108.女のヨー(ญ)【前編】
※今回は後書きに(めずらしく)真面目なことを書いています。
クマリーと共に崖から下降し、俺はフップカオ・ダーオ――「星の盆地」の底に到達した。
あたりには植物が繁茂しており、少し冷える。
ただし植物は植物でも幹のある木本よりも、やわらかい草本のほうが多い。
地面はほとんどぬかるんでいる。湿地と言っても間違いではないだろう。
生息している鳥や精霊の色に派手さはなく、俺たちが近づいてもなかなか逃げようとしない。
しばらく歩いて大きな木を通り過ぎる。
ここで右後ろから声をかけられた。
声のぬしは、木の幹の死角に寄りかかっていたようだ。
「アーティットくん、クマリーさん」
耳にビリッとくる声だ。
俺は振り向き、彼女と目を合わせる。
もっとも目立つのは冥色の長髪。
髪は反時計回りをえがきつつ下降し、宙に浮いた状態で彼女の足首までを取り巻いている。
同じ色をした瞳は深く、明るさのなかに底知れない深淵を宿しているかのようだ。
白いブラウスに紫・青・緑・黄・赤の五枚の上着を重ね着している。
階段状にきれいに重なった五つの色が裾や袖口、えりの部分に見える。一番上が紫で、一番下が赤のようだ。
袖は手の甲のなかばに達する程度。
ただし一枚一枚が薄いため厚着している感じはしない。
スカートは黒いバラを逆さまにしたような形状で、トップス部分と不思議と調和している。
太ももから足先までをフェイクタイツで覆っている。靴は甲を少し見せる程度のものであり、赤黒い。
彼女は木の幹から離れ、俺の前でとまった。
左肩に刺さったファの旗を見つめる。
渦巻いた冥色の髪がこちらの胸に当たる。
「君たちは簡単にここを通れるとでも思ったの?」
「あなたも文字保有者のようですね……っ。こんにちは」
俺の右隣に浮き、クマリーが手を合わせてあいさつする。
言われた女性は冥色の瞳を細め、同じ仕草を返した。
「【ญ】ヨーイン・ニウフアメー、つかさどる字は女のヨー。さてどうしようかな、君たちをどうあつかうのが正解なんだろ」
「アメお姉さん、クマリーに文字をなぞらせてもらえませんかっ」
ニウフアメーの髪の手前でクマリーが熱意を見せる。
「あと二文字で四十二の子音字すべてを学ぶことができるんです」
「いいけれど」
眉をひそめ、ニウフアメーが俺へと視線を投げた。
「アーティットくんはそれで構わないわけ?」
「もちろんだ」
「……なら学んで」
彼女は衣服の左肩をはだけた。
肩の表面にญの赤い文字がある。
お礼を言ってクマリーがヨーイン(ญ)をなぞる。書き出しはトゥアムのトートゥン(ถ)と同じだ。
まず左下に時計回りで小さな丸を書く。
丸の左側から線を上げ、途中で右に行ってからすぐに左に戻る。
右に寄りつつ上に張り出す弧を引いて、左のクチバシみたいな部分よりも低い位置に来たら線を一気に下ろす。
すでに書いた丸と同じ高さに達したあたりで右に寄りながら今度は下に張り出す弧をえがく。
トートゥン(ถ)部分の横幅よりもやや短い弧を作ったあとは線を上昇させて右上でとめる。
その後トートゥン(ถ)部分の右の縦線――その下に反時計回りの小さな丸を追加する。
丸の下側から右に線を突き出し、弧を作る。
その丸のてっぺんと同じ高さに達したら二画目も終了だ。
これでヨーイン(ญ)の字を書き終えたことになる。
「ありがとうです、アメお姉さんっ! マーイハンアーガート(–ั)みたいなものを右下に添えるところがとってもオシャレですねー」
書き出しが似ているチョーガチュー(ฌ)やノーネーン(ณ)と混同しないように、クマリーが宙にヨーイン(ญ)を念入りにしるす。
「あっ、最後の丸が左なのがンゴットさんのチョーガチュー(ฌ)で、その丸が右にあるのがハーチャお姉さんのノーネーン(ณ)なんだっ。そしてこの丸を下に移せばアメお姉さんのヨーイン(ญ)……よし、クマリーは区別も完璧ですっ!」
「現時点でクマリーちゃんは四十一字を習得したんだよね。よくがんばったじゃない。……ちなみにわたしのヨーイン(ญ)とグルちゃんのヨーヤック(ย)は同じ音ではあるけれど末子音がちょっと違うから頭の片隅にでも置いておいて」
左肩の衣服を戻し、ニウフアメーがほほえむ。
「ところで君は文字保有者の名前も学んでいるんだっけ」
みずから進んでニウフアメーはクマリーに名前の書き方を教える。
ポイントは三つ。
最初の「二」を示すノーヌー(น)に声調記号の「マーイトー(◌้)」をつけること。
エーの発音はテーラ(แต่ละ)さんやセンセー(เซ็งแซ่)のように「マーイナー(เ)」を二つ重ねてあらわすこと。
