面は比較的水を吸っているし、シダ以外の植物も多く生やしている」
「そうですね……っ」
両手を後ろに回した状態で、クマリーが体を揺らす。
「だけどクマリーの世界がお兄さんのトータハーン(ท)から始まって……一文字一文字みなさんの文字を丁寧になぞらせてもらって……ついにクマリーはあと一字でイカした文字のすべてをこの身に吸収できるんです。それを思うと、どんなことだって偶然じゃないような気がするんです」
不意に左右の手を出し、俺の左手にふれる。
「お兄さんのそばにいたら、本当に全部の文字を見ることができました……っ。だからクマリー、お兄さんに出会えてよかったですっ!」
「マイペンライ」
気が早いとか最後の文字はまだなぞっていないだろうとか、そんなことは言わないでおいた。
「ただ、子音字すべてを学んだからといって終わりじゃない。むしろここからが本番だ」
「ワクワクしますねっ」
「ああ。そしてファとの決着もつける」
俺がそう続けると、クマリーは黙ってうなずきを返した。
ここで進行方向の視界に奇妙なものが現れる。
高さ三メートほどの白い台座だ。直方体のかたちをしている。
バック飛行をやめ、クマリーが台座を見上げる。
「立派ですが、なんか湿地には似合いませんね」
「最後の文字保有者が出現させたものだろうな」
正面には階段があった。
一段一段踏み締め、上る。
「なにを仕掛けてくるか分からない。クマリー、油断するなよ」
ちょうど四十二段目で台座の一番上に達した。
台座の上は殺風景だった。
葉っぱの一枚も落ちていない。
薄茶の寝台が中央に一つあるだけだ。
寝台には白い毛布が敷かれ、その上に誰かが横になっている。
眠そうな声でなにか言っている。
「ทานอีกไม่ไหว(ターンイークマイワイ)〔もう食べられないよ~……〕」
横たわっている彼女がなにも食べていないところを見るに、どうやら寝言のようだ。
俺とクマリーは目配せを交わしたのち、そっと寝台に近づく。
目を閉じて寝ているのは、くちなし色の髪を持つ少女だ。
左右と後ろの三箇所をおさげにしてまとめている。長さは脇腹に届く程度。
絡ませた両手を頭の上に投げ出し、脚をひらいたまま気持ちよさそうに眠っている。
ゆったりとした長袖の上着は群青色。
前開きの上着の下には灰色のシャツが見える。
ボトムスは黒いロングスカートではあるのだが前側と後ろ側に三角形の切れ込みが入れられているようだ。その切れ込みは太ももにも届いている。
白い靴下は着用したまま。
なお靴は焦げ茶であり、寝台のそばにその一足がそろえられていた。
小さな声でクマリーが俺に聞く。
「あの……もしかしてこのかたが最後の文字保有者なんでしょうか」
「そうだよ。まさか寝ているなんて予想外だったけど」
眠っている彼女に、俺はそっと話しかける。
「トラニー……」
しかし、くちなし色の髪の少女――トラニーは寝息を立てた状態から戻ってこない。
代わりに、まぶたを閉じたまま新たな寝言を発する。
「むにゃ……兵隊のトー(ท)……あなたに最終試練を与えるよ……」
それを聞いて、実は起きているのではないかと俺は疑った。
といっても本当に睡眠状態にある場合、無理に起こすのも気がひける。
「兵隊のトー……確かにわたしは眠っているけど……すぴー……ごめんね、わたしは起きているときは無口で……むしろ寝言じゃないと饒舌になれないんだ……くー」
「え、ということはトラニー。君は寝ながらにして俺の声もちゃんと聞いているのか」
「実はそうなの、むにゃ……目を閉じているから視覚情報には頼れないけど……指輪のウォー(ว)の声もちゃんと拾ってるよ……わたし」
「すごいですっ、さすが最後の文字保有者です」
小声でクマリーが称える。
対するトラニーは寝息と共に首を左右に振った。
「うんにゃあ……わたしは別に最後の文字保有者ってわけじゃないよ……指輪のウォーの保有者であるあなたがたまたま最後にわたしと出会ったってだけで……ふえ……しいて最後の文字保有者を選ぶとすれば……それはフクロウのホー(ฮ)以外にありえないだろね……ほお」
「違いないな」
ホーノックフーク・ラートリーの顔を思い浮かべながら俺は同意した。
「それでトラニー。最終試練というのは?」
「あなたに……兵隊のトー(ท)にね……くう……夢を見せたいんだ……指輪のウォー(ว)も一緒にいかが……?」
「ちょっと待ってくれトラニー」
クマリーよりも早く俺は言葉を引き取った。
「安全なやつだよな、その夢は。俺はダーンナーのトーモントー(ฑ)によって神話らしき世界に引きずり込まれたけど……それと同じレベルのものか?」
「心配ないよ……ふにゃあ。わたしが今から案内するのは普段見ているただの夢と大差ないし……危険度はゼロパーだよ……んっ」
ついでトラニーが寝言で唱える。
「ティアン……」
すると台座の一部がせり上がり、毛布付きの二つの寝台が近くに出現した。
「二人とも……別々の毛布に横になってね……すぴぴ……すぐ眠れるから……」
「お兄さんのおへそのなかで寝ちゃダメでしょうか」
「そうしたら同じ夢に入れないよ……指輪のウォー……くう」
「分かりましたっ。ではベッドをお借りしますね、トラニーさんっ」
こういう流れで俺とクマリーは別々の寝台に横たわった。
靴を脱いだ足を揺らし、俺はトラニーに質問する。
「君はなんの夢を見せるつもりなんだ」
「……もうすぐ旗のトー(ธ)との決戦も近いよね……だからその前に思い出を振り返ってもらおうと思って……むにゃ」
眠そうな彼女の寝言を聞いていると、こちらもだんだんまぶたが重くなってくる……。
「それが悪夢かそうでないかは……あなたじゃないから分からない……」
寝台の毛布が心地よすぎる……。
彼女の寝息と俺の寝息が重なり合う…………。
「……すぴー」
次回「111.台座のトー(ฐ)【中編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ターン(ทาน)→食べる
イーク(อีก)→もう
マイワイ(ไม่ไหว)→できない
ティアン(เตียง)→ベッド




