107.たまごのコー(ข)【後編】
コーカイ(ข)の文字保有者バンダーは小国の王子である。
俺たちの今いる国からやや離れた内陸部にその国は存在している。
彼は産まれながらに、すべてを愛する人間だった。
国王である祖父に礼を尽くし父母を敬うのはもちろんのこと、町にもよく出て国民ともじかに仲よくしていた。
誇り高い性格ではあっても、その態度にはおごったところがなかった。
家柄に関係なくいろいろな子どもたちと遊び、貧富の程度で差別せずあらゆる商人や労働者と熱心に話をする。
害虫が大量発生したときは農民と共にそれを追い払い、職や財産を失った者を見つけると親身になって相談に乗った。
幼いころから勉強をおこたることはなかったし、人以外の小さないのちや自然にも優しいまなざしを向けていた。
バンダーの心に影が差したのは十歳のときだ。
王である祖父が崩御した。
そのあと玉座をめぐってバンダーの父と母が対立したのだ。
ここでバンダーは父と母の両方から「自分と共に来い」と言われた。
だが彼にとっては両親のどちらも大切である。
父も母もこれ以上ないほどに愛している。片方だけを選ぶことなどできない。
しかもこのまま両親の対立を放置すれば、国が分裂して崩壊すると聡明なバンダー王子は見抜いていた。
葛藤の末、彼は父母に伝える。
「わたしは、どちらに協力することもできません」
対する父と母はバンダーに「おまえはわたしを愛していなかったのか」と返した。
バンダーは「わたしは父上も母上も愛しています」と答える。
しかし二人は「それではいけない」と叱責した。
それを聞いたバンダーの十歳の心は引き裂かれ、たまごの殻のように割れた。
頭をかかえて涕泣し、嘔吐した。
どちらも愛しているとも片方だけを愛しているとも答えられない以上、バンダー王子の道は一つしかなかった。
「違います……本当のわたしは、父上も母上も嫌いだったんです」
のどからきつく絞り出すように口にした。
あまりにも王子が苦しそうだったので、父も母も対立していたことを忘れて彼に駆け寄り謝った。
結果として両親は和解する。
互いに平等の地位を持つ王として国を共同統治するというかたちになり、国の分裂はまぬかれた。
表面上バンダー王子との関係性も元通りになったものの、当の王子の心には罪の意識が芽生えていた。
父母を嫌いと言ったことを悔いていた。
だが彼はその言葉をはいたとき、自分たちのことばかりを優先する二人を確実に嫌悪していた。
それがつらかった。
思えば小さないのちなどに向ける自分のまなざしも矛盾である。大量発生した害虫を追い払っていた時点で、すべてのいのちを平等に大切にすることは不可能じゃないかとバンダーはうっすらと気づいていた。
特定の存在にのみ向けた嫌悪――これをどうすべきかとバンダーは考えた。
取り払えないのなら、その嫌悪をこの世に存在するすべてについて適用するしかない。
そうすれば「とくに両親だけを嫌った」という事実がかき消される。
平等の嫌悪で世界を覆ったとき、世界は覆った。
嫌悪があらゆるものを同色に染めたおかげで、特定の対象にだけ適用されていた嫌悪がもっとフラットなもののように思われたのだ。
美しい絵の一部に墨を落とせばそれは汚点だが、墨ですべてを塗りつぶせばそれは一幅の純粋な色になる。
ただしバンダー王子は自分以外の者にその嫌悪を秘匿した。
すべてを嫌悪するからには、すべてを嫌悪する自分自身をも嫌悪しなければならなかった。それが分かっていたから彼は自分の感情を表に出さなかったわけだ。
こうして、すべてを最大限に愛しながら同時にすべてを最上級に嫌悪する王子が誕生する。
バンダーの愛は、裏側に嫌悪を隠してもなお本物である。
かつ彼の嫌悪も嫌悪で本当の感情だが、その思いはどちらかというと必要性に駆られて生まれたものにすぎない。ためにバンダーの厭悪は具体的な理由を欠く。
そのうえでバンダーは自覚していた。
すべてに対する自己の嫌悪感も、産まれながらにおのれに宿命づけられていたのだと。
なぜならすべてを愛するということは――。
人間の嫌悪そのものをも平等に愛するということだからだ。
よってすべてを愛し、すべてを嫌うという彼の特質は矛盾ではなく必然と言える。
ただし自分自身を韜晦し続けるのもバンダーにとってはストレスだった。