最後のモーマー(ม)に声調記号「マーイエーク(–่)」をつけること。
ノーヌー(น)、「イ」を示すピンイ(–ิ)、マーイトー(◌้)、ウォーウェーン(ว)で「ニウ(นิ้ว)」という音を表記する。
さらに「ウア」という音をあらわすためにマーイハンアーガート(–ั)とウォーウェーン(ว)を子音字にくっつける。ユアユ(ยั่วยุ)のユア(ยั่ว)やナーグルア(น่ากลัว)のルア(ลัว)と同じように配置すればいい。
今回はホーヒープ(ห)にくっつけ、フア(หัว)をあらわす。
メーに関してはマーイナー(เ)二つとモーマー(ม)とマーイエーク(–่)を組み合わせる。
少し長めではあるものの、クマリーはポイントを一個一個確実に押さえて「ニウフアメー(นิ้วหัวแม่)」という名前を宙に書ききった。
「アメお姉さん、感謝します」
「書くの大変だったでしょ。こればっかりはたくさん書いて慣れるしかないからね」
「厚みと深み、そして高みを感じるお名前です……っ」
クマリーは丁寧に礼をして、ニウフアメー(นิ้วหัวแม่)のつづりをゆっくりと書き連ねる。
俺もニウフアメーに手を合わせる。
「世話になったな、ニウフアメー。それじゃあ俺たちはこのへんでチョークディー(さよなら)」
「チョークディーじゃないが?」
きびすを返しかけた俺の右肩にニウフアメーの左手が載せられた。
「さすがにそれは通らないでしょアーティットくん。わたしもファの刺客なんだから」
「だったらニウフアメー」
足をとめ、俺は彼女をはすに見返した。
「君の場合は俺をどう追い詰めるつもりなんだ。ワッタジャックのようにカードゲームでもするのか。それともパイロに倣ってレースでもやるか」
「問答しよう」
ニウフアメーの手が俺の肩をポンポンたたく。
左肩の旗をじっと見つめる。だいぶ深紅に近づいたその旗を。
「これが完全に深紅に染まったら君、死ぬんだよね」
「ファからはそう聞いている」
「……本当に死ぬって分かってるよね? ファちゃんも冗談で言ってないよ」
「分かっているよ。だからファのもとに俺は急いでいるんだ」
「半分ウソだね」
彼女の左手が俺の右肩を揉んでくる。
「君さあ……わたしに会ってすぐにクマリーちゃんの文字学習を優先したりして、なんのつもり? とてもじゃないけどもうすぐ死ぬかもしれない人間の態度じゃないでしょ」
「そうだろうか……?」
「アーティットくんがもっとまともな精神を持っていたら、今ごろメチャクチャ焦ってるよ。それどころか君、クマリーちゃんがあと少しで子音字のすべてを覚えるってことでそっちのほうで興奮してるじゃん? 死期が迫っているにもかかわらずお気楽なものだね。わたしがなにを言いたいか分かる?」
沈黙する俺に、ニウフアメーの冥色の髪と瞳が接近する。
「君、自分が死ぬのを実はあんまり恐れてないでしょ」
次回「109.女のヨー(ญ)【後編】」に続く!
ญ←これが「ヨーイン」の文字。意味は「女のヨー」……書く際は右下の2画目を忘れないようにしたいですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
イン(หญิง)→女性
※ここからは少し真面目なお話です。
本作の内容とは外れることで恐縮ですが、今回は作者としてどうしても明示しておかなければいけないことがあります。
というのも、本日(2026年5月26日)に「小説家になろう」のお知らせで今後の取り組みとして作品創作におけるAI利用状況の設定が必須化されることが発表されました。
具体的な開始日はもう少し先とのことですが、私の投稿作品についてもこれについて明らかにしておく必要があります。
本作「ท(トータハーン)」はすべて作者の私が最初から最後まで執筆しています。
アイデア出しも校正も作者1人でおこなっていることであり、AI利用状況は「不使用」にあたります。
小説家になろうで公開している「今週のしまったちゃん」などの全作品も同様にAIを使用していません。
AIを使用していない場合わざわざ「AIを使用していない」と言う必要もないと考えていましたが小説家になろうでAI利用状況の設定の必須化が発表された以上あいまいなままにするのもよくないと思い、ここに明言しました。
今後は正式にAI利用状況について「不使用」と設定することになると思います。
ではちょっとお堅い話でしたがお読みいただき、ありがとうございました。
今後とも変わらず執筆に励んでいきますので、これからもよろしくお願いします!