そんななかコーカイ(ข)の文字を手に入れ、もう一個の自分を孵化させることが可能になった。
たまごの殻を破ったあとのバンダーは王子という地位に捕らわれず、すべてに対する嫌悪をあらわにした。
自身の魂を分割し、もとの体にはみんなを愛する状態で国にとどまってもらう。
そのあいだ孵化した個体はみんなを嫌う状態で出国し、思う存分ストレス発散に精を出すというわけだ。
* *
――以上は、前から俺の知っていたことと先ほどバンダーの話してくれたことをかけ合わせた結果、浮かび上がってきた事実である。
ちなみに俺はバンダーの国の防衛戦に参加したこともある。
そのときはバンダーが王子として俺をじきじきに称賛してくれた。
トゲトゲしい声と共に微苦笑し、彼は上体を揺らす。
「あんときのことがずっとオレの心に残ってた。どっかのタイミングでオレはおまえに嫌悪をぶつけ、称賛した行為そのものをチャラにしなけりゃいけなかったんだ、アーティット」
「すべてを平等に愛し、すべてを平等に嫌う君らしい覚悟だな」
崖から張り出した水平面に腰を下ろした状態で俺たちは向き合う。
「バンダー。だから俺は君が好きだし、尊敬しているんだ」
「嫌われることが好きなのかよ、ティントン・タハーン(変態兵隊)」
「違う。一人の兵隊として俺は君みたいな人のもとで戦いたいんだよ。口だけですべてを愛しようとする人間は信用できない。反対に、すべてを憎もうとするだけの人間もいのちを預けるに値しない。人間の愛憎の両面を理解し、そこから逃げずにいる君は必ず立派な王になる」
「……っるせえわ」
口調は相変わらずだが、そのバンダーの声は少しだけやわらかかった。
ここに、ふにゃふにゃ声が差し挟まれる。
「あ、あの~」
クマリーが飛行しておずおずと近づく。
「バンダーさんっ、時間があるならクマリーに文字をなぞらせてくださいっ!」
「あ、なに図々しいこと言ってんだてめえッ」
「わ……っ」
「別にいいぜ」
バンダーが右の靴を脱ぐ。
右足の甲にขの赤い文字が刻まれている。ちょうど正面のクマリーに正式な向きを見せている。
手を合わせて礼を言ったあとクマリーが右人差し指で字をなぞった。
まず左上よりも少し低い位置に時計回りで小さな丸を作る。
ついで丸の上から線を右に出し、すでに書いた丸に沿うように時計回り方向の弧を続ける。
丸よりも低い位置に来たところで方向を反時計回りに変更し、線を下ろす。
底付近で下に張り出す弧をえがいたあとは右側に寄ったのちに上昇。
途中で折れたりせず右上でとめる。
ようはガムランのソーソー(ซ)をよりシンプルにしたかたちである。
こうしてコーカイ(ข)の文字は完成だ。
「コープクンですっ。全体的に丸っこくて、書いているだけでやわらかな感触が伝わってくるようなトキメキに満ちた文字と言えますね~」
言うまでもないが……クマリーはコーカイ(ข)も宙に何度もしるしている。
「しかしマレットさんのコークワーイ(ค)とチュアさんのコーラカン(ฆ)とはどういったご関係で?」
「そいつらの字は低子音で、コーカイ(ข)は高子音なんだよ」
トゲトゲしく答え、バンダーはたまごに似た靴をはきなおす。
「おまえ、まだほかに要求があんじゃねえだろうな」
「ダ……ダメですか……っ」
「構わねえよッ!」
そんな流れでクマリーがバンダーの名前を書くことになった。
ところが、ここでクマリーが不敵に笑う。
「ふっふっふ……しかしクマリーはバンダーさんの名前を自力で書けると思いますよっ」
そう自信満々に言って地面に指を走らせる。
すぐに書き終え、俺たちに次のような文字列(บันดา)を見せた。
「ふふんっ、どうですかっ。ボーバイマーイ(บ)に短い『ア』を示すマーイハンアーガート(–ั)を載せたのちにノーヌー(น)を添え、『バン』という音をあらわしました。さらにドーデック(ด)とラークカーン(า)のコンボで『ダー』を表現っ! クマリー、完璧でしょ~」
宙に浮いたまま胸をそらす。
ここまで書けるようになったクマリーに俺は感心を伝える。
「すごいじゃないか、音を聞いただけでここまで類推できるなんて」
「お兄さんっ、褒めてくれてうれしいです。あ、今はお姉さんだっけ……っ?」
「だが間違いだ」
「えっ」
「いやいやボーバイマーイ(บ)とダー(ดา)の部分は合っているからたいしたものだよ。問題は『アン』のつづりなんだ」
ここで俺はバンダーに目配せした。
バンダーは少し表情をゆがめたものの、クマリーに説明してくれた。
「オレの名前の『アン』はロールア(ร)二つであらわされる」
「へ……? プリアさんの文字が重なるんですか。でもロールアは巻き舌の音をあらわすのでは」
「連続するロールア(ร)は『アン』の音を示すのさ。この重なったロールア(รร)を『ローハン(ร หัน)』と言うんだ」
「おお~。特殊な『ホーヒープ(ห)』である『ホーナム(ห นำ)』をほうふつとさせますねっ」
ともあれバンダーの『アン』を二重のロールアすなわち「ローハン(รร)」で表現することをクマリーは理解したようだ。
ロールア(ร)自体はすでにプリアさんから学んでいるので俺たちの補助は必要ない。
ボーバイマーイ(บ)とダー(ดา)のあいだにローハン(รร)を挿入し、「バンダー(บรรดา)」という名前が完成する。
「今度こそバンダーさんのお名前のできあがりです。うっかり『ボルルダー』とも読んでしまいそうですがもうローハン(รร)を覚えたクマリーに死角なしですよっ。そしてバンダーさんのお名前については重なったロールアが神秘的で、そこから左と右にまっすぐ広がっていくようなイメージをクマリーは持ちました。無限を思わせる並びですね~。ありがとうございましたっ」
「キャピキャピしてんじゃねえかよクマリー」
金の右目と黒の左目でバンダーがじっと彼女を見る。
「とくに理由はねえがオレはてめえも嫌いだけどな。それでもキャピキャピできんのか」
「できます。クマリーはバンダーさんも好きなので」
「ちっ、嫌いには嫌いを返せばいいものを。どうも文字保有者の連中は普通からズレてんな。アーティットといいおまえといい調子狂うぜ」
バンダーはすっくと立ち、跳んだ。
もともと俺たちの休憩していた崖の突起の面に降り立ち、俺の体をかかえて戻ってきた。
抜け殻になった男の俺の左手を取り、女の俺の左手に重ねる。
「グラップバーン」
彼の詠唱を耳にすると共に俺の視界が瞬時にずれた。
俺の魂はもとの男のものに戻り、目の前には女の俺が横たわっている。
クマリーが俺のまわりを元気よく飛ぶ。
「お兄さんがお兄さんに戻りましたねっ」
「……みたいだな」
体にも、とくに異常はないようだ。
手を離すバンダーに俺は聞く。
「女の俺はそのままなのか。君の生き写しのほうはたまごの殻のように崩れていたと思うけど」
「極度のダメージを負わなければ数日は壊れねえよ。殻みてえに軽いし、みやげに持っていくか?」
「遠慮しておくよ」
「じゃ、割っとくぜ」
バンダーが右手の指を鳴らすと女の俺はやはりたまごの殻のように割れてその後すぐに砂と化した。
* *
再び空の兵隊にかかえてもらった俺は足場から浮遊し、クマリーと共にフップカオ・ダーオの崖を下降する。
崖から張り出した突起の上でまばたきするバンダーに、俺は声をかける。
「バンダー……」
嫌悪感以上に信用できる感情はないと言いきった彼の顔を一瞥した。
「もし世界中の人間が君を嫌っても、俺だけは君を好きでいるからな」
「やめろや、じゃあオレは」
バンダーがあごを上げ、深く息をつく。
「世界中の人間がおまえを好きになっても、オレだけはおまえを嫌いでいてやるよ」
「……そうか、それも悪くないな」
絆や友情とはまた違ったつながりを感じつつ、俺は盆地の底に急ぐ。
(残る文字は、あと二つ……)
次回「108.女のヨー(ญ)【前編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ローハン(ร หัน)→ロールア(ร)の重なったかたち(รร)で「アン」という音を示します。ハン(หัน)は「向ける」という意味なので直訳すれば「向かうロー」みたいなニュアンスでしょうか。例を挙げると「ガングライ(กรรไกร)/ハサミ」や「バンヤーイ(บรรยาย)/解説する」といった単語にこのローハン(รร)が見られます。
グラップバーン(กลับบ้าน)→家に帰る
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ここでお知らせですが、本作の第一章の前に「タイ文字一覧表【全42字+廃字2種】」を追加しました! タイ文字をざっと確認したいときに役立つ……かも?




